この手は何を掴みたかったのか

上松 弘庸


 『手』

 右手がいなくなってから3日が過ぎた。
 左手で冷蔵庫の扉を開き、牛乳を取り出す。牛乳パックの口を開くのは苦労するが、一度空けでしまえばラクに空ける事が出来る。僕は溢さない様にゆっくりとパックの口を開き、注意してコップに注いだ。最初のうちはコップを倒して、テーブルの上を牛乳まみれにしてしまう事も度々あったが。
 時計を見ると短針がもうすぐ[を指し示そうとしていた。部屋を見まわして右手がまだ帰ってきていない事を確認して、僕は家を出た。右手の事はあまり考えない様にしている。
 会社には病欠という形を取ってもらっているが、流石に何時までも休んでいる訳にはいかない。明日、明後日までには出勤しないといけないだろう。右手に逃げられた事が社内の人間にバレたら何と言われる事やら。
 くそっ。右手の奴め。
 3日前、僕は彼女と別れた。些細な事だったが、或る出来事で2人の関係がギクシャクしはじめ、嫌になった僕は別れ話を持ち出したのだ。彼女は意外なほど冷静に承諾した。最後の会話は淡々としたものだった。誰でも経験する恋愛の終局。それは僕にとっても彼女にとっても驚くほど味気ないものだった。思い出さえも残らなかった。
 そんな風にして家に帰ってみて、僕は初めて右手がないことに気が付いた。右手がなくなるなんて始めての事だったので、勿論驚いた。でも考えてみると右手の気持ちも分からなくはない。僕が右手でも愛想を尽かした事だろう。僕は左手で右肘を掴み、肩の付け根から引き千切った。右肘は音を立てて床に落ちた。今も床に転がっているままだ。

原題「それでも私に必要なもの」
副題「右手に掴めたもの、そしてもう掴めないもの」


 洞窟の中で、僕は宝箱を見つけた。鉄でできた宝箱だ。鍵は掛かっていない。僕は宝箱を空けようとした。しかし、どれだけ力を入れても宝箱は空かなかった。僕はむきになって宝箱を殴ったり、地面に叩きつけたりした。それでも宝箱はびくともしなかった。地面に転がる宝箱の底の方に、小さく文字が書いてあった。
 『邪悪なる者には心の扉は開かれないであろう』

 「実は、私も昔左足に逃げられた事がありましてね」
 左手でぎこちなくスピリタスを飲む僕を可愛そうに思ったのか、マスターが言った。
 「手ならまだしも、足が無いと大変ですよ。本当に大変ですよ」
 「そんなに大変だったんですか?」
 「ええ。もう大変で大変で。何せ長年使い続けていた自分の足ですからね。他人のを借りてきてくっ付ける訳にもいかないんです。何しろ長さが違いますからね」
 「今も足は無いんですか?」
 「今は右足にも逃げられたんで、妻から借りてる始末で。いや、足じゃなくて手なんですけどね。だから今、私は4本の手で生活してるんですよ。しかし、あれですな。暫くすると人間なんて何でも慣れてしまうんですね。まぁ足が手になったって、それほど生活には苦労しないですよ。手が足になったって、それほど変わりはしないでしょう」
 僕は案外そんなものかなと思いながら、ただじっと耳を傾けていた。
 「ただ、眠れない夜に逃げた足の事を考えたりするくらいです」
 それからお互い特に話す事も無くなった。

 外に出た僕は、駅前の大通りへと足を運んだ。別に目的があった訳ではない。ただ、家に居てもやる事が無い。それに、何か物足りない。
 駅前は人のような物が雑多に蠢いていた。少々騒がしいが、今の僕には丁度良い。僕の右手が無くてもコンビニはいつも通り年中無休で運営しているし、嫌になるほど多くの車が汚らしい排気ガスを撒き散らしている。駅前の信号の待ち時間は相変わらず長いままだし、右手で物を掴める厭らしい奴らはそれぞれの目的地に向って足を運んでいる。
 何も変わってない。

 最近、酷く寝付きが悪い。

 ところで僕は、生まれ付き左目が見えない。右目だけに映るものが、僕の世界の全てだ。もしかしたら、僕には他の人の半分しか世界が見えていないのかもしれない。だけど、それは別に構わない。生まれた時から僕は半分の世界で生きているというだけだから。寧ろ、有難いくらいだ。世界が半分なら失うものもきっと半分だろう。得るものが少なければ失うものだって少ない。
 最初から右手なんてなければ良かったのに。

 家に帰った僕は、床に転がっていた自分の右肘を右肩に取り付けた。
 特に変化はなかった。
 やはりこれでは駄目だ。意味がない。

 右手がいなくなってから、目に見えるものの価値が低くなった。長年使い慣れた箸や爪切りはもう捨ててしまった。古きに重みを置く事はもうできない。新しいものを手に入れなければいけない。手に入れ続けなければいけない。
 さようなら。昨日までの自分。
 こんにちは。今日からの自分。
 だけど昨日までの自分が持っていたものは今日からの自分は持っていない。変わりになるものなんて或る筈がないのに。
 それならいっそ、壊してしまえ。

 一体何なんだ。僕には何が足りないんだ。
 次第に大きくのしかかってくる暗雲が、僕の世界を徐々に包み込んだ。

 Call me.誰か僕を呼んでくれ。
 僕はいつだって飛んでいくから。
 Come on.誰か僕の所へ来てくれ。
 僕はいつだって待っているから。
 Please…Please…

 「たった1回で良いんです。僕に右手を貸して下さい。お願いします。たった1回、1日、いや半日で結構です。僕には右手が必要なんです。お願いです、お願いです…」
 薄れゆく意識の中で、殴られ続けながら僕は懇願していた。
 「お願いです。どうか、お願いします。たった1回だけ僕の為に右手を貸して下さい。僕には必要なんです。僕には右手で掴めるものが必要なんです。形或るものじゃない。右手だけでも左手だけでも掴めない。大事に大事に抱え込む、それが一体なんだったのか、それを知るだけで良いんです。お願いします。どうか憐れな僕を救って下さい。どうか、どうか、哀れな、必要なんだ、大事なものなんだ、だから、取り戻す、絶対、全て失ってもいい、それほど、それほど…」
 倒れている彼女を見て、僕は殴っていたのは彼女ではなく自分だった事に初めて気が付いた。白濁した液体にまみれている彼女の顔。僕は何もしていない。彼女の右肘から下は僕の右手が付けられていた。僕は気絶している彼女の右手を引き千切り、自分の右肘に付けた。紫色に変色した彼女の顔が僅かに歪む。僕は自分の右肘に付けた。

 しかし、それから僕は何も掴み取る事はなかった。