オシュンの歌




高野 恵一





    (一)

 高橋優子はひとり傘をさしたまま、湖のほとりにしゃがんでさざ波を見ていた。赤い小さな傘が霧のような雨ににじんで見えた。私がそんな彼女の姿を見たのは、もう二十五年も昔のことである。高校の行事で、途中から雨にたたられた一泊二日のキャンプだったことを思い出す。キャンプでは天気が悪いのにもかかわらず、クラスの仲の良い者同士は一緒にはしゃいでいたのだが、彼女はいつもひとりぼっちだった。
 彼女は転入生だったせいもあるのだろうが、私は友だちと遊んでいる快活ではつらつとした彼女の姿を、ほとんど見かけた記憶がない。もちろん、ふたりは違うクラスであったこともあるし、実は、私のほうも転入してきたばかりで、彼女の存在にそれほど興味を持っていなかった時期でもあったからだろう。ときどき、他の女の子と歩きながら、はにかむように微笑んでいた彼女の顔を見たことがあるから、まったくのひとりぼっちと言うわけでもないはずだった。ただ、私には、とてもまじめで、大人しい静かな彼女の印象が心に残っている。
 彼女のそんな印象は、私が学校の雰囲気になれてきたころも変わらなかった。いつも見かけるときはひとりでいるか、あるいはごく仲の良い女の子とふたりきりだったように思う。間違っても男子生徒とふざけて、はしゃぎ回るような真似をすることはなかった。
 そんな彼女に、私が初めてはっきりとした恋心を抱いたのは、先の雨のキャンプ場で彼女が湖をひとりで見つめているときだった。私は、彼女のさみしそうな姿に、もしかしたら強い同情の気持ちを持ったのかもしれない。しかし、小さな赤い傘の中にうつむいた彼女の横顔は、当時、私が知り得る誰よりも美しかったと言っていい。静かにもの思いにふける悲しげな彼女の顔は、ほかの元気な女生徒とは異質な雰囲気をもっており、私には、どこかべつの世界の少女であるように思えてくるのだった。
 そのときの私は、何か漠然とした予感とまで言って良いものかわからないが、不思議な確信を感じたのは確かだと思う。私は将来、恋愛あるいは結婚をするときに、こんな美しさを持った女を選ぶに違いないと。いや、それが美しさなのかどうかも、そのときの私は深く考えずにいたのだが。
 こんなことがあった。雨に濡れたキャンプが終わってから数カ月もたった頃だったろうか。午後の授業が終わって、習いはじめた拳法の練習に行こうと、校舎の北側にある廊下を仲の良い級友と歩いているときだった。そのとき、高橋優子が私たちの後ろを静かに歩いているのを、私は気づいていた。ふいに、級友が、うちのクラスの片倉って美人だよなぁ、などと独り言のように話しはじめた。
「片倉ってさぁ、将来芸能人とか女優になってもおかしくないよな」
「そうかなぁ、あいつは確かに男たちに人気はあるけどな。でも俺は今のタレントで好きな女はいないよ」
「お前は少しひねくれてるからな。じゃあ、お前は校内で誰が好きなんだよ」
 級友は、いきなり私に話をふってきた。私は少しこそばゆい思いをしながら、後ろにいる高橋優子のことを意識していた。そして私のいたずら心が、急に頭をもたげるのを感じた。私は急に立ち止まり、級友の足をとめさせて横を向き、後ろにいる高橋優子に聞こえるように言い放った。
「俺は高橋優子のように、か弱い妖精みたいな女が好きだ」
「高橋と妖精って、何だよそれは」
 そのとき、後ろを歩いていた高橋優子が、うつむきながら左手の指の背をくちびるに押し当てて、小走りに私の横をすり抜けていった。
「何だよって、今走っていったのが高橋優子だよ」
 級友は目を丸くして私の顔を見ていた。彼は今まで高橋優子を知らなかったのだ。

 校舎は丘の上に建っており、教室が何棟かに別れて配置されていた。その教室棟は丘の傾斜にそって一定の間隔をもって並んでいて、北側の校舎がだんだんに高くなっていく仕組みになっている。 そして、その教室棟の間は渡り廊下で囲まれた中庭になっおり、それぞれ大小の樹木やいろいろな種類の草花が植えられていた。その中庭のベンチで、私は初めて高橋優子に話しかけることができた。はたから聞いていると、実にたわいもない話である。
「高橋さんは、いつもここで花をながめてるね」
 ひとりベンチで休んでいると、いきなり横に腰掛けて声をかける男子生徒に、高橋優子は少しおどろいたかもしれない。彼女は恥ずかしそうにうなずいただけだった。彼女は、廊下で自分のことを好きだと言った男子をおぼえているだろうか。雨のそぼ降る湖で、赤い傘をさした彼女を見ていた男子を知っているだろうか。
「ふうん、じゃあさ、高橋さんは家でどんな歌手を聴いてるの?」
「オフコースが好き」
「ビートルズとかじゃないの?」
「うん。でもカーペンターズとかも聴くの。お姉さんのレコードがあるから」
 そのころの私は、オフコースのレコードなど持っていなかったし、そもそも聴いたこともなかった。カーペンターズだって、イエスタデイ・ワンスモアが時々ラジオで聴こえてくるだけである。私は、どう話をつなげたものかと思った。廊下の窓から誰か見ていないだろうか。内心どきどきしながら、平気なふりをして話しているのもだんだん苦痛になってきた。
「お願いがあるんだけど、オフコースのレコード持ってるんなら、テープに録音してくれないかな? 好きなんだけどレコード持ってないから。そうだ、俺もすごくいいレコード持ってるから、録音してあげる。それを交換しようよ」
「いいけど、お姉さんに聞いてみる。テープデッキもお姉さんのだから」
 彼女は私に、少しばかり優しくほほえんでくれた。その笑顔に私は胸を突かれる思いをするのだった。

