恋する街 ―星影―




佐藤 由香里







 ( 3 )

 整列して並んでいる置き傘。下校を促す放送。夕暮れの昇降口に、私と早苗はいた。
 早苗の赤く腫れた目が私を睨んでいる。涙を堪えようとして出来た下唇の歯の跡は痛々しく、私を責めるために今にも動き出しそうだった。私は私で、さっきから震えが止まらない。
「本当は心の中で私のこと馬鹿にしてんでしょ!」
 低く響く早苗の怒鳴り声が私の胸を急角度で抉る。早苗を怒らせるつもりなんてこれっぽっちもなかった。早苗が藤村のことを気に入っていたことはもちろん知っていたけれど、まさか本気になっているとは思っていなかったから、先日藤村が私の家に来たことを言った。早苗はそんなことは聞いてないと言い出し、私は私で特に言う必要も無いと思って今まで言わなかったと言い、そこから話はこじれていった。
「そうやって、いつも全部悟ったような顔してさ。大人ぶったって所詮中学生でしょ? ガキはガキなのよ。」
「そういう早苗だって子供でしょ。何も知らないくせに、おめでたいんだから。」
 言ってしまった。一瞬そう思ったけど、一度口から出てしまった言葉は、まるで本音を押さえつけていた蓋のように勢いよく飛び出した。すると、今まで心の中に潜めていた言うつもりのなかった言葉が、先陣を切って飛び出した言葉につられて次々と飛び出していった。
「……どういう意味よ。」
 私には溢れる感情を止めることなんて出来なかった。
「今まで黙ってたけどさ、藤村先生にはね、ずっと想ってる人がいるの。もう何年も、ずっとその人のことが好きなんだって。早苗は藤村先生のことを何年も好きでいられる自信はある? いつも先生のことが好きだ好きだって言ってるけどさ、それって本当に好きな訳じゃないんだよ。ただちょっとかっこいい先生に目を付けてきゃあきゃあ騒ぎたいだけなの。それって本当の恋じゃないよ!」
 そこまでを一息で言って私は黙った。早苗は私を見据え、小刻みに震えている。
「…ひどいよ香織。もうあんたなんか、友達じゃない!」
 そう言い残して、早苗は走って昇降口を出て行った。私は早苗の後姿が見えなくなるまで、ずっと彼女の背中を見つめていた。

 私は鞄の中からCDウォークマンを取り出して、イヤフォンを耳に挟んだ。再生ボタンを押すと、CDはキュルキュルと音を鳴らして回りだした。緩やかなイントロが流れて、透き通ったファルセットが鼓膜を刺激する。バラードが心に染みてくる。
 私、ちょっと言い過ぎたかなあ。
 酷いことを言ってしまった後にいつも思う。一度口から出てしまった言葉は、もう飲み込むことは出来ないのに、と。そんな時に私は毎回、この、愛用している再生専用の使えないCDウォークマンと自分を重ね合わせてしまう。ただ再生された音をイヤフォンから流すだけのCDウォークマンと、何の配慮もなくただ思った言葉を吐き出してしまった私。その程度の価値しか自分に見出せない自分に苛立ちながら、夕焼けが差し込む昇降口を後にした。

 背中にオレンジ色の空を背負い、私は歩いていた。本当は何も考えたくなかった。でも頭の片隅には、ここ最近悩み続けていたことが渦巻いていて止まらなかった。もう判らない。考えれば考えるほどこんがらがっていって、何が何だか、一体どうすればいいのか判らなくなってきた。頭の中が整理できなくて、私は考えることを放棄した。そうしたら、急に涙が溢れてきて止まらなくなった。
 気付かない振りをしていただけで、多分気付いていたのだと思う。今は、今だけは、渡部先生のことよりも、卒業後すぐに引っ越さなければいけないことも、どうでもいいと思っていたことを。早苗のことだけが頭の中のほとんどを占拠していて消えない。自分の言った心無い言葉を、出来ることならあの瞬間に戻って飲み込みたい。でも、もう遅いのだ。私は早苗が傷つくと判って、あえてその言葉を選んで言い放ってしまったのだから。
 私は立ち止まったまま静かに泣いた。一周して止まってしまったCDを放置したまま、ただ泣き続けていた。

