fragment -8


人物
 ・男
 ・想像上の電池
 ・中谷美紀
 ・外国人の女


[夜の街を男が歩いている]









 寒い、と男は思う。

 もう6月なのに、おかしい。スーツを着てるのに、6月の夜、半袖1枚で歩いていてもおかしくないはずなのに……寒く感じているのは自分だけだろうか。
 とても疲れている、駅から家まで、もう少し歩かなければならない。自分の家は駅から12分。疲労を抱えた男が帰るには適当に面倒な距離だ。もう少し駅から近いところにしたかった――しかし、自分の収入ではこれが限度だった、これ以上ましなところはなかった、だからこれほど疲れてる時でも、こうやって身体を引きずるようにして帰るしかない。
 さきほどから自分の後ろを女が歩いている。特に目を引くところはなく、こうして前を歩いていると顔も思い出せないのだが、どうやら外国人らしい。携帯電話を使いながら、やけに大きい声で喋っている。自分には喋ってる意味はわからない。意識を向けてみるのだけど、同じフレーズが二回使われることもなく、しかもほとんど一方的に喋っている。笑いもしないし怒っている感じでもないが、とにかく、なんらかの呪文のように喋り続ける。繰り返しのフレーズがない、というのはとても奇妙に思える。歌を聴くように聞き流すこともできない。右から、左へ、休みなく移動し続けるレミングを思い出させる。それは移動だ。携帯電話を通じて、女は1番から順に、外国語を送っているのだ。いつかレミングの群は最後尾を迎え、女は喋るのをやめる。それは間違いないことで、どうにかしてそれを聴き続けたい気もするし、聴くのが、聞こえなくなるときが、怖い気もする。自分にはよくわからない。自分は歩き続け、女はその後ろを、一定間隔を保ちながらついてくる。
 そういえば自分はイヤホンで音楽を聴いている。坂本龍一がプロデュースした、中谷美紀が歌っている曲が、両耳に流れている。耳の中に埋め込まれたイヤホンは直接頭の中に響く。頭の中がシンセサイザーの音を作り、流しているようだ。3分ほど、一曲でリピートするようにセットした覚えがある。アルバムの中の一曲で、英語詞の、休みなく中谷美紀が喋り続ける曲だ。中谷美紀がなにも喋らなくなる部分、間奏、インスト、と呼ばれる部分にさしかかるのがひどくイヤで、この曲をリピートするようにしたのだ。英語詞で、ほとんど意味はわからない曲。後ろから聞こえる携帯に向かった声と合わせて、二つわからない言葉を僕の耳と頭で聞き流しているわけだ。そういえばこの曲をリピートするようにしたのはいつだったろう、こうして歩いている時だからそれほど前ではないのだが、ずいぶん時間がたったように思う。
 後ろを歩く女はまだ喋り続けている。アジア系の言葉だと思うがよくわからない。
 唐突に、さきほどまで読んでいた宮部みゆきの長編が頭の中によみがえる。「火車」という本で、とても良いできだったように思う。宮部みゆきは、日本の作家の中でも別格にすばらしい作家だと自分は思っている。この本はしかし、疲れていた頭で中谷美紀の曲を聴きながら読み続けたので物語に深く入ることはしなかった。物語を右手で探り、中谷美紀の曲を左手で探っていたようなものだった。頭の中は今もまだ、中谷美紀が流れているが、物語は終わってしまい、自分は今疲れた身体で家に向かって歩いている。
 ああしかし――このCDプレイヤーの電源がなくなるのはいつだろう、と思う。電源はいつか終わる、それは唐突にくるのだ――とても怖い。その瞬間が、とても怖い。どうか、こうして歩きながら電源がなくならないで欲しい――しかし、それは唐突に、僕がどれだけ望まなかろうが関係なく、突然ぷつっと、途絶えるのだ、自分は何度もそれを経験しているのだ。鞄の中に予備の電池がないことを、自分は知っている。ああ、どうして電池を持っていなかったんだ、それを持っていれば、自分は落ち着くのに。頭の中を中谷美紀、左手で宮部みゆき、後ろに外国人の女、そして左手の中に電池。それで自分は落ち着くのに。
 しかし、まだ歩き終わらないのか。家までどうしてこんなに遠いんだろう、どうして自分は駅から12分もあるくところにしかアパートを借りられなかったのだろう、なんだか情けなくなってくる。身体は重いし、どうにも寒い。腕で身体をこすれば少し暖かくなるか、と思いつくが、しかしそんなことをしても家までの距離は変わらない、と思う。そうすることをやめる。少し自嘲的に思う、思いついて行動するまでにやる気がなくなるほどとても寒いし、それに疲れているのだ。どうしてこんなに疲れているんだろう。
 目の前を火のついたたばこが落ちており、それに目が向かい、自然な動作で足をそのたばこの上に押しつけ、少し振り向いてその火が完全に消えているのを――夜の街の中、明かりが消えるのを――見届ける。後ろはまだ外国人の女が喋っており、頭の中を中谷美紀は流れ続ける。頼むから家に帰るまでは、流れ続けていてくれよ。
 ――しかし、どうして自分はこんなに疲れているんだ?そして、どうしてこんなに家までの距離が長いんだ?
 少し頭がおかしくなってるのかもしれない。自分はある程度明晰で、狂うことなんて考えたことがなかった。自分の明晰さは、狂うような明晰さとはまた別のものだ、と思っていた。しかし、そういうものでもないのかもしれない、もし自分が明晰なのだとしたら、それは例外なく狂気への一歩であるのか。
 情報が頭の中をかけめぐり、それらはある狭間の部分――頭の中にある、右のものと左のものの間――で、一点を目指して動き続けている――頭の中を、原因と思われるものが駆け回る――それは<言語>というタームであり、<今日面接した会社の、面接官の女>というビジュアルであり、頭の中を流れている中谷美紀であり後ろを歩く外国人であり左手の中にない電池だ――

