恋する街 ―星影―




佐藤 由香里







 ( 1 )

 暫くの間窓を開けて、お風呂上りの火照った体を夜風で涼ませていた。
 パジャマの上に羽織ったカーディガンの袖で指先近くまで手を隠して、両手で包み込むようにマグカップを持ち、夜空を見上げながらホットミルクを飲む。冷えかかっていた体内に熱い液体を流し込むと、突然の温度差に驚いて体がビクンとなった。体がすっかり冷えきっていたから、大して熱くもないホットミルクを余計に熱く感じたのか。それとも、外は体を涼ませる程度に丁度良い気温だったのに、一口飲んだホットミルクが思いの外熱かったのか。いずれにせよ、どういう現象がそれを引き起こしたのかは判らなかったけれど。
 唇の端に付いたミルクをぺっろと舐めて溜息をついた。
 ああ、今日が終わってしまう。
 私の複雑な心境をよそに、ホットミルクの表面を覆っていた膜は固まったままマグカップの中でぷかぷかと気持ち良さそうに浮いている。

 二階の自室の窓から見下ろす夜の街。数十メートルおきに整列して並んでいる街灯が、夜の闇に溶けまいとして一生懸命光を発しているように見えた。光と影のコントラストが目に沁みて、切ない気持ちになりながらゆっくりと窓を閉じた。

 明日がこないで欲しいと毎晩のように思う。それでも目が覚めると確かに『明日』になっていて、空を見ながら願った夜は『昨日』になっているのだ。私がいくら『今日』という日にしがみつこうと思っても、時間の流れは私をさらって未来に連れて行こうとする。人間には平等に1日24時間、1年365日が与えられているのは当然のことなのだけど、だからと言って、その流れに身を委ねるのがどうしても嫌だった。私は永遠を手に入れたかったのだ。



「ねえねえ藤村先生。家庭科の時間にクッキー作ったから食べてえ。」
 いつも職員室の中では、普段ははきはきと喋る早苗が途端に舌足らずで甘えた声の少女に変わる。早苗は藤村への露骨なまでのアプローチをこんなふうに毎日毎日続けている。全く、付き合わされる私の身にもなって欲しい ---- というのは表向きの話で、実は早苗が今日はいつ職員室に行こうと言い出すのかを常に期待していた。
「これは三沢が焼いたのか? へえ、うまそうじゃないか。」
 藤村はそう言いながらほんのりと茶色い前髪をかきあげると、指の隙間からさらさらと髪が流れ落ち、窓から差し込む光に照らされて金色に輝いた。彼はどうしたら女の子の目を惹くことができるのかを知った上でやっているのではないか、といつも思う。
 藤村はうちの中学の女生徒からとても人気がある教師だ。確かに外見は爽やかで背も高い。欧米人並みに常にレディファーストだし、気の利いたジョークも言える。でもそれは人気を得るための作戦としか思えないほどにあからさまなもので、私は藤村のそういうあざとさに前々から嫌気が差していた。そんな藤村の腕に早苗は絡み付いて、二人してじゃれ合っている。私はうんざりして視線を移すと、藤村の机の斜め前に、熱心に教科書を読んでいる渡部先生の姿を見つけた。
 ---- 違う。見つけたという言い方は適切じゃない。私は彼に会いたいがために、いつも早苗に付き添っている振りをして一緒に職員室に来ている。事実、今日も早苗が藤村の姿を見つける前に、既に私は渡部先生を見つけていた。
「渡部先生、何やってるんですか?」
 私は平常心を装って、出来るだけさりげなく聞こえるように声をかけた。
「ああ相原か。いや、明日から新しい分野に入るから、ちょっと予習をな。」
 全く渡部先生らしい。生真面目を絵に描いたような彼は、他の教師が全員帰っても一人で職員室に残り、黙々とプリントを作成したり、テストの採点をしたりしているような教師だった。お世辞にもルックスが良いとは言えないし、着ているスーツもどう見たっておしゃれじゃない。藤村はいつ見てもデザインも色も素敵なスーツを着ていて、ネクタイもネクタイピンにも拘わっているようだけど、今目の前にいる渡部先生は上着のボタンを全開にし、ワイシャツのポケットの中にネクタイを無造作に押し込んでいる。ヘアスタイルに至っては、まるで自分で切っているのではないかと思ってしまうほどに毛先が不揃いで、当然藤村のように髪の色を変えたりセットをしているはずはなく、どこからどう見てもおしゃれとは無縁の風貌だ。
 こんなんじゃあ、私以外の生徒にモテる訳はないか。
 私はそんな渡部先生を見下ろしながらくすくすと笑った。渡部先生は「こら、何がおかしいんだ」と不機嫌そうな顔を一瞬して、それから私につられて笑い出した。
「しかし三沢の付き添いとはいえ、お前も毎日大変だな、相原。」
「大丈夫ですよ。もう慣れたし。」
 まさか「先生に会いたいから」とは言えないから、適当なことを言って笑っておいた。渡部先生は「そうか」とだけ言って、私に満面の笑みを向けた。そう、この笑顔。私の胸はきゅうんと締め付けられた。向こうの方から藤村の「三沢、これうまいぞ。」という言葉と早苗の奇声が聞こえてきたような気がしたが、私には聞いている余裕など無かった。

