虹色の月、灰色の月

  本来、「後記」と記されねばならないところに見慣れぬ文字列が並ぶことで、それが本来の後記とかけはなれた顛末になることはぼくとしても避けねばならないが、それなりの意味を込めて表題とする。

  ぼくはねんねん本を読まないようになったと言った。それは月が想像していたよりも変にでこぼこで夜空を見上げて見るようには黄金色ではなく、ただそこにあるだけの惑星なんだと知ったからかもしれない。
  家人が留守のガールフレンド宅に自転車を漕いで急ぐ道その存在に励まされようと、不良少年数人と喧嘩をして口を切って顔を腫らして無人の公園で夜明かししたときその存在に心なしか慰められようと、何も変わらない。月のほうで意識して輝いたり、また、手を抜いたりはしないのだ。
  だが、ぼくがまだ本を沢山読んでいた頃。一冊四百円ぐらいの文庫本は特別な知識と恍惚をもたらしたし、古本屋の軒先のワゴンの中の五十円のカバーのない文庫本も数え切れぬ輪廻とある日突然に訪れるであろう切れ間の兆しをその重厚なカビ臭さをもってぼくに知らせた。
  評判のたたない「よい」本を手にする偶然にひどく高揚し、独占する喜びを感じた。理想的な口説き文句たちはただの飾り物ではなかった。 何故ぼくが文章を書くのかといえば、ひとつ、「恋しさ」ゆえだと思う。当然届かないし、戻れない。

  ぼくがかつて読んだ本を少し紹介しようと思う。全部じゃない。また、ぼくのことだから仮に文章を論ずる術を覚えればそれなりに駆使し、それなりに長けて、きっと君たちはぼくの見事な弁論に舌を巻いてぐうの音も出ない。だけれど、きっと、それには意味がないのだ。だいいち、おおげさ過ぎる。
  また特別な本じゃない。そこらで簡単に売っているし、読めるなら読んだらいい。もしかしたらもう既に読んだかもしれない。もっと「よい」本がたくさんあるだろうし、それをぼくが読んで仮に「良くない」と言ったからって、うっかり文句は言わないでくれよ。逆もしかりだ。だけどぼくは本当のことしか言いやしない。


  『スティル・ライフ』池澤夏樹 (中公文庫)  ぼくが小説を書こうと思った全ての基盤のような気がする。これを読んですぐさま小説を書こうとは思うわけがない。世の中にそんな本がもしあったとしたら、まず間違いなく悪書だ。高校生の頃に読んで、二十二歳で小説を書いた。全ての青春小説はこれに適わないまま、ぼくの中に残る。

  『飛ぶ夢をしばらく見ない』山田太一 (新潮文庫)  シナリオライターとしてあまりに有名だが作家として書いたこの物語は、ぼくの知る限り、古今東西のありとあらゆる美しい物語と比べて、飛びぬけて悲しく美しい。高校生の頃にこれを読んでいなければ、おそらく今も物語を信じてはいない。


  『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 (岩波文庫)  ぼくは全てのぼくよりうんと若い人には一度読んで欲しいと願う。きっと何を読んだかなんて重要じゃなくて、どんな本を好むかも重要じゃない。ただ、ただ一度読んで欲しいのだ。とても君には退屈だし、君のためにもならない。勿論、ぼくにもだ。高校生の頃にこれを読んで、しばらく愉快な友達とは口を利かなかった。それだけだ。


  『林先生に伝えたいこと』灰谷健次郎 (新潮文庫)  ぼくの思う、世界で唯一正しくまともな人。残念なことにぼくの世界はとても狭く、広い世界を知らない。きっと共感も出来ないし、ここでみっともなく這いまわるしか結局は出来なかった。だけれど、ぼくは正しい人にこの世界にいて欲しい。


  『我輩ハ苦手デアル』原田宗典 (新潮文庫)  文章に貴賎なんてとてもじゃないけど、ないらしい。まったくもって肯定する気にもならないが、いち時期、他人が原田宗典を好きというだけで「クソが」と痰を吐いて回った憶えもある。今はどうも思わない。実際読んでみても、まぁ、楽しいんじゃないだろうか。やっぱりぼくは文章を書いてお金を貰えたとしてもそれを望まないと思う。



  五つをあげた。好きな本を紹介するのとはわけが違うので、そうは捉えられたくはないが。近しい人に薦めるのなら、最初の二つだ。
  どうも、新潮が多い。それは、ぼくがある時期新潮文庫の新刊を片端から買っていたからで、他意はないのだ。その時、小遣いのほとんどは本代で消えていた。ぼくは満足だった。それからやがて、それはコンドームを買ったりカラオケ代になったりして消えるようになったが。
  ここで、例えばサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』から『SW(サウス・ウインブルドン』(正式なタイトルは略)なんかのコミック路線への傾倒や、村上春樹、大江健三郎、それらも勿論好きなのだけれど、わざわざ薦めるのも詮無いことだ。
  小説は(随分と現実的に言えることだが、あるいは作家は)アイドルとは違う。だから、『風のうたを聴け』を読んでデレク・ハートフィールドを求めて図書館に押しかけても学芸員の赤いフレームの眼鏡の学の有りそうな女の人に「ありませんよ」と冷ややかに鼻で笑われるのがオチだ。

  実のところ、これらを紹介したのなんてたまたま段ボールから昔の本を発見しただけの理由であって、それ以上のことではないかもしれない。
  多くを語るには、あまりに残酷だ。ぼくはこの場所や違う場所で、趣味という名にかこつけてぼくにしては沢山の小説を書いた。結局は月は虹色だったのか灰色だったのかと訊かれてもうまく答えることが出来ない。本当は、なんて、言うことが出来ない。

  ぼくの言うことに異を唱える人にも表題のカタルシスやなんかを分かってもらえたらと思うが、たとえそうでなくても、ぼくはビールをあおったりして、自己満足に陥りながら、それでもこうやって暮している。
  夏には、コロナビールの口に八等分のライムを差してそれごと口を親指で栓をして逆さに振ると、黄金色の水泡が立ち昇りライムの香りがたちこめて、それが綺麗で、美味しい。それなら分かるだろう。

  そういうことだ。それじゃぁ、また。










東京文芸センター Vol.19

 執筆 :上松 弘庸 
        :神田 良輔 
        :潮 なつみ 
        :岩井市 英知
        :c h o c o
 後記 :岩井市英知
 タイトルページデザイン
    :岩井市 英知
 監修 :東京文芸センター