埋葬




美咲






 いつまでも泣き続ける彼女を、僕は抱きしめることしかできなかった。
「何でそんな平然としてられるのよ。悲しくないの?ねえ、なんともないの?」
 僕らの前には犬の死骸が転がっている。2人で拾ってきた犬だ。三日月の夜に拾ってきたのでミカヅキと呼んでいたが、彼女の実家から送られてきた大量の蜜柑を好んでよく食べていたのでいつかしらか、ミカンと呼ばれるようになった。
 僕だって別に悲しくなかったわけではない。ミカンは僕より彼女になついていたし、僕がやっと手に入れた絶版の小説やらベッドやら所かまわずオシッコしたし、真夜中になると時々、何かに怯えるようにキャンキャン鳴き喚いた。
それでも僕はミカンが好きだった。いつも温かくて柔らかくて、触れているのが好きだった。くりくりとした目で覗かれるのが好きだった。
「まだ温かいのよ。ほら。触ってみて。」
 彼女が僕の手を握り、死んでしまったミカンに触らせる。ミカンは冷たくもなく温かくもなく、まだやわらかくて生きているようだった。でもその目は見開かれたまま一点を見据え、ピクリとも動かなかった。
絶えず動いていた鼻も苦しそうにしていた息も、もう動くことはなかった。それでも僕には涙を流す方法がわからなかった。
「どうしていつもそんな冷静なのよ。どうして、」
彼女は激しく僕をなじりながら、僕の目を見ようとはしない。

 翌日、堅く冷たくなってしまったミカンの亡骸を、山へ埋めることにした。彼女はミカンを土に埋めることをイヤがって一日中泣いていたが、夜になってミカンを拾ってきた日のような消えそうにとんがった三日月が出ているのを見て、お葬式は今夜にしようと言い、ようやく車に乗り込んだ。泣きつかれたのか静かに黙り込んだまま、タオルにくるんだミカンを抱きしめていた。
 大きな木が一本立っている景色の良い丘につくと、僕はエンジンを止めた。シャベルはもってなかったので、園芸用のスコップで土を掘った。昨夜雨が降ったおかげで土はやわらかく、直径30cmぐらいの穴はすぐに作れた。彼女はミカンを抱きしめたまま、しばらく泣こうかどうしようか迷っているように見えたが、また泣くことにしたようだった。しゃがみこんで、ミカンを抱きしめたままずっと泣いていた。
その間、僕が思い出していたのはミカンのことではなく、祖母のことだった。

 小学校に上がるぐらいまで一緒に暮らしていた祖母は、ある日体調をくずして入院し、それから死ぬまでほとんど家に戻ってくることはなかった。
 父は遅くまで仕事で家には帰ってこなかったし、母は昼間は看病でずっと病院に通い、夕飯を作りに家に帰ってきてから、またパートに出かけていった。父も母も、生活に疲れきっていた。僕はそれを幼いなりに感じ取っていたので、淋しくても泣いたりせず、ワガママを言って困らせたりすることもほとんどしなかった。そうして、自分の感情を押し殺すことになれてしまった。

 祖母がもうすぐ死ぬ、と何度も電話があり、そのたびに夜中であろうがなかろうが僕ら家族は病院に呼び出された。そうして7年という長い闘病生活の果てに、祖母は死んでいった。中学2年の夏だった。最後には口や鼻、腕、胸、腹、身体中に管を突っ込まれて、意識も無いままだった。
 葬式で盛大に泣く親戚たち。僕ら家族は誰も泣かなかった。むしろ僕は祖母が死んだことでほっとしていた。あんな風になってまで、僕なら生きたいとは思わないからだ。

「あたしもらい泣きしちゃったー。」
「あたしもー。」
「だって、そっちが先に泣くからでしょー。」
「ちょっとだけ泣いただけなのに、横みたらめっちゃ泣いてんだもん。止まらなくなっちゃってー。」
 火葬場へ向かうバスの中で、葬式のとき一番前の席で号泣していた女の子2人が泣き自慢大会をしている。まだハンカチで時々目を押さえながら、バーゲンセールについて話し合うのと同じようなテンションだった。
こんな風に泣けたらすがすがしいだろうなと、少しうらやましかった。