 実は、彼らはこの中学の正式な教員ではない。数ヶ月前、数学と社会科の女性の先生二人が同時に産休を取ったため、復帰までの間の勤務ということで呼ばれた臨時教員だ。休みに入った先生二人に代わって、渡部先生が数学を、藤村が社会科をそれぞれ引き継いだのだ。新卒だった彼らは、云わばアルバイトのような扱いらしかったが、私達生徒にとって教師は教師だ。ただ、産休が明けて前の先生達が復帰するのもそう先ではない。噂によると、彼女達の出産はもうすぐで、産後の体調管理さえ整えばすぐにでも復帰してくるだろうとのことだった。でも、私達三年生が卒業するまでの残り数ヶ月の間に復帰するのは難しいだろうと思う。

 目の前にいる渡部先生は、さっきまでの子供みたいな無邪気な表情を一変させて、再び数学の教科書を睨みつけている。もしかすると、私は彼のこういうギャップに惹かれたのかもしれない。でも、それも随分と曖昧だった。私は好きという感情がどういうものなのか、未だにはっきり解らないでいる。でも、会いたいとか、相手のことをもっと知りたいと思うことが恋なのであれば、私は間違いなく渡部先生に恋をしている。そういうことになるのだと思う。まさかこんな気持ちを渡部先生に抱くことになるとは、私も思っていなかった。当初の印象からは、本当に想像もできない。

 渡部先生が初めてこの学校に来た日のこと。
 新任教師である二人の先生は、全校集会の時、体育館のステージ上で全校生徒に向けて挨拶をした。藤村は余裕たっぷりで微笑みさえ浮かべてスピーチをしたけど、渡部先生はガチガチに緊張して何を言ってるかもさっぱり解らなくて、生徒達に大爆笑されていた。その時は私も「何だか妙な先生が来たな」と思っていて、実の所、第一印象はあまり良くなかった。それでも毎日早苗に半ば強引に職員室に連れて行かれるようになって、藤村とお喋りしている早苗を待っていると目の前にはいつも渡部先生がいて、早苗が藤村と話している間に私は渡部先生と話すようになっていった。いつも真面目な渡部先生が、話してみると意外に気さくで、子供のように無邪気に笑う人だと気付いてから、私はどんどん彼のことを意識するようになった。自分でも驚いた。まさか7歳も年上の男の人の笑顔を見てかわいいと思ってしまったことに。私が今まで持っていた既成概念を壊してくれる人かもしれないという期待が、私の心を彼に向かわせているのだと思う。それは単なる錯覚かもしれない。それでも私は今の自分の気持ちに正直でありたいがために、恋心という認識を否定しないでいる。