 しかし実のところ、私はレコードなど持ってはいなかったのである。家にステレオはあったが、肝心のレコードは親の持っているものしかなかった。当時の私は音の悪いラジオで、CMでとぎれとぎれになったヒット曲を聴くしかなかったのだ。
 しかたないので、家にあるレコードを聴いて確かめてみるしかない。レコード棚を探してみると、浪曲とか軍歌などのレコードが目について、われながら親の趣味が嫌になり、思わず目の前が暗くなるのだった。間違っても、こんなものを録音していくわけにはいかなかった。
 何枚目に引っぱりだしたレコードだったろう、ふたりの外国人の顔が印刷されたレコードが出てきたのである。これは何だろう? 名前も満足に読めなかったが、どうやらアルファベットでタイトルが綴られているから、間違いなく演歌などではない。これはもしかしたらいけるかもしれない。幸いなことに日本語の簡単な解説もついているようだ。
 このレコードはブラジルの音楽だった。初めて聴くように思ったが、こうやって親が持っているのだから、もしかしたら、小さい頃に子守唄代わりに聴いていたことがあったかもしれない。
 さっそく、ステレオにかけて聴いてみると、おどろいたことに、とてもいい感じなのだ。ふだん私がラジオをかけて聴いている、かぐや姫や井上陽水にくらべて、とても大人っぽい感じがしたのをおぼえている。何曲か聴きすすんでいくうちに、たとえようもなく切なく美しいメロディが流れてきた。高橋優子のことを思いながら、胸がじわっと締めつけられる感じがした。
「O CANTO DE OXUM. オー、カントー、デ、オックスウム。なんて英語だこれは」
 レコードの解説には「オシュンの歌」と日本語で書いてあった。「オシュン」っていったい何だろうか? 解説を読みすすむと、「オシュン」はブラジルの宗教に伝わる女神のひとりで、プライドが高く妖艶で、川や湖を守る女神なのだという。そのとき私は、思わず高橋優子のさみしそうな横顔を思い出していた。そして、雨にけむる湖のほとりで、じっとさざ波を見守る悲しげで美しい女神の姿を思い描いた。高橋優子に捧げるべき歌は、こんなところに眠っていたのだった。

「ねぇ、欲しいんなら欲しいって言えばいいじゃない。どうして、だまって人の物を持っていくのよ」
「違います。私じゃありません」
「だって、あのとき、教室にあなたしかいなかったじゃない」
「私も優子が、ひとりで教室に入るのちゃんと見たよ」
「だって、私じゃないです」
 中庭に出てみようと渡り廊下にさしかかったとき、ふいに高橋優子を数人の女生徒がとり囲んでいるのが目に入った。高橋優子はなにか問いつめられているらしい。誰かの貴重品が紛失したことで、どうも彼女は疑いをかけられているようだ。
「きっとこれだから、友だちができないんだよ」
「ひとりでなにをしてたのか、言えないじゃない」
「この子は、ひとりでしか遊べないのよ。ちゃんと知ってるんだから」
「なにしてたのか、ちゃんと言ってみなさいよ」
 ひとりの女生徒の手が、高橋優子の肩にかかった。高橋優子はうつむいたまま、肩を揺すられるままに抵抗もできないでいる。
「お前ら、ふざけるんじゃないぞ」
 私は、女生徒でできた小さな輪に近よると、誰に言うともなく口走った。渋い声で決めてみたつもりだったが、なんと、低音と高音が入り混じって声が少し裏返ってしまった。私はいっせいに注目を浴びたが、クラスがちがうので、中には私が誰なのか分らない者もいたようである。
「部外者はだまっててよ」
 さっそく、リーダー格らしい女子がにらみをきかせてきた。かなり体格もいい。もしかしてレスリング部だろうか。
「なにが部外者だ。同じ学校の生徒同士だろうが。その人にかけた手を放せ」
「誰なのよこの男子は。どこのクラス? カッコつけちゃって」
 余裕の対応に思わず頭に血がのぼるのを感じたが、まさか女子にむかって手を上げるわけにはいかない。
「同じ仲間を疑ったり、いじめたりするのを見た以上、俺は黙っているわけにはいかない。今すぐやめろ」
「ねぇ、こんな男子なんか相手にしてないで帰ろうよ」
「ほんとバカみたい。早く帰ろうよ」
「ほんと、嫌になっちゃうね」
 嫌になっちゃうのはこっちの方だと言おうと思ったが、それを口に出す間もなく彼女たちは早々に退散し、私はあっさりと無視されてしまった。
 そこに高橋優子がひとり立っていたが、あまり親しそうにするとさっきの連中に見られて、また彼女がいじめられるかもしれない。私はそっと会釈をすると、彼女に背をむけて帰ろうとしたが、何のために中庭にきたのかを思い出し、また再度、きびすを返して彼女の顔を見た。
「そうだ、高橋さんにテープをわたすの忘れてた」
 顔をあげた彼女は目に涙をためていたが、私はかまわずに彼女に宣言した。
「このテープは、オシュンの歌って言うタイトルなんだけど、このオシュンの歌を高橋さんに捧げます。いや、捧げますと言うか、あの、あげます」
 そのとき彼女は、ほろりと涙をこぼした。
「このオシュンというのは、湖を守るそれは美しい女神の名前なんです。いつもひとりぼっちだけど、つよくて優しい女神なんです。そんな女神の歌を、高橋さんに聴いてほしかったんです」
 私は、ケースにしまったカセットテープをそっと彼女の両手に握らせていた。放課後の静かな校舎の渡り廊下は、高橋優子とふたりだけの秘密の舞台のようだった。

