磁気手




海坂他人






 生来、霊感というものの持合せが無いらしく、幽霊にもUFOにもとんと縁が無いのですが、――しかしこの二つ、考えてみれば全く由来が違う筈なのに、並べ称されるのは何の訳でしょうかね――今まで一度だけ、私じしんの手が、何とも妙な怪異を起こしたことがあります。
 いえ別に、物が浮いたとか、スプーンが曲がったとか、かめはめ波が出たなぞいう派手な力ではありません。些細な上に何の役にも立たない、いわば困った「気」だったのですが、その不思議は未だに忘れられないので、かいつまんでお話ししてみることにしましょう。
 私はその日、大学前からいつものようにカードを入口の機械に通して、バスに乗りこみました。二月初めの寒い日で、空には弱々しい日射しが充ちていました。
 その時、自分がいったい何を考えていたものやら、よくも覚えておりません。月並みな言い方をすれば、私は深い絶望の中におりました。
(結局駄目だったのだ……全てが終わってしまった……ようやく……)
 まあ言葉にすれば、こうもなるのでしょう。つい今し方、学部長の判子をもらった退学届を、教務に出して来たところでした。
 理学部を卒業して、同じ研究室に残って院に進んだ私でしたが、何もそこで行われていた研究に魅力を感じた訳でもありません。四年の夏、漫然と院試に通って、――ちょうど重点化とやらで定員が増えて、試験さえ受ければ誰でも入れたのです――翌春、卒論にかかるころにはもう後悔していました。
 一言で申せば、研究室と私の、お互い相手に求めるものが全く食いちがっていたのでしょう。私も何とか自分を合わせようとして耐えておりましたが、向こうも同様に我慢していたに違いありません。
 今でも思い出しますのは、学生部屋の主、助手の大槻さんのことです。クラシック音楽が好きで、よくCDを小さく流しながら机に向かっていました。
 私も好きでよく聴く位なので、それ自体全く苦にはならないのですが、彼の場合、その聴き方が異様でした。好きな曲の好きなくだり――たとえばバッハのチェンバロ協奏曲第五番の第一楽章――それだけを、立てつづけに何回も何回もかけ続けるのです。
 レコードCDテープの類はその為にあると云えば、確かにそうかも知れません。しかし私はどうしても異様な感じを受けてしまうのです。たとえ媒体による再生でも、バッハの曲が鳴っている時、その空間には彼の精神が音の流れとしてゆらめき上っている。音楽の中に浸る時、――たとえ仕事をしながらでも――作曲家の音の言葉と私たちの心は、その時々で二度とかえらぬ対話を行っているのではないでしょうか。
 大槻さんは温厚な紳士ではありましたが、時にぞっとする程冷たい、非人間的な顔を向けて来ることがあり、私はしだいに圧迫を感じるようになりました。
 結局、今にして思うと、音楽は道具であると割り切っている人と、同じ曲を間をおかずに聴くなど人間性の浪費、冒涜としか考えられない人間との食いちがいだったようです。いろいろな事がありましたが、今回の「超能力」の話には直接には関係はありませんから、一切省くことに致しましょう。
 院に二年いて修士をとった頃には、もう私に職を探す気力は残っていませんでした。すると当然そのまま次は三年の博士課程に上がることになるのですが、ついに耐えかねて、籍はそのままで一年休学させて貰いました。身の振り方をゆっくり考えるつもりでしたが、私とあの研究室とは、この時すでに切れたのかも知れません。
 休学期間も間もなく終わるという年度末、教授の藤村先生は、やはり戻って来るように勧めて下さいました。しかし大槻さんは私などとうに、「使えない奴」と見切りをつけていたのでしょう。
 教授に次の研究の助言まで頂いて、一度は復学する気になり、学生部屋に挨拶に出向いた私に浴びせかけられたのは、
――覚悟は出来てるの。
という冷たい一言でした。
 一瞬絶句しましたが、何か糸が切れて身軽になったようでした。やっぱり、もう駄目だな、と思いました。
 辞めます、私。そんな覚悟なんか無いですから。即座に教授室に戻って、藤村先生にもお断りをし、翌日、学部長の所へも出向いて一応の事情をきかれ、退学届に三つの判がそろいました。あっという間でした。
 明日からはもう行く所はありません。これから自分は何をして生きて行けばよいのだろう……? 研究者になるのでなければ、理学部など、卒業しても何の足しにもならないのです。
 駅前の乗りかえでバスを降りようとして、コートのポケットに入れていたカードを、今度は降り口の機械に通すと、何故か突っ返されて来ました。折り目なぞつけた訳でもないのに、何度試しても駄目だったのです。
 私はあいにくその日、小銭が無かったのか、お金を持っていなかったのか、とにかく運転手さんに掛け合って、ゆるしてもらったような覚えがあります。情けないことでしたが、もうどうでも良い、勝手にしろと居直った気分でした。
 バスプール地下の窓口で見てもらうと、磁気で記録されたデータが、どういう訳か壊れていたようでした。フロッピーやテレホンカードも、口金に磁石のついたバッグに入れたとか、エレキバンと一緒にして置いたとか、とにかく強磁界に曝すといけないとはよく申しますが、ふだん何の変もないポケットで、今日に限って磁石など持っている訳もなし、なんとも不思議なことでした。
 裏面に印字されていた数字を頼りに、残額だけ――五千円のカードで、四千円近く残っていたでしょうか――使えるようにした新しいカードが発行されました。窓口の小母さんは、駄目になった奴を大きな台帳に丁寧に貼りつけて、日時を記し込んでいました。悪用を防ぐためでしょうね。
 何だったんだろう一体、と、引っかかりは感じながらとりあえず新しいカードを受け取って、乗り場に赴き、並んでいるうちにバスが来て、いざ乗り込もうとすると、ついさっき発行されたばかりのカードがまた弾かれてしまったのです。
 何しろ文無しで、カードが無いとバスに乗れませんから、諦めて先ほどの窓口に戻りました。再び同じカードを作ってもらい、次のバスを待って、乗ろうとするとまた弾かれてしまいました。
 この調子で、合わせて三四枚もカードを壊しましたでしょうか、確かな数は覚えておりません。窓口の小母さんの様子も、またこの兄ちゃんかいと呆れかえっていた筈ですが、印象には残っていません。
 ただ覚えているのは、まるで俊寛僧都のように来るバスに次々と置いていかれ、俺はまともにバスにも乗れないのか、と泣きたいような気分で地下道を歩き回っていた自分と、枕を並べて、という感じで台帳に貼りつけられた、虎の写真のついた何枚かのカード。
 これらは、研究室を馘になるという、陰惨ながらどこか滑稽な事件と、私の中では分かちがたく結びついているのです。

