恋する街 -昼下がり-




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   5.境界線上

 こんなにおしゃべりに夢中になったのなんて、いつ以来だろう。そうだ、中学時代だ。放課後に同じクラスの奈央と、屋上に続く階段(屋上が閉鎖されているから、普段は誰も来ない。秘密の話をするときなどには定番の場所だった)で、こっそり恋の話をしていたあの日。窓のないその場所では、いつ陽が沈んだのかもわからない状態で、私たちの話はずっとずっと止まらなくて、いざ帰ろうと思ったら、いつのまにか夜も遅くなって学校に閉じ込められてしまっていた。
 私はその時、先生と男と女の関係になってしまった直後だった。話しても話しても足りないくらい、私は始まったばかりの、歳の離れた男の人との大人の恋愛(らしきもの)に夢中になりすぎていたし、奈央は小学校から続いている四年越しの片想いにそろそろ決着をつけたいという気持ちで頭が一杯だった。ようやく帰ろうという話になって、校門も職員玄関もすべて閉められてしまったと気が付いて(勿論、中からドアや窓を開けるのはとても簡単なことなのだけれど)、随分バツの悪い気分になったのを鮮明に覚えている。男の話でこんなになるまで時間が経つのを忘れるなんて、自分たちは盛りのついた単なる雌だ、と。

 普段は必要以上の言葉を発することのないあの『斜陽』の店長が、
「閉店です」
 と、ようやく口を開いたのが、実際の閉店時間を二時間半も過ぎた夜の十時半だと気付いたとき、私はあの時とまったく同じようなバツの悪さを感じた。もっと早く言ってくれれば良いのに。店長も人が悪い。
 田辺くんとの話は常に一点に留まらず、いろんな方向に飛んで行くのだけれど、それでも全部理解できたし、全部楽しかった。同い歳だからなのか、彼が話題にするものは全て私が興味をもっているものだったし、ものの見方や感じ方がとても似ているのが良かった。違うのはきっと、それを表明するかしないかという性格の部分だ。私がいつも思っていても巧く言葉に出来ないようなことを、田辺くんはひとつひとつ見事に言葉としてアウトプットしていく。それを見ているのが、とても気持ち良かった。
 私たちは、ともかく閉店と言われてしまい、急いで会計を済ませて、店の外へ出た。
「ごめん、こんな時間になってるなんて気が付かなかった。送っていくよ」
 田辺くんは、そう言って頭を下げた。送っていく、ということは、今日はこれでサヨナラということだ。
「大丈夫、すぐ近くだもの。それに、旦那に見られたくないもの」
 私が笑ってそう言うと、田辺くんは「そうか」と小さく呟いて頷いた。
「じゃあ、また会おうね」
「気が向いたらね」
 そう言い合って、私たちは『斜陽』を出たところで右と左に別れて帰っていった。手を握ることすらなく。
 家に帰って、すぐにシャワーを浴びた。まだ先生が帰るはずもない時間だということくらい、本当は知っている。頬をつねってみた。笑いすぎて、顎の付け根が痛い。

 その日から、私が『斜陽』に通う日常は戻ってきた。田辺くんも、講義やバイトなどで時間をとられない限り、コーヒーを飲みに来るようになった。勿論、夕子さんも今までと同じようにコーヒーを飲みに来て、時々鉢合わせる。そんな時は、三人で馬鹿な話をして笑う。そうでない時は、二人でも馬鹿な話をして笑う。これが、私の毎日になった。だけど、私の毎日はそれだけである、と言えば、それだけなのだった。
 田辺くんは、私とコーヒーを飲みながら他愛もない会話をする以外のことは、決して望む素振りも見せない。初めて此処で再会したときのような失敗はしないように、『斜陽』の閉店時間を気にして腕時計をちらちらと見る。そして、私を送るとも言わない。彼が『斜陽』の重いドアを開けてくれて、私が「ありがとう」と言いながら外へ出る。そして、「またね」と言い合って、当然のように右と左に別れて帰る。それが日常になった。
 家に帰って、先生を待つ。その時間に考えるのは、とうとう田辺くんのことばかりになってしまった。田辺くんが今日話していたことを思い返して、ふっと笑う。私と会っていない間の田辺くんが、どうしているのかを考えては、きゅっと切なくなる。田辺くんはどうして、ただ私とコーヒーを飲みながらおしゃべりをするだけなのだろうと考えると、もう喜怒哀楽では表現できないような、複雑に絡まった多様な感情が私の中で波打つのが解る。
 以前、この真っ白な部屋で、一人で先生を待っていたときに毎日飲んでいたワインは、すっかり飲まなくなった。すると、随分と朝起きるのが辛くなくなった。猫は、私が構おうとしなくなると、意外と寂しがって寄ってくる。私は、高い声で鳴くその動物を無視するでもなく、横に座らせたままで色々と物思いに耽り、その結果、突然思い立ってバスルームの掃除を始めたりするようになった。掃除に留まらず、以前から程よく手を抜いてそれなりにしかこなしていなかった家事を、甲斐甲斐しくするようになった。先生に対しても、なぜか今まで以上に優しくなれた。優しく、というのは少し違うかもしれない。今までは何も考えずに彼に従うばかりだったのが、ある程度自立した精神状態でもって、なお寛容になれた感じがする。
 外で誰かと会うことで、やさしい気持ちになって帰って来ているというのもあるかもしれないし、逆に、外で複雑な感情に揺れているからこそ、自分の場所を心地よく感じるようになったのかもしれなかった。その充足感と罪悪感の狭間で、私の行動は夫への奉仕(家事のようなものから、セックスまでのすべてを包括する意味で)という形となって現れているのかもしれない。何れにせよ、この家の中は今までにも増して平穏で、幸せで、真っ白になった。