 それからの私は、暇さえあればいつも高橋優子のことを考えていた。気分ののらない授業など完全にうわの空で、高橋優子のまなざしや顔のかたち、その声やしぐさなどを思いおこして、ひとり空想の世界にひたるのだった。
 休み時間や放課後も同様で、高橋優子を見かけたり挨拶をする機会がないと、どうにも落ち着かず、さらに空想にふけることが多くなる。拳法の練習中など、ぼうっとしていたおかげで相手の順突きをよけるのを忘れ、一撃を顔で受けてしまい一瞬気を失っていたこともあったほどだ。
 家に帰っても、しなければならない課題などは先にすませ、あとはテレビを見てもラジオを聴いても、ドラマや歌の世界に高橋優子のおもかげを当てはめてしまうのである。そして寝るまえに「オシュンの歌」を聴いては、ひとり感傷の世界にひたるのだった。
 ただ歌を聴いているだけの行為にも飽きたりなくなると、私は「オシュンの歌」の意味が知りたくなってきた。しかし「オシュンの歌」はブラジルの言葉で歌われているのだし、レコードには歌詞対訳なども付いていなかった。
 しかたがない。自分で「オシュンの歌」の詩をつくってみるしかない。それは自分にとって、まさに高橋優子の歌でもあるはずだった。そうやって出来あがったのが、つぎに書き記す詩である。高橋優子は、私に生まれてはじめて「詩」などというものを書かせた女性なのだ。


オシュンの歌

月のあかりがともり
誰も知ることのないときに
オシュンはひとり待っている
あるいは霧の深い日に
オシュンはそっと佇んで
悲しみの終わるまで
ひとり心が癒えるまで

彼女を返して下さい
悲しい者の心まで
孤独な者の腕のなかに
彼女を返して下さい
彼女の悲しみを守る者に
あるいは彼女のもとへと
悲しい者を導いて下さい

オシュンは美しい
ひとり悲しみの女神
ひと知れぬみずうみに眠る
ひと知れぬ涙をながし
ひと知れぬ罪を負う
オシュンの歌を聴く者は
ただひとり
その悲しみを知る

 われながら、いったいなんて詩だとは思うが、当時の私は、こんなことをしてまで高橋優子を心の中に思い描いていた。深夜の部屋で机の小さな灯りだけをつけて、静かにこの歌のレコードをかけていると、しんしんと深い切なさが胸にしみこんでくるみたいだった。その小さな音は薄明かりの部屋の中で、しばしのあいだ、まるで宝石のように輝いていた。


    (二)