 そう、今日は入社のための面接を受けたのであり、だから今日はスーツを着ているし、夜、こうして疲れた身体で家まで歩いているわけだ。
 今日自分は、「失礼します」とはっきりと言って、名刺を受け取るときに両手を出して、「自分はこういう動機で貴社を」「そしてその理由は」「これから自分は」、と<動機>−<そのうちわけ>−<今後の展開>をしっかりと喋った。面接の勉強の通りに、しっかりできたと思う。それはテクニックとしてはあまりに簡単なことだ。大学入試のほうが、テクニックとして熟練を求められ、時間もかかったものだ。
 しかし、会社というのは、やはり、ああすることで、好評価を与えられるものなのだ、と思う。自分は今日、身体にぴったりとしたサイズの、真っ黒いブランドのスーツを着ていこうか、それとも親が送ってくれた<青山>という店で買ったスーツを着ていくか、悩んだ。自分はブランドのスーツのほうが好印象を与えられると思ったが、しかし同じくらい<青山>というスーツで行ったほうがいいと思った。どちらが、自分を「より確実に受け入れてくれるか」、「好評価を与えてくれるか」、真剣に悩んだ。彼女に電話で相談したら、「<青山>に決まってるじゃない」と言われたが、本当にそうだろうか、という気持ちは変わらなかった。彼女は、自分がこれから受ける会社のことを知らないのだ。自分はそういうものを考えに考えている、彼女の方が時間をかけていないに決まっているのだ。だから自分は、ものすごく悩んだ、結論はなかなか出なかった、なにしろこれは会社の面接なのだ、ただしい評価をしてもらわないと、自分は入社できないのだ――


 まだ自分は歩いている。疲れている。未だ寒さは抜けない。
 電話をしようか、そう、彼女に、電話をして、話を聞いてもらうのだ、と考えた。そうすれば少し寒さは抜けるかもしれない、疲れはとれるかもしれない――しかし、面倒だった。第一、もう少し歩けば自分の家まで着くのだ。靴を脱いで靴下を脱いで、ベッドに入って横になれるのだ。
 セックスがしたい。セックスになれば、やはり疲れはとれるだろう、狂気について考えることをやめ、快楽を味わうことができるだろう。――最近彼女の中に入ったことを思い浮かべる。<セックス>、というビジュアルを。しかし、自分のペニスにはなんら力が入らない。やはり目の前に<セックス>がないとダメなのだ。今目の前に、セックスはない。とても残念だが、しかたがない。
 今目の前にあるのは、頭の中の中谷美紀と後ろを歩く外国人の女、左手の中にない、しかし、あってほしい電池だ。宮部みゆきは残念ながら遠くに去ってしまったようだ。頭の中の中谷美紀と女の外国語に交互に意識をやる。英語とどこかの外国語。それらは止むことなく流れ続けるという点で共通している、自分を助けてくれている。これがなかったら自分はどれだけ不安だっただろう?この道を歩き続けることはできなかったのじゃないだろうか?座り込んで動けなくなってしまうのではないだろうか?
 もうすぐだ、もうすぐ、自分は家に帰れるのだ。









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