 先生がそんな私の様子に気がついたのは、私が田辺くんと会うようになって、たっぷり一ヶ月も経った頃だった。
「最近、よく家事をやってくれてるね」
 土日は夫婦二人で、家で一緒に家事をしながらゆっくり過ごすという約束ごとは、未だにしっかりと守られている。私たちはとても仲の良い夫婦に見えると思う。
「私が誰よりも長時間ここにいるから、きれいにしなくちゃって思い始めたの」
 にっこりと笑ってみせる。これは、心にも無いような言葉でもあるし、複雑なものを全て取っ払ったところにある真実の言葉でもあった。どこかでバランスを崩して、どこかでバランスを保とうとしている。
「最近は、くだらない愚痴も口にしなくなったよね」
「そう?」
「無口になったわけじゃないのにな。何て言うか、母性みたいなものを醸し出すようになったなあって。ひょっとしたら子供でも出来たのかと思ってたけど」
「残念でした」
 昨日は一日、生理痛を理由にゴロゴロしていたので、先生もそこらへんは解っているようだ。
「最近、何か変わったことでもあった?」
 急にそんなことを言うので、私は内心ドキドキしながら答えた。
「話し相手が出来たのよ」
「ふうん?」
「あの、偶然知り合ったんだけどね、実はそれがこのマンションの住人で。十階に住んでるの。すごく美人で、部屋もかっこよくて、かなりマイペースで性格も良いとは言えないんだけれど、話もとても面白くて」
「へえ、知らなかった」
 先生は、何かを疑っているふうでもなく、穏やかな表情をして、何か旨いものでも食べに行こうか、などと言い、私を外に連れ出した。あんなにまくし立てる必要は、無かったかもしれない。自分の首筋が、うっすらと冷や汗をかいていることは知られたくないと思った。
 「あれー」
 マンションの外に出たところで、背後から大きな声が聞こえた。びっくりして振り返ると、後ろから夕子さんが駆け寄ってきた。
「これが、はな恵の旦那さん?」
 夕子さんは相変わらず自分のペースで話を始める。人の旦那に向かって『これ』はあんまりだと思うのだけれど、夕子さんだからそれも笑える。それに、あまりにもタイミングが良くて、私は思わず笑ってしまった。
「先生、これがさっき話してた人」
 私は先生に耳打ちをする。先生は、「なるほど」と妙に深く頷いて、それから夕子さんに挨拶した。
「いつもうちのはな恵がお世話になってます。内山と申します」
「やだー、お世話なんて」
 夕子さんは相変わらず豪快にケタケタと笑って、それから自己紹介を始めた。
「夕子です。このマンションの十階…」
「あれ?」
 夕子さんの言葉を遮って、先生は急に裏返ったような変な声を上げた。私と夕子さんは驚いて顔を見合わせた。先生は、しばし宙を見つめて、それから何かを思い出すかのように言った。
「『夕子』って…あなた、昔うちのティーンズ向けファッション誌でモデルやってませんでした?」
「は? 『うち』って?」
「失礼。私、明光出版に勤めてまして」
「えー、マジー! やってたやってた、『スウィートティーンズ』。あたし、あそこからデビューしたんだもん」
 マンションを出たところの道端で、私の旦那と、私の友達が、突如、私の知らない世界の会話を繰り広げ始めてしまった。
 要は、出版社に入社したての先生が、新入社員研修で色々な現場を見学していたときの話。モデルとしてデビューしたての夕子さんの初めての撮影に、先生が立ち会う機会があったのだそうだ。勿論その当時は夕子さんは無名だったけれど、先生は「このモデルさんはスターになるんじゃないか」などと考えたらしい。そうして数年後、実際に夕子さんが多数の雑誌で活躍する人気モデルとなったことを、かなり誇りに思っていた、けれど、その夕子さんは突然モデルを辞め、その業界から姿を消してしまって、とても残念に思っていた、と。先生の話していた内容は、そんなところだった。
 理解できない内容ではなかった、けれど、本当のところどうなのかは解らないものだと思う。だけどそれは、先生と夕子さんの間の何かを疑っているという訳では、決してない。
 夕子さんと話をしているときの先生の顔は、私の知らない人だった。真っ白な家にいる、とても優しい旦那であるところの男の人ではなく、外で仕事をしている男の人だった。
 それで私は初めて悟った。
 私が真っ白い家と『斜陽』とでそうしているように、先生だって幾つかの顔を使い分けて生きているのだ。私の知っている、いつも優しくて穏やかな先生という像が、先生のすべてと言うわけではないのだ、と。