 校舎から西にむかって二十分も歩くと、良く晴れた日なら銀色に輝く海をながめることができる。ただそこからだと、崖をおりていかなければ下の海辺にはたどり着けないのだ。草の生い茂った崖に蛇行してつけられた細い路を、私は高橋優子の手をとって慎重におりていった。ここにふたりでくるのは、これで二度目である。
 苦労しておりると、そこは本当に小さな入り江で、両側にせまった崖に切りとられた空は青く、岩かげになった海の水は暗く透きとおっている。学校が終わってからの時間では、この小さな海岸には誰もいないはずだった。
「だいじに聴いてるの、あの女神の歌」
 彼女は優しくほほえんでいた。
「俺は、オシュンの女神を高橋さんだと思って聴いてたよ」
「つよくて優しい女神みたいになれたらいいのに……」
「俺、いつかの雨のキャンプで、高橋さんがさみしそうに湖を見てたときに思ったんだ。オシュンみたいにきれいな顔だって」
「そんなこと言われてはずかしい、だれもそばにいなかっただけ」
 そのとき私は、彼女の肩をゆすって、俺がずっとそばにいると叫びそうになった。しかし、かろうじて私が口にできたのは、高橋さんのそばにいるとうれしいんだという、あたりさわりのない一言だけだった。
「でもわたし、恭一さんと、もうこうやって会えなくなるの」
 その一言で、私の笑顔がこわばってしまうのがよくわかった。
「どうして?」
「来月、千葉に転校することになったから」
「お父さんの仕事の関係で?」
「父はもういないんです。母の再婚でむこうに行くことになったの」
 私は、もう高橋優子と会えなくなるのかと思うと、あっという間に気持ちが暗くなるのだった。しかし、もうそれを顔に出すわけにはいかなかった。彼女のほうが遥かにつらい状況ではないか。
「来月か、もうすぐなんだね。でも、いつでも会いたくなったら千葉に行くからね」
「恭一さん、手紙ちょうだいね。いつか、きっとどこかで会えるから」
 もときた崖のみちを歩いて帰るとき、私は、彼女を導く手に力を入れすぎて彼女が痛がったのをおぼえている。ときどき彼女の方を振り返ると、夕日が大きな貨物船の浮かぶ海に、もの悲しい色を照らしはじめていた。海を見下ろす崖の上にたどりついたとき、転校する前にもう一度会って話がしたいと彼女が言った。もときた道をひき返そうとしたとき、やはり夕暮れの海を見にきていたのだろうか、どこかの高校生らしい姿が反対側の道に消えていくのが見えた。

