恋する街 -昼下がり-




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   1.真っ白な毎日
 当たり前のことだけれど、朝は毎日やってくる。
 ベッドの中で夢とうつつの間をフラフラしながら、薄目を開けては、いつも『世界は真っ白だ』と思う。いつからか忘れたけれど、これが私にとって一日の始まりの合図のようになってしまった。朝が来るたび、条件反射で思う事。
 先生は、私より必ず15分早く起きる。目覚まし時計を、決して使わない。恐ろしく正しい体内時計を持って、生きている人なのだと思う。半分、尊敬。半分、畏怖。
 先生が起き出すと、彼の猫も起きてきて、ニャーと鳴く。先生が私と出会うよりも前から飼っていた猫で、私にちっともなつかない。先生が出かけると、猫も一人で外に出かけてしまい、夜まで帰らない。家の中ではいつも、先生の行く先々に、遊んで欲しくて付いて行く。先生もこの猫をよく可愛がっていて、「俺が好きで飼ってるんだから」と、私には一切世話をさせない。おかげで私とこの猫は、三年も一緒に暮らしているのに、未だに随分と疎遠な関係にあるのだ。
 私がそんな事を考えている間にも、先生は存分に朝風呂を堪能している。ようやく私の頭が冴えてくる頃には、もうサッパリした顔をして、猫を膝に乗せたまま、食卓で新聞を読み始める。そして、そこで初めて私に声をかけるのだ。
「はな恵、朝だよ」
 その声を聴いて、急いで朝食の支度――と言っても、私がするのはフランスパンをカットしてトースターで焼くことと、野菜ジュースをグラスに注ぐことだけなのだけれど――をするのが、私の役目だ。先生は素早くそれらを体内に吸収して、歯を磨いて、ピシッとスーツを着て、「じゃ、行ってくるね」と言いながら私にキスをして家を出る。私が「いってらっしゃい」と言い、猫がニャーと鳴く。これが、毎日七時十五分きっかり。
 それから、私の一日が始まる。

 今日は木曜日。私は先生を見送ってから少しだけパンを齧って、それから家の掃除を済ませた。猫は、気付くといつも一人でどこかへ遊びに行ってしまっている。
 家に居る時間の少ない夫と、何の活動もしていない妻の二人分の家事なんて、実に微々たるものだ。私は月・水・金曜日には洗濯を、火・木曜日に掃除をする。休みの日には全ての家事を先生と二人で一緒にする事になっているけれど、私が頼りないと言って、先生は殆ど自分ひとりでやってしまう。
 もともと私と先生は、女子中学生と家庭教師のバイトをしている大学生という関係だった。そんな頃からの大恋愛の末、結婚して三年。この歳になれば八歳の歳の差なんて大したことは無いけれど、そんな馴れ初めの所為か、先生はいつまでも私を子ども扱いしている。
 料理だって、簡単な朝食を用意するだけだ。夜遅くまで仕事に明け暮れる先生は、夕食はほとんど外で食べてくる。たまに早く帰れるときは、私を外に連れ出して外食をしたがる。外食をすれば私が喜ぶと思っているみたいだ。そんな私が家で一人の夕食を摂る際には、少しのチーズと野リ、それとワイン。量はそれほど食べないから、高級スーパーで上質のものを少しだけ買ってくる。私はもう、そんな美味しさも解る歳なのに。
 有閑マダムというほどでもない。私もまだ二十三だし、そもそも質素な生活が好きなのだ。お金の遣い方は知らないけれど、ただで時間を費やす方法ならば、幾らでも知っている。学生時代の友達は皆働いているし、このマンションの住民とは歳が離れているのもあって、近所付き合いも殆ど無い。周辺には子供を持った二十代の主婦が何人も居るけれど、子供も居ない私が母親コミュニティに入っても仕方ない。
 毎日がとても静かで、真っ白。その白の中を、私は身体ひとつで悠々と泳ぐ。