 私がそんなことを考えていると、渡部先生は真剣に見入っていた教科書を閉じて、ふうっと溜息をついてから、私に話しかけてきた。
「なあ。お前、ちゃんと寝てるのか?なんだかぼーっとしてるぞ。」
「え、そうですか?」
「さては夜遅くまで受験勉強してるんだろう。勉強もいいけど、ちゃんと寝ないとだめだぞ。今の時期が一番大切なんだ。体調管理には十分気を付けろよ。」
 確かに受験生にとって今は追い込みの時期だった。でも、正直なところ、私は勉強らしい勉強をほとんどしていなかった。夜なかなか寝付けないのは、渡部先生のことを考えているからなんだけど。それなのに「受験勉強」か。そんなところまで真面目なのが本当に渡部先生らしい。

 渡部先生がこの中学の正式な教員だったらと思うことは多々あった。そしたら少なくとも卒業までのあと数ヶ月間は毎日学校で会える。それどころか、もしかすると卒業しても何かの機会に会えるかもしれない。でも、私はそういう訳には行かない。実は、私は中学を卒業すると同時に引っ越すことが決まっている。卒業式の数日後には私はこの街を離れ、違う土地で新しい生活を送ることになっているのだ。進路指導の時、紙に書いたの志望校は全てここから200km以上離れた場所にある町の高校だった。それだけ遠くに行ってしまったら、渡部先生に会える機会はそうそうない。もう二度と会えないかもしれない。渡部先生にも期限があるように、私にも期限があるのだ。あとどのくらい、渡部先生の隣で笑っていられるのだろう。

「ねえ、渡部先生。いつまでいられるんですか?」
 私は意を決して聞いた。それは聞きたくないのに聞きたかった質問だった。渡部先生は「うん」と一言おいてゆっくりと答えた。私にとって、知りたいけど知りたくなかった答えを。
「一応な、あと一ヶ月って決まったんだよ。」
 それを聞いた瞬間、心臓がドクンと鳴ったのが解った。たった一ヶ月。そんなにすぐに?せめて卒業までは居てくれるだろうという私の勝手な希望は、その瞬間に見事に打ち砕かれた。
「え、だって産休に入った先生達は、まだ・・・」
「ああ、2人とも先日産まれたらしいよ。退院して少ししたらもう復帰できるらしい。」
「そ、そうなんですか。」
 私は動揺した。そこに突然私の言葉を遮って、早苗が会話に割り込んできた。
「てことは、先生達二人ともあと一ヶ月しかいないのお?」
「そうだよ。俺も渡部先生と一緒。あと一ヶ月だ。」
 藤村も便乗する。
「えー、やだあ。卒業式まで居てくれると思ってたのに。そんなのいやだあ。」
 早苗も私と同じ気持ちだったようだ。彼女は泣きそうになりながら藤村のスーツの袖を握り締めて嫌がった。私だって嫌だけど、そんなことを言ったところで学校側の決定が覆されるはずもない。仕方の無いことなのだ。でも、それでも藤村にあそこまで気持ちを思いっきり表現できる早苗を羨ましいと思った。
「ちょっとお、香織は嫌じゃないの?先生達がいなくなっちゃうんだよ?」
 突然早苗が私にふってきたので、私は慌てて答えた。
「だってしょうがないじゃない。もう決まっちゃったんだから。」
 いくら突然だったとはいえ、思わず可愛げのない返事をしてしまった。早苗みたいに素直になれたらと、その時すごくそう思った。



 その日からだ。私が夜空を見上げるようになったのは。
 あと少しでやってくる別れの日を迎えるのが嫌だった。このまま夜が明けなければいいのに、と、心から思った。
 教師だからとか生徒だからとか、そんなことは関係ない。逆に教師と生徒という背徳的な何かに憧れている訳でもない。ただ、職員室の隅っこで、この先もずっと先生の笑顔を眺めていたいだけだった。ただそれだけ。
 でも、いくらそう願っても必ず夜は明ける。間違いなく明日はやってくるのだ。