 その日は、三度目に海を見にいく約束の日だった。今日は海を見下ろす崖の上で待ち合わせることになっていた。私が先にやってきたようで、坂道をのぼりながらいつもの場所を見まわしても、まだ高橋優子はきていないようだった。
 崖の上の手すりにもたれて、しばらく海を見ていた。それにしても高橋優子のくるのがおそい。なにか忘れものでもしたのだろうか。それとも、途中の店でジュースやお菓子でも買ってきてくれるのだろうか。とりとめもなく、そんなことを考えているとき、後ろのほうで足音がした。その足音がひとりのものではないと気づいたとき、後ろから高橋優子の声がした。
「おねがい、恭一さん、ひとりで帰って!」
 思わず反射的にふりかえった。そこには両側から腕を押さえられた高橋優子が、苦しそうな表情で、自分を捕らえた腕から逃れようと腰を落とすように抵抗していた。高橋優子の両脇には、いつか渡り廊下で見た女子生徒たちが、しっかりと腕を組むように寄りそっている。私は思わず言葉を失ってしまった。しかし、黙っているわけにはいかない。
「彼女の腕を放せ! いいかげんにしろ!」
 そのとき、高橋優子の今まで聞いたこともない激しい声が響いた。
「なんで? どうして、あんたがここにいるのよ!」
「おまえの、そのかわいい顔が忘れられなくてな」
「話しには聞いていたけど、彰二もあんた呼ばわりじゃかたなしね」
「優子は俺の女だよ。と言っても、もう昔の話しだけどな。だが、今でも俺の体を忘れられないってうわさだぜ」
 気がつくと、後ろの坂道から、見知らぬ高校の男子と、渡り廊下で見たレスリング部の女子が並んで姿を見せていた。見ると女子プロレス、いや、レスリング部の女子は木刀を片手に握りしめている。  
 いったい、これはどういうことなのか。そのとき私には、まったく理解できていなかったが、そんなことよりもまず、高橋優子の身の安全を考えなければならない。
「なにをしている。早くその手を放せ」
 私は高橋優子のそばにかけより、彼女を捕らえている女子の手をつかもうとした。ここは力ずくでも、高橋優子を自由にしなければならない。
「おい、ちょっと待て」
 図太い男の声がして肩に手がかかった。振りむきざまに、あごのあたりに鋭い痛みが走った。ふいに気が遠くなった。一瞬ののちに気がつくと、アスファルトの上に尻をつきながら、両手を腰のうしろについて上体をささえていた。どうやら、起き上がることはできそうだ。
 私は、さっきの痛みをかみしめながら、これは空手だなと思った。腕を振り回すかたちの殴り方ではなかった。非常に鋭く素早い突きであった。
 起き上がるときは、相手の蹴りに気をつけなければならない。ここでまたあごを蹴られでもしたら、完全に気を失ってしまうだろう。私は頭を左右にすばやくふりながら、ふらつかずに立てることを実感してから、一気に立ち上がった。
「ずいぶん優子となれなれしくしてるなぁ、おまえ」
 そう言いながら、相手は脇をしめながら、拳を上下にずらしたかたちの構えをとっていた。何流なのかは知らなかったが、間違いなく空手の構えである。私は即座に左足を前にし、両手を開いた少林寺拳法独特の待機構えのかたちをとった。
 相手が蹴りでくるのか突きでくるのか、どこから攻めてくるのか。最初の一撃はなにか、その次にくる攻撃はなにか。よく相手の動きを見極めなければならない。
「拳も握れないようじゃ、俺には勝てないな」
 そう言うがいなや、ドスの効いた声とともに、相手の右肩が動くのがわかった。右の拳が来る。私は、すかさず左足をすすめて、右手で金的を守りながら、上体を左に流し右足を相手のみぞおちに蹴り込んでいた。そのとき、相手の右拳は私の右肩の上の空を切っていた。
 相手はカウンターで急所に蹴りをもらったかたちになり、二メートルほど後ろに倒れ込んでいった。これは相手の攻撃にいっさい手を触れずに、相手を一撃で倒す流水蹴りという技である。少林寺拳法の基本技のひとつで、実は先週習ったばかりだったのだ。見事に決まってしまい、自分でもおどろいてしまった。
 彰二と呼ばれた空手使いの男は、しばらくうめきながら身を折り曲げて横たわっていた。みぞおちへの蹴りが相当に効いているらしい。立ち上がる気配がないので、私は高橋優子を助けるべく後ろをふりかえった。
「優子の顔に傷をつけたくなかったら、おとなしくしなさいよ」
「ごめんなさい、恭一さん。はやく帰って……」
 髪の毛をつかまれ、のけぞらせた顔を私に向けて、高橋優子が苦しそうに言った。
「なぜだ! なぜこんなことをする!」
「あんたには関係ないことだったんだけど、あんまり優子と仲良しだから巻き込まれちゃったのよ」
 女子プロレス、じゃなくてレスリング部の女子が、木刀を肩にかけながら答えた。それにしてもいつ見ても大きい。
「まず彼女を放せ。そして、なぜこんなことをするのか説明しろ。そうすればお前たちに手出しはしない」
「ずいぶん格好つけてくれるけど、あんた、自分の立場がわかってるの?」
 そのとき、レスリングの女が、肩にあてていた木刀を私の頭ごしにほうり投げた。
「恭一さん、あぶない! 逃げて!」
 高橋優子の声が聞こえる。
 これはまずい! そう思い後ろをふり返ると、さっきの空手の男が木刀を手にこちらをにらんでいた。間合いをとろうと後ろに下がったとき、ものすごい力で両腕ごとレスリング部の女子に抱きしめられた。その瞬間、私はいろんな意味であせりながらも、いったん腰を落とすようにしてから両手を開き、かけ声とともに一気にひじを左右の上方に突き上げ、自由になった体を右の後ろにひねり、右のひじをレスリング部のみぞおちにたたき込んでいた。
 レスリング部女子のうめき声に耳をかたむけながら、私は、空手の男が剣道の心得がないことを祈った。剣道を身につけた者に木刀を持たせたら、とても厄介なことになる。
「ただじゃおかねえぞ!こら!」
 どなりながら、空手の男は木刀を力まかせに振り回してきた。
「助かった!」
 私は思わず声を出していた。やつは剣道はまったくの素人なのだ。いくら木刀を力まかせに振り回しても すきだらけなのである。これならいける!
 やつが右手に持った木刀を、右上方からななめに振りおろしたとき、一度後退した私は、一気に男のふところに飛び込んで 右の手のひらで男のあごを突きあげ、それと同時に右のひざを男の金的に命中させていた。
 木刀を持った空手使いの男はそのまま後ろにくずれ落ちた。しばらくは立ち上がることもできないだろう。金的はともかく、あごを打ち上げられて脳しんとうを起こしているはずだった。
 やっとのことで高橋優子の方を見ると、彼女はすでに解放されて、ひとりでなんとか立っていた。彼女を押さえつけていたふたりの女生徒は、しゃがみ込んだレスリング部女子の背中に手をあてて心配そうな顔をしている。
「手あらいまねをして、申し訳ない。だいじょうぶか?」
「いいかげんにしてよ、もう……。なんで、おとなしくしてくれないのよ」
「こんなことをしでかした、わけを聞かせてもらおうか」
 私は、不安そうな表情を浮かべてふるえる高橋優子の肩を抱きながら、思わずつぶやくように言った。ついさっき殴られた顔の痛みが、重くにぶい感触になってよみがえってきた。海に日がしずみかけている時間だった。