 時間をかけて祖母の体は焼却された。まだ熱い火葬部屋の中へ入ると、なんとも言えない今まで嗅いだことのない焼き焦げた匂いがした。人の骨を見るのははじめてだった。それはあまりにも真っ白で、細くて、この間まで生きていた人間とは思えなかった。
 ひとりひとり、祖母の骨を鉄の箸でつまんでは、ツボに入れていった。さっき泣き自慢をしていた女の子も泣くのを忘れて、呆然としている。誰も何も言わなかった。余った大量の骨を母が、苦心してツボに納めた。

 帰り道のバスでは、皆また明るさを取り戻して、何事もなかったかのように世間話に花を咲かせていた。僕はひとりで、外の風景を眺めていた。
くっきりとした緑色の山の間から、黄色味がかった西日が射し込んでいた。まだ5時過ぎで日が暮れる時間ではないと思っていたけれど、そこは山奥だったので僕の認識とは関係なく、世界は夕暮れを迎える準備をはじめているらしかった。
 僕はその風景を、なんだかニセモノのように感じていた。テレビ画像か何かのような。周りを囲む山はびっしりと木で覆われていたが、一本一本を見定めることは出来なかった。僕は小さいし、バスはそこからあまりにも遠い。それは全体として木の集合体と認識できるけれど、近づいてみると実は、精巧に書かれた絵なのかもしれない。
 川は流れや光の加減でやっと水と認識できるほどの透明さで、汚染されたドブ川を見慣れた僕の目にはそれは、川のようには見えなかった。時折、民家が密集した場所があり、さびれた店があった。こんなところに住んでいる人間が一体どんな生活をしているのか、全く想像がつかない。

 バスの背後から、どす黒い雨雲が追いかけてくるのが見えた。その雲の下から地上までの間は霧のようにかすんで見えていたが、近づくにしたがってそれは落下する細かな点の集合体つまり、雨だということがわかった。雨が降っているところとまだ降っていないところの境界がくっきりとわかれていて、風になびくカーテンのようにゆらゆらと揺れていた。
 それは山の向こうからゆっくりと、次第に速度を速めながら近づいてきて、あっと言う間にバスを激しい雨の中に包んでしまった。だけど西日は消えなかった。天気雨だ。
 そんな激しい天気雨を見るのは、生まれて初めてだった。屋根や窓に打ちつけられた雨粒は、すぐ後ろの人の話し声も聴こえないほど大きな音をたてた。透明な縦線が無数に重なり合い、ずっと向こうの方までキラキラと光りながら続いていた。

 しばらくして雨は突然止み、静まりかえった空に、虹が出た。その虹はちょっと歩いていけば中に入れそうなぐらいの距離からはじまり、空の端っこまで伸びていた。誰かが発見して大声で知らせると、老人から子供まで一斉に窓の外を見て、感嘆の声をあげた。その虹には光の屈折で起こる現象なんかじゃなくて、本当に「虹」という物質がそこから生まれてきたのだと思わせるほどの、存在感があった。
 誰もがこういった風景に感応するのは、誰の体内にもそれと同じような風景が存在しているせいなのではないだろうか、と僕は思った。風景が僕らを含んでいるのではなく、この風景が含まれている場所があって、死んでしまった祖母も僕も、そこに立っている。どんなに遠くへ行っても時間が流れて誰も居なくなっても、変わることは無く存在し続ける。そういった場所があるように思えた。
 大きなカーブを曲がると虹は遠く小さくなり、ゆっくりと消えていった。

 煙草の吸殻が僕の足元に山をつくるころ、ようやく彼女はミカンを穴の中におろした。
「バイバイ、ミカン。今までありがとうね。」
 彼女が泣きながら素手で土をすくい足の方からすこしずつかけてゆくのを、僕は少し離れて立ったまま、黙って見ていた。消えてゆくタオルの白は、月明かりの中でひとまわり小さく見えた。最後にタオルにくるまれた頭が見えなくなると、僕はしゃがみこみ、一緒になって土をかけた。余った土で作った山は、思ったよりも大きかった。
爪の間にはさまった土の黒はしばらくの間、洗っても落ちなかった。