 あれから三年が経ちますが、とつぜん磁気カードが壊れるなどという現象は、一度も起こっていないようです。
 この年の春から、私は高校の化学の講師として勤めはじめました。今もあちこちの学校を一年ごとに渡り歩いているのですが、ずいぶん昔のことのような気がするのは、そのせいでしょうか。
 あの日、どうやって家までたどり着いたのか、と言えば、別に歩いて帰った訳でもありません。何枚めかのカードがやっと機械のご機嫌にかない、乗る時は良くても降りる時はどうだろう、もし壊れていたらまた踏み倒しか、と心配でしたが、まあどうにか働いてくれましたからね。
 それにしても、どうしてま新しい磁気カードが次々に壊れたのかは謎と言うよりありません。
 その時もよく考えてみましたが、実際、ふだんと変わった持ち物は何も身につけていなかったのであります。
――俺の手から、何らかの破壊的な「気」が出ている。
 精神的に追いつめられたのが原因で、にちがいない。そういう解釈が、自然に来ました。
 私は今もそう思っておりますが、実際には人間の筋肉には常に微弱な電流が流れていると言いますから、それによって生じた磁界が、精神的ストレスによって強められたりもするものでしょうか。
 しかし本当にそういう事が起り得るのかと言われれば、さあ、如何なものでしょうね。……いずれにせよ科学の世界から放逐された日としては、象徴的な出来事でした。それだけは間違いなく言えるようであります。