「わたし、恭一さんたちと顔がちがうでしょう?」
「どうして? どういうことかな」
「わたし、本当の日本人じゃないの。朝鮮人のこどもなの。言葉の話し方だって、ほら、恭一さんと少しちがうでしょう?」
 私は高橋優子の横顔を見つめていた。だからどうしたというのか。日本人じゃないから、それがなんだというんだ。いまだって、彼女はきれいな顔をしている。そのとき私は、彼女の顔をはかなさという言葉がにあう美しさだと思った。はかなさは日本人の愛する美しさじゃないのか。
「俺は、優子さんが日本人だからとか、朝鮮人だからとか、そんな違いで好きになったんじゃないよ」
「でも、わたし、子どものころからずっと、心をゆるせる日本人の友だちがいなかった。みんな私と遊んじゃいけないのよ。でも、恭一さんのまっすぐな気持ちがわかったとき、わたし、ほんとにうれしかった」
 今日が、高橋優子とふたりきりで話せる最後の日だった。もう明日には、彼女は家族と千葉へ行ってしまうのだ。話さなければいけないことが、たくさんあるように思うのだが、本当に言いたいことはただ一つしかなかった。
「俺が本当に好きなのは、高橋さんという、ただひとりの人間だ。人種で選んでいるわけでも、国の名前で選んだわけでもないよ」
「うれしい。短い間だったけど、わたし、ほんとにこの北の街で暮らせてよかった。いやなこともあったけど、でも、いろんなことを好きになることができた。学校も、帰りみちも、海も、夕日も、私のことを好きになってくれたひとも。そして、そのひとが教えてくれた女神の歌も」
 海の見える崖の上でひと悶着起こしてから、もう一月ちかくにもなっていた。私たちのほかに目撃者もなく、今のところは大騒ぎにはいたっていない。
 連中も少しはこりたようで、あんなことは表ざたにはしたくないから、おたがいに他言は無用だった。私は拳を使わなかったので、空手の男もレスリング部の女子も、はたから見て目立つようなけがはなかった。しかし、あの日の出来事は誰も説明しようとはせず、私には結局わからないままだった。
「わたし、一年前に、あの彰二っていう不良のひとと付き合っていたんです。まだ大人じゃないのに、むりやり体の関係も持たされた。わたしはそのころ、家に帰って泣いてばかりいました。わたしはそんな汚れた女なんです。だからほんとは、恭一さんに好かれる資格なんて、これっぽっちも、ないんです」
「なにも純情ぶって悲しんでいるんじゃなくて、わたし、ほんとに悪い女なんです。わたしに付き合ってくれる男のひとは、不良のひとしかいなかった。きっと、わたしも悪い女だからなんです。なれてくるとね、男に体を抱かれるのも楽しみになってくる。お金がいるからって言われて、大人じゃないのに嘘をついて、週刊誌ではだかのモデルだってしたことだってある」
 そのとき私はなぜか、湖にひとりたたずむ、さみしそうな女神の姿を心の中に思いうかべていた。
「でも、そんなわたしのなげやりな行動は、お姉さんにはわかっていたみたい。もしかしたら、わたしがなにをしていたのか、ちゃんと見ていたのかもしれない。それを思うとつらい。ひととして生まれたからには、自分の心や体、そして、産んでくれた両親や、生まれた国のことを誇りに思いなさい。私のしていることを見抜いて、そんなふうに叱られた」
「ほら、いつか廊下で、恭一さん、わたしのこと助けてくれたでしょう。でも、あのときわたしは、ほんとに、あのひとたちの持ち物を盗んでいたの」
 なにを言い出すのかと思って、私はだまって彼女の瞳を見つめた。
「わたし、あのひとたちから、写真が入った小さなアルバムをとったんです。わたしのはだかがうつってたんです。それを取りかえしたくてとったんです」
「な、なんで、そんな写真をあいつらが持ってたんだ?」
「むかし、彰二さんがとった写真なんです。わたしだって嫌だった。彰二さんの仲間に押さえつけられて、ほんとに恥ずかしかった……」
 あのレスリング部の連中も、彰二の仲間にはいっていたのだろうか。
「わたし、彰二さんとは、お姉さんに立ち会ってもらって、ちゃんとお別れしていたのに、それに引っ越しや転校までしてきたのに、わたしがこの学校にいるって、彰二さんにわかってしまったんです」
「それで、あの女子たちに?」
「わたしのクラスの女子に、彰二さんの知りあいがいたんです。彼女たち、わたしが朝鮮のこどもだって知ってて、朝鮮人の女子がいるって、いつのまにか彰二さんの耳に入ったんです」
 おそらく、彰二はその朝鮮人の女生徒が高橋優子だとわかって、よりを戻そうと考えたにちがいない。私は、なにか得体のしれない震えを心の底にわき上がるのを感じながら、その気持ちをなんとか押さえつけようと懸命だった。
「彼女たちは、はだかの写真でわたしを脅して、わたしと彰二さんを引き合わせようとしたんです。彰二さんの頼みを聞いていたんだと思います。わたし、放課後に彼女たちが教室のすみで、アルバムを見ながら笑っているのを見かけたんです。わたしのはだかだと気づいたときは、目の前がまっくらになりました。わたしのことを好きだと言ってくれるひとに、こんな写 真を見られたらどうしよう。わたしの大切な人に、そんなものを見られたら、どうしよう……」
 街には夕暮れの幕がおりはじめていた。ふたりで街を見おろす丘の上にすわり、少しづつ冷たくなりはじめている、秋のそよ風に吹かれながら、私は大切な時間が過ぎていくのを、自分の心を奮い立たせるような気持ちで感じていた。
「きっと、あいつらは、俺たちが海で会っていたのも知っていたんだね。優子さんが千葉に行ってしまうことも、もしかしたら気づいていたのかもしれない。だから、あんな無茶なことを急に考えついたんだろう」
 私は夕日に染まった高橋優子の横顔を見つめながら、言葉を付け加えた。
「でもね、昔のことは死んでしまったことだ。悔やんでもしょうがないんだよ。それでも、悔やみきれないというなら、そんな悪しき昔のことは、殺してしまわなければいけない。今を大切に生きようとするなら、忘れなきゃいけないこともあるんだ」
「わたし、このまま恭一さんと、お別れしてしまうのが嫌だったんです。なにも知らない恭一さんが、わたしのことを女神のようだと言ってくれたひとが、ほんとのわたしの姿を知らないで、ずっと、そのままでいたら、わたし、恭一さんに、私を好きだと言ってくれたひとに、嘘をついたまま一生暮らしていかなければいけない。そうしたら、わたし、死ぬ まで後悔すると思ったんです」


