僕と文学と校庭で。




麻草カヲル






 きょう、文学が死んだ。
 もしかしたら昨日だったかもしれない、僕にはわからない。100年前に死んだって話も聞くし、エルヴィスみたいに実はまだ生きてて、ドーナツをぱくつきながら、ブクブク肥え太っているなんて話も聞く。
 いずれにせよ、僕如きが異邦人を気取りつつ、小声でありながら明瞭な発声で「剽窃」を「オマージュ」と言い切れるくらいには、文学は死んでいる。正直な話、今回依頼された人達の中には、多分同じ書き出しを思いついて、ボツにした人もいるはずだ。もしかしたら僕と同じくらい厚顔な人がいるかもしれないが、もしいたとしても僕の責任ではない。
 とにかく、僕の文章が何番目に読まれたとしても、文学は既に殺されているはずだ。

 はい、文学は殺されました。さて、ここで問題です。
 文学は殺されるまで、生きていたのでしょうか。

 殺されたり死んだりする、わけのわからないもので、一番有名なのは多分「神」だろう。神の死を考えることで、文学の死因に関連するひらめきが浮かぶかもしれない。
「神は死んだ」という言葉を知らない人の為に、少し説明しておこう。
 昔々、あるところに一人の神様がいました。本当はいるのかいないのかわからないけど、いるという事になっていました。とにかく、ヨーロッパという村では、何千年も一人の神様が「いる」という事になっていたんです。
 昔は、自然に起こる色々な出来事の原因がわからなかったので、それらは全て神様の仕業にされてきました。神様は、何かを説明する為に、いる事にされていたのです。
 ところが、つい数百年前から、ヨーロッパの村人達は「科学」という考えかたを使って、自然の色々を解明してしまいました。
 さあ大変、世の中のほとんどの事が説明づけられてしまっては、神様の出番がありません。
 神様自身は、いるかいないかわからないので困りませんが、神様を信じていた人達は、たいそう困りました。なぜなら、何百年も村人達は神様の言葉を信じて生きてきたからです。正確には神様の言葉を伝えてくれる人達を、信じていたんですけどね。
 村人達は、神様がいなくなって、なんとなく悲しくなってしまいました。
「神様おらんと、おいは何の為に生きとるのかわからんよ、どぎゃんすればよかとね」
 そこで、村一番の暴れ者ニーチェは、知恵を絞って言いました。
「あきらめんしゃい、神さんば死んだっとよ。だけん、皆が超人になって、神さんみたいになればよかたい」
 ニーチェは暴れ者なので、言葉は乱暴でしたが、皆はなんとなく勇気付けられた気がして、ニーチェを誉めました。
 そして、神様は死んだのです。

 さて、そのような訳で神は死んだ。だが依然として神の存在を否定できない人々がいるのも確かな現実だ。それはなぜか。
 神はそもそも「いるかいないかわからない」ものだからだ。
 例えば推理小説では「被害者不在」の殺人事件が立証されたりする例があるが、これはあくまで現場検証や状況を推理した結果に導き出される結論であって、ものによっては結末で死体が発見されたり実は死んでいなかったり双子だったりする。
 神の死体はまだ発見されていないが、これから先も発見されはしないだろう。
 そういうものだ。

 文学は概念である。そんな事はわかっとるという人はもうこんな文章は読んでいないだろう。とにかく文学は三丁目の角に住んでて犬を飼っていてたまに散歩してるの見るけど仕事は何してるんだろうねお母さん、などという存在ではない。
 概念である文学が生きていた時代があるとすれば、それは神と同じように、その能力が実際に効果を持つと「信じられていた」時代だ。文学の持つ力が信じられていた時代、そもそも信じるべき文学の持つ力とは何か?

 文学の持つ力、それは「意味を人に伝える力」だ。

 ならば高らかに宣言しよう。文学は殺された、誰の手によって?
 殺した者の手によって!



 そして文学は二度死ぬ、三度死ぬ、何度も何度も殺されては蘇る。宇宙に行ったり地獄に落とされたり、落ち込むこともあるけれど、文学は元気です。

 今日も誰かの手によって文学は殺される。

 一切がはたされ、文学がより孤独でないことを感じるために、文学に残された望みといっては、文学の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、文学を迎えることだけだった。