 することがなくなると、私はいつものように、出かける準備をした。出かけると言っても、単なる散歩だ。一人でフラリと出かけて、夕方までの時間を過ごすのだ。
 書店に行って宛てもなく本の背表紙を眺めたり、空いている映画館で映画を見たり、ウインドウショッピングをしたり、ギャラリーに立ち寄って解りもしない絵を見たり、延々とCDショップの試聴コーナーに居座ったり、公園のベンチに座って鳩の動きを観察したり、毎日毎日、違うことをしているので、ちっとも厭きない。
 今日は、幾つかの雑貨屋をまわってみた。五つ目の店で、薄い青色のガラスで出来た、美しい形の広口ビンを見つけた。意外と安かったので、それを買った。丁度、家のポトスが、ただ水に挿しておいただけなのに、増殖して困っていたところだ。帰ったら、半分くらいをこのビンに移し替えよう。
 クラフト紙に奇妙な模様の印刷された紙袋に、梱包したビンを入れてもらって、その雑貨屋を出た。時計を見ると、既に午後二時を回っている。
 そろそろ、あそこに行こうか。
 そう思って、私は小さな路地に入った。
 狭い路地を入ったところに、毎日毎日違う散歩を楽しんでいる私が、厭きもせずに必ず毎日立ち寄るコーヒー屋がある。これは、私にとって唯一の、習慣らしい習慣と言えるかもしれない。
 『喫茶・斜陽』と描かれた看板はみすぼらしく、全体的に薄汚い。店内は狭く、内装もかなり古いと見える。けれど、テーブルや椅子、それとおかしな形をした調度品などは、きれいに手入れがされている。そして、お世辞の言いようもないくらい美味しいコーヒーを飲ませてくれるお店。
 なにやらおどろおどろしい風情をしたマスターが、一人で店を切り盛りしている。お客さんは常連ばかりなのに、マスターは気の利いた言葉を言うこともなく、コーヒーを出すことだけが自分の役割だとわきまえている。それが好ましい。
 重そうな木のドアを開けると、今日の『斜陽』は、珍しく混んでいる。芸術系の学校に通っている風情の学生が何人か、ここのコーヒーが美味しいと言う噂を聞きつけて来ていたようで、したり顔でコーヒーに関する薀蓄などを語っている。
 一番奥のカウンター席で、一人の女性がコーヒーを飲んでいる。妙に存在感のあるその雰囲気の所為か、彼女の隣の席だけが空いていた。私は、黙ってその空席に座ってモカを注文した。マスターが、頷いて豆を挽き始めた。

 「こんにちは」
 私は、隣の女性に挨拶をした。彼女もまたこの店の常連で、いつも一杯のコーヒーをゆっくり飲んで、たっぷり一時間はこの店でくつろいで、帰っていくのだ。毎日のように顔を合わせているし、半年ほど前から、時々言葉を交わすようになった。
「買い物? 珍しいね」
 彼女は私の傍らに置かれた包みを一瞥して、そんなことを言った。
「ちょっとね、きれいなビンを見つけちゃったんです」
 私がそう言うと、彼女は大して興味もなさそうな顔をして、「ふうん」と小さく言った。それとほぼ同時に、マスターが私の目の前に一杯のコーヒーを置いた。
 私はコーヒーを飲みながら、隣の彼女をチラチラと見た。顔の造作は美人というわけでもないけれど、背が高くてスタイルが良い。歳は二十代後半くらいだろうか。毎日昼間からコーヒーを飲んでいるくらいだから、まともな社会人ではないと思うけれど、学生という感じもしない。
 無意識のうちに、無遠慮なまでに彼女のことを見て、私はそんなことを考えていた。ボーっとしていた、と思う。彼女は、その視線に気付いたのかもしれなかった。
「名前、何て言うの?」
「え?」
 突然、彼女のほうから私に話し掛けてきたので、私は心臓が五センチくらい上に昇ってきたんじゃないかと思うほど、驚いた。。
「あなたの、名前」
 急に興味を向けられて動揺している私の態度とは裏腹に、彼女はすました顔で私の顔を覗き込む。私は、ただ名前を答えるだけなのに、ついに観念したというような気分になって、答えた。
「内山です」
「下の名前は?」
「ごめんなさい、はな恵です。はな恵」
「ふうん」
 彼女は聞くだけ聞いて、また悠々とした動作でコーヒーに口をつけた。何となく、からかわれているような気がする。確かに食い入るように顔を見ていた私も悪かったのだけれど、こんなふうに驚かさなくったって良いのに。私の名前なんて聞いて、一体どうする積りなのだろう。悔しいので、私は無理にでも会話を続けることにした。
「そちらは?」
「私?」
「そうですよ。人に名前を聞くだけ聞いて、自分が名乗らないのは、しつれ…」
 私の言葉を遮って、彼女は答えた。
「私は、夕子っていうの。夕方に産まれたから、夕子。解りやすいでしょ」
「そ、そうですね」
 動揺、立腹、肩透かし。あまりに急な展開に、私はすっかり調子を狂わされて、何も言えなくなった。そして、そんな私に追い討ちをかけるように、夕子さんはさらに突拍子の無いことを言った。
「今夜、一緒に遊びに行かない?」
「はぁ?」
「どうせ暇でしょ?」
「どうせ暇ですけど」
「じゃ、行こうよ」
 夕子さんはそう言うと、私の腕を引っ張って、それからマスターに「ごちそーさま」と言って、席を立った。私は、何がなんだか解らないけれど、彼女に付いて行くことになってしまったらしかった。
 コーヒーが飲みかけだったのが申し訳なくて、マスターに「ごめんなさい」とだけ言うと、普段笑った顔など見せないマスターは、小さく私に微笑んだように見えた。