    (三)

 同じ日本という国に住みながら、ついに私は、高橋優子と二度と会うことができなかった。会おうと思えば、いくらでも機会はあった。いや、そんな機会などはいくらでもつくれたのだ。会おうと思いながらも、結論として、私は彼女と会わないことを選んだのだ。そう言われても仕方がなかった。
 私は彼女のことを忘れ去ったわけではない。私が北の街をはなれ、東京で働くようになっても、おたがいに手紙のやりとりはあったのだし、彼女はいつも私の心の中に存在していたはずだ。なにが私を、彼女から遠のかせてしまったのか。確かに忙しかったし、精神的にも疲れきっていたときもある。そして難題が解決すると、それを忘れるために様々な楽しみにふけっていた。ネオンのきらめく都会の夜には、私の疲労した心をまぎらわせるものがたくさんあった。しかし、そんな言い訳など、今の私にはどうでもいいことだ。
 高橋優子と最後に会ってから、二十五年目の夏も終わろうとするころ、東京の私の自宅に、高橋良子という女性から手紙が送られてきた。最初は誰なのか、まったくわからなかった。念のためあて名を確認すると、間違いなく私あてになっている。そのとき私はふと、高橋優子のことを思い出した。もしかしたら、この手紙の送り主は、高橋優子の姉ではないだろうか。その瞬間、私は、その手紙になにが書かれているかわかったような気がした。
 その手紙は、つぎのように書き記されていた。

 岡田恭一様

 拝啓、
 はじめてお手紙をさしあげますことの、御無礼をお許し下さい。
 わたくし高橋良子は、高橋優子の姉でございます。はたして、優子のことを思い出していただけるでしょうか。岡田様のことは、いつも妹の優子から聞かされておりました。わたしどもが北海道に住んでいたころ、岡田様と同じ学校にかよっていた優子が、とてもお世話になっていたことに深く感謝いたします。
 岡田様もすでに御存じのとおり、わたしどもは朝鮮人の血が流れている人間です。こんなことを岡田様にうったえても、仕方のないことではありますが、わたしも優子も、小さいときから些細なことで辛い目にあってきました。
 もちろん母もそうだったと思います。父はまだ若いころに、思いがけなく血液の病いで亡くなってしまいました。女だけの三人暮しになって、優子もなにかと心細い思いをしておりました。
 そんな優子が、学校でいじめられているとき、そしてひとりで心細かったとき、どんなに岡田様に助けられたかわかりません。
 北海道から千葉に引っ越してきたときも、なにかにつけ、優子はしきりに岡田様に会いたいとくり返し言っておりました。
 この手紙を岡田様に差し上げていいものか、実は、さんざんに迷ったのでございますが、やはり優子の気持ちを思うと、勝手なことではありますが、多少の失礼があってもお知らせするべきだと思って、このように書いております。
 実は先だって優子は、わたしどもの回復の願いもむなしく、千葉の病院で亡くなりました。やはり遺伝なのでしょうか、父のときと同じ血液の病でした。
 まぎわまで、優子は、岡田様のことを忘れていませんでした。わたくしも何度か、優子が「恭一さんに会いたい」と言っていたのを思い出します。それほど、優子は岡田様のことをお慕いしていたようなのです。
 優子が残した形見の中に、小さな日記帳と一本のカセットテープがあります。優子はこのカセットテープを、本当に大切にしていました。ときどき、取り出しては何度も聴いていましたが、どこかの外国の歌のようで、意味はわからなくても心が伝わってくると言って、とても真剣に聴き入っていたのを思い出します。
 優子は、自分が死んだら、この日記とテープを岡田様にわたしてほしいと申しておりました。
 わたくしも、最初はこの手紙とともに同封してお送りすることを考えたのですが、いきなり荷物を送りつけることの失礼を思いまして、一度、この手紙を差し上げてから、もしも岡田様の御了解が得られることができましたら、お渡ししようと考え直しました。
 もし、そうすることができたなら、優子もきっと天国で喜んでくれるにちがいありません。
 本当に長々と失礼いたしました。
 岡田様に、わたくしが申し上げることは以上でございます。
 もしも、お返事をいただけるようでしたら、こんな嬉しいことはございません。ほんとうに突然のお便りを申しわけありません。
                           かしこ
                                高橋良子

