恋する街 -昼下がり-




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   4.扉の向こう側

 『斜陽』のコーヒーが飲みたい。渋いのにまろやかで、コクがあるのにすっきりと飲める、あの怪しい風貌のマスターがこだわり抜いて出すコーヒーが飲みたい。
 正直、自分がこれほどまでにコーヒー中毒(と言うよりは『斜陽』中毒なのだろう)になってしまっているなんて、私はまったく気が付かずにいた。だって、単なる習慣のように、何も考えずに毎日飲んでいたものだったのだから。

 夕子さんの家に連れられていったのが木曜日だから、私はもう五日も殆ど家から出ていない。土日は先生と家でのんびりしていたからそれは数に入れないとしても、ゆうに三日は一人きりで家に篭っているということになるのだ。
 「気が向いた時に来てみる」と言ったきり、田辺くんは気が向いていないらしく、全く音沙汰が無い。それなのに「気が向いたら待ってる」なんて気取った私は、どういうわけか気が向きっぱなしで、飲みたいコーヒーさえ飲みに行くことが出来ずにいるのだ。
 まったく。一体、私は何をやっているのやら。

 そう、こんなもの、どこにでも転がっている話なのだろうとは思う。酔った勢いで何とはなしに気心知れた関係になったような気がしてしまって、だけど次の朝にはそれが全く現実味を帯びない夢物語だと解ってしまうような、『恋らしきもの』。そんなの、小説やらドラマやら、いろんなところで見られる場面だ。そういえば、短大に行っていた頃も、そうやって一夜の勘違いを恋だと思い込んで、傷ついて泣いている友達を、何人か見てきた。
 そしてその頃の私はと言えば、年上の男と長いこと付き合っているというだけで、自分は他のみんなとは違う、大人の恋をしているかのような錯覚をしていた。自分は彼女たちのように幼い勘違いを恋と思い込んでしまうような事もあり得ないと思っていたし、だから彼女たちをほんの少しばかり小馬鹿にすらしていたと思う。
 十代の後半あたりにはその年相応の、二十歳そこそこにはその年相応の、段階を踏んだ恋の仕方というものが本当はあったはずなのに。私はそれを全部飛ばして、十四歳から今まで、先生にただ守られるばかりの恋愛しか知らずに、ここまで来てしまった。そのまま結婚したのだから、結果としては十四歳で既に結婚する人を決めてしまったようなものだ。
 だから、私はとても厚顔だと思う。恋愛に関しても、それ以外に関しても。

 今の私に、恋愛願望――こういう場合は、きっと一般的には浮気願望と言うのかもしれないけれど――は、決してあるわけではないと思う。今、私が先生との結婚生活で気に入らないことがあると言えば、猫が私になかなか懐かないことくらいなのだから、これは私にとって、とても満足の行くものだと言えるのだろう。
 田辺くんに興味があるのは、決して恋をしたいとか浮気をしたいとかいう下心からではないのだ。以前から薄々感じてはいたけれど、このまえ夕子さんと徳村さんや土屋さんの談笑を見ていて余計に強く感じたことは、本来ならばクラスメイトやら遊び友達やらで、周りにいてしかるべきだった『同い年の男の子』という身近な存在が、私にとっては未知なる物であり、だからある種の憧れを抱いてしまっている。
 夕子さんたちは、男も女もなくとても仲が良さそうで、そういった関係は男同士や女同士という友情よりも強い繋がりがあるように見えて、私はそれが羨ましかった。
 そして、その中でたまたま田辺くんが『同い年の男の子』だった。だから、私は彼に何か新しい関係を築けるのではないかと期待してしまったのだ。ただそれだけだ。
 彼があんな言葉を残しながらも私に会いに来ないということはつまり、彼にとって私という存在は、そういった新しい関係を築くようなものではなく、次の日には忘れる程度の、酔った勢いの恋の真似事だったのだ。
 何か、を。それでも待ってしまっている自分が、あまりにも滑稽。

