後記
 
 

 
 帰省の際にはいつも、実家の書棚から文庫本を失敬してくる。東京に向かう電車の中で読もうという魂胆である。
 先日も私は東京に向かう電車の中で、思春期の真っ最中である中学生を主人公にしたある小説を読んだのだが、そこにとても印象的な一節があった(その作品名、著者名については、あえて言及を避けたいと思う)。
 曰く、「セックスのやり方は、誰にも教わらなくてもわかるのに、人の愛し方は、誰に教わってもわからない」。

 セックスというのは言わずもがな、私たちが本能として持っている欲求にしたがっているものなので、例えば私たちが、呼吸の仕方や、食べ物の消化の仕方、筋肉の動かし方や、睡眠のとり方を、誰にも教わっていない内からきちんと出来ていたことと似ている。
 それでは、人を愛すると言うことは本能ではないのか。
 私は、実はそれも本能ではないかと思う。ロマンチシズムとしてではなく、経験的に。理屈では説明しきれないから、型にはまらないものだから、誰かに教われば解るというものでもない。仮に、自分が人を愛する方法を完全に習得したとして、そのやり方を他人に伝えるのは、極めて困難なことなのだろうと思う。

 勝手に、それを文芸と絡めて、私は思考する。
 文章を書くと言うことは、知識や技術が必要に見えるが、実は『誰にも教わらなくてもわかる』行為だと私は思っている。文章を書くという言葉に語弊があるなら、《伝達するために言葉を残すこと》と言い換えても良い。古代より文字が作られ、今の私たちが歴史の流れを垣間見ることが出来るのも、その本能のおかげである。
 そして、読むという行為は、『誰に教わっても解らない』事ではないだろうか。百人の読者が居れば、百通りの受け止め方がある。読めば、笑うことや泣くことから、憤慨したり、何も思わない事まで含めて、色々な形がそこにはあり、読者の作品との交わり方は、あくまで自由だ。そして、自分がどう受け止めたのかを他人に説明することは出来ても、他人が同じ受け止め方を出来るように説明するのは困難である。

 しかし、何れにせよ、書くことも読むことも、ある意味では人間の原始的な欲求を満たす行為であり、この東京文芸センターにはそういった人が集まってきていると思うと、楽しい。私は、書くことも楽しんでいるし、自分なりに読むことも楽しめる。その上、時には他の人がどのように読んでいるのかを垣間見て楽しむことも出来るので、一石三鳥といったところだ。
 まだ読むことしかここで楽しんでいない人も、そのうち、この場所を利用して書いてみてくれたら良いと思う。
 いつだったか、「どんな人間でも、一生のうちに一作くらいは名作が書けるものだ」と、どこかで聞いた。人間とはつまり、そういう本能を持った動物なのだから。

 ──というわけで、tbcは引き続き、参加者募集中です。




東京文芸センター Vol.16

 執筆 :上松 弘庸 
        :神田 良輔 
        :潮 なつみ 
        :岩井市 英知
        :c h o c o
 後記 :潮 なつみ 
 タイトルページデザイン
    :岩井市 英知
 監修 :東京文芸センター