 彼女の実家には、小さな仏壇がそなえ付けられており、中には高橋優子の遺影がかけられていた。考えてみると、彼女は長い間ずっとひとりだったのだ。私は彼女の魂にむかって、そっと手をあわせた。
 心の中でなにを言っていいのか、少しとまどってしまったが、昔の彼女の美しいさみしげな横顔を思い出して、いろいろ迷惑をかけて本当にすみませんでしたと、頭をさげた。しかし、さみしげに微笑む彼女のおもかげが心の中に浮かんだとき、ふいに当時の気持ちがよみがえってきた。二十五年という時間を飛び越えて、胸の締めつけられるような切ない気持ちが私をおそってきた。
 あれは、こどもの恋愛というものだと、今までの私は考えていたが、では大人の恋愛とはなんなのか。すぐに私には答えられなかった。相手のことを思って自分の胸が押しつぶされそうになる気持ちを抱いて、相手のためになにかを成そうとすること。そこには損得も、人種や国のちがいも、時代のちがいさえない。
 だとしたら、あのとき高橋優子も私と同じように、幼い胸を締めつけるような苦しみを抱いていたのだろうか。
「これが優子が大事にしていたカセットテープなんです」
 高橋良子さんが、そっと形見のテープを私にさしだした。
「拝借します」
 ケースには細かな傷がついていたが、ていねいに扱っていたことがよくわかった。確かに二十五年前に、私が彼女に渡したカセットテープだった。私はケースのふたをあけて、中のカードを取り出してみた。
 当時の私の幼い筆跡があらわれた。タイトルは少し大きな文字で「オシュンの歌」と書いてあった。ブラジルの女神か。
 気がつくと、曲目を書いたカードの余白に、彼女の筆跡で「わたしの大切な恭一さんがくれた宝物」と書かれた文字があった。
 二十五年前に彼女の言った言葉が思い出された。
「わたしも、つよくて優しいオシュンのようになれたらいいのに……」
 そのとき、私の両のまぶたから、ふいに涙があふれた。それはハンカチで押さえてもあふれてとまらなかった。私の胸の中に、もの悲しい「オシュンの歌」のメロディが静かに流れていた。
 どうして、今まで彼女を放っておいたのか。なぜ、もっと早く会いにこなかったのか。激しい後悔の気持ちが私の胸を打った。

 その日は、関東に戦後最大級の台風が通過する日だった。台風などうまく避けて帰れるだろうなどという私の考えは甘く、千葉をとおりすぎていく強風は、夜になってますます激しくなっていった。
 最初は濡れてでも帰るつもりだったのだが、良子さんが私をひきとめてくれて、その晩、ありがたく泊めていただくことになった。
 二十五年目にして、はじめて私は優子さんの部屋に泊まることになった。優子さんの形見の品として、良子さんからいただいた一本のカセットテープと、小さな日記帳を手にして、私は部屋の中央に敷かれた布団の中に横たわった。もうすでに深夜の遅い時間だった。
 もっと早い時期にくることができたなら、私は優子さんとふたり、この部屋でいろいろな話をすることができただろう。いま、ひとりでこの部屋の中にいることが、なぜかとても不思議なことのように思えてくる。
 布団の中で、私は二十五年前に優子さんがつけていた日記帳を開いた。そこに記されていた言葉が、優子さんの心の声が、彼女の魂の思いが、つぎつぎと溢れるように私の目に、そして心の中に飛び込んできた。そして、優しく美しい魂の思いが、しずかな眠りの心をやわらかく、そっと抱きとめていった。

「わたし、恭一さんと出会えて、ほんとに幸せだった」
「ほんとうに短い間だったね」
「ううん、時間なんて関係ないの。一瞬でも恭一さんがわたしを愛してくれたから」
「でも、ほんとうに優子さんに、なにもできなかった」
「愛することが、なにものにも変えられないこと。恭一さんが教えてくれたのよ」
「でも、優子さん、ずっと会えなかった。病気で亡くなって、会えなくなった。もうほんとうに、もう会えなくなったから……」
「ちがうの。病気も事故も、そして誰もわたしを殺すことはできないの。恭一さん、わたしを見て。恭一さんの教えてくれたオシュンのように、わたしなれたのよ。やさしくて強い女神のように、わたしなれたのよ。もうけして死ぬ ことはないの」
「好きなときに、また会えるのか?」
「もうけして死なないの。これからは恭一さんの心にいつもいるの。恭一さんが、かわいそうな子どもを見たとき、さびしそうなひとを見たとき、苦しんでいるひとを見たとき、いつでも、わたしはそこにいるの。わたしは恭一さんの愛だから。そして愛はけして死ぬ ことはないの」
「もう、どこにも行かないでくれ。ほんとうに行かないで、ここにいてくれ……」

 暗く優しい時間の中で、霧の深い湖のほとりにたたずむ、美しいオシュンの女神の姿を、恭一の心は確かに見つめていた。



                              (了)