 そんなことを、私は数日もかけて何度も何度も考えていた。踏ん切りがつかなかったのだ。もし、ほんのちょっと『斜陽』でコーヒーを飲んでいる間に、田辺くんが来たら。そうしたら、私は築けるはずの新しい関係を、みすみす逃してしまう事になるのだ、と。それが馬鹿馬鹿しい考えだということくらい、自分でも気が付いていた。
 本当は、我慢する必要なんて全くない。私のためにも、彼のためにも。飲みたいなら飲みに行けばいいのだ、『斜陽』の美味しいコーヒーを。あの店でないとどうしても飲めない絶品のコーヒーを。
 築けるかどうかも解らない関係を失うことを避けるより、多分、たった一杯のコーヒーのほうが私の心を満足させる。今は。
 ようやく思い立った私は、外に出る準備を始めた。外に出るのが久し振りだと思うと、軽く緊張する為かかもしれないけれど、なぜか私の背筋はピンと伸び、化粧のノリも良い気がする。天気も良い。普段着としては絶対に着ない事に決めている薄紫色のワンピースを着る。
 気分が良い。
 これで良いんじゃない。

 いつもならば、どこかをフラフラと歩いた帰りに立ち寄る店に、家から直接行くというのも、妙に新鮮味があるものだと思う。もう午後三時をまわっているのだから、結局はいつも立ち寄る時間と変わらないけれど。いつも帰り道だけに使っている道を、逆に進む。今まで気付かなかった、小さなパン屋を発見して、少し嬉しくなった。
 ほんの十分ほどで辿り着いた『喫茶・斜陽』の看板の前で、私は一息ついてから、やや重いドアを開けた。
 店内を覗く。
 カウンターの中にいるマスターと目が合った。
「お久し振りですね」
 低く、小さくはあるけれど、マスターは確かにそう言った、と思った。普段は、どんな常連のお客さんとも、滅多に必要以上の会話をすることもないマスターにそんな声をかけてもらうのは、もちろん初めてのことだったので、私は嬉しくなった。
 たまたま見つけた店に、何となく美味しいコーヒーが飲みたくて通うようになったという事実。気が付けば私だって、いわば「常連」の仲間入りをしていたみたいだ。
 平凡で幸せで問題のない真っ白な毎日、だけど、自分で扉を開けてみれば、色々なところに居場所を作れるのだ。
「モカ」
 私がいつもと同じように、一言で注文を伝えると、マスターもいつも通り、黙ったままただ頷いて、豆を挽き始める。
 客は私と、あともう一人(彼もまた良く見かける顔なので、常連なのだろう)しか居なかった。夕子さんも来ていない。
 とてもゆっくりと時間が流れる中、私の目の前には静かにコーヒーが出される。うっすらと見える湯気を見ながら、わたしはそれに口をつけた。やっぱり、美味しい。私はその気持ちをマスターに言葉で伝える代わりに、黙って頷いた。丁度その瞬間に、入り口のドアが開いて、三人目の客が入ってくる。
 私はドアの開く気配に、ひょっとしたら夕子さんが来たのかもしれないと思って、入ってきた客の顔をチラリと確認ようとした。
「あ」
 あまりに驚いて、なんとも言葉が見つからなかった。まっすぐにこちらへ歩いてきて、私の隣の椅子を引いたその人は、なぜか田辺くんだったのだ。

 「やっと会えたよ」
 田辺くんは、さも自分は大変な苦労をしたかのような言い方をした。
「なんで、ここに?」
 単純な疑問。それを口にするのが、今の私には精一杯だ。
「夕子さんにさ、あの夜話したんだよ。『はなちゃんと、気が向いたら会おうって約束したんだー』って。そしたら夕子さんが、家に行くよりも、午後四時前後にこの店に来たほうが、はなちゃんに会えるはずだって言うから」
「それで、この店に来てたの?」
「そうだよ、もうあれから毎日来てた。本当は、もし会えたら偶然を装うと思ってたんだけどね」
 そう言って、田辺くんは小さく笑った。必要以上の悪意も善意もなく、ただ思っていることを口にしただけ、という感じの言い方が、田辺くんらしいのかな、と思う。私が『斜陽』に来ていなかった五日間のうちに心得たのか、もうすっかり慣れた感じでマスターにコーヒーを頼んでいる姿を見ていると、とてもじゃないけれど『私だって、あれから家から一歩も出ないで、あなたのことを待っていたんだから』なんて言える状況ではないと、私は頭のどこかで妙に冷静に考えていた。
 色々考えすぎていたのだ、ここのところ。頭だけで考えていると、ろくなことがない。
 だって、会ってみなきゃ解らなかった。やっぱりこれは、恋になってしまう、かもしれないことも。