「相原、さん?」
 突然、耳を塞ぐイヤフォンの向こうから声が聞こえた。顔を上げると、そこには音楽の松越先生が立っていた。週一回の音楽の授業で会う以外は、特に親しくしていた訳ではない。先生は私の顔を覗き込むように見ている。
「どうかしたの?」
 私は慌てて頬の涙を拭った。
「あ、いえ、別に。」
「…そう。」
 妙な沈黙が二人の間に流れる。頬に残る涙の跡を見れば、何かあったことは一目瞭然なのだけれど、松越先生は何も聞いてこなかった。逆に、気まずい。それじゃあ、とか何とか言って、走って帰ってしまおうか。しかし、その重苦しい沈黙を破ったのは、私ではなく彼女の方だった。
「じゃあちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど、いい?」
 そういうと松越先生は私の返事を待たずに歩き出してしまった。待って、と言おうとしたけれど、立ち止まっている私を置いて、先生は既に歩き始めている。私は諦めて彼女の後ろについて行った。一体どこに連れて行かれるんだろう。CDショップや雑貨屋を通り過ぎ、狭い路地に入った。初めて通る細い道。ここはどこなんだろう。ちょっと不安になってきた時だった。
「ここなの。」
 松越先生はそういって古めかしい木製のドアを開けた。ギィッと重そうな音が響く。表の看板には『喫茶・斜陽』と書いてある。随分と古い造りの建物で、外観はあまりきれいとは言えず、店内も狭い。薄暗い照明。奇妙な形をした置物。なんだかその辺の喫茶店とは様子が違う。
「こんにちは。」
 松越先生は店主に向かって挨拶をすると、彼はソーサーをクロスで拭いている手を止めて会釈をした。あまり愛想の良くない無口な店主。初めての雰囲気に私は戸惑った。先生は店の一番奥のテーブルに座り、ふうっと溜息をついた。私も彼女の正面に座り、隣の椅子に荷物を置いた。
「何を飲む?」
 壁にかけてあるメニューを見ると、コーヒーばかり並んでいるようだ。私は苦い飲み物が苦手なんだけど、どうしよう。
「もしかして、コーヒーは苦手だった?」
「い、いえ。初めての店なので、何がおいしいのか判らなかっただけです。」
 松越先生は私の目を見つめていた。この人に見つめられると、私の心の中を読まれてしまいそうで、私は慌てて目を逸らした。
「ふうん、じゃあ私に任せてもらってもいい?」
「え、ええ。」
「じゃあ、マスター、エスプレッソ二つ。」
 店主は何の言葉も発さず、軽く頷いて、手に持っていたソーサーとクロスを置いた。
「ここのコーヒーはとても美味しいのよ。」
 そう言って松越先生は微笑んだ。細い腕にはブレスレットの様なシルバーの腕時計が光っていて、爪は淡いピンク色のネイルカラーで彩られている。大人の女性だと思った。
「先生はおいくつなんですか?」
「私は24歳。まだまだ新人の教師よ。」
 その時マスターがコーヒーを運んできた。エスプレッソ、って名前だったっけ。普段目にしているコーヒーカップよりも一回り小さいカップがソーサーに乗っている。
 シュガーポットからスプーンを取り出して、松越先生は聞いてきた。
「砂糖はいくつ?」
「いえ、砂糖はいりません。このままで。」
「あ、でも…」
 私は先生が言い終わる前に私はコーヒーを飲んだ。
「うっ…」
 苦い。すごく苦い。私はけほけほっとむせて慌てて水に手を伸ばした。喉に引っかかった苦味を水で洗い流す。やっぱり私、コーヒーは苦手だ。でも砂糖を入れて飲むなんて、なんだか子供っぽくて嫌だった。私の失態を横目で見ながら、松越先生は一杯の砂糖を泡だったエスプレッソの表面に浮かべた。なかなか溶けない砂糖がゆっくりと沈んでいく。
「何だか、早く大人になりたがってる気がする。」
「え?」
「今の相原さんを見てるとね。違うかな。」
「そうなふうに見えますか?」
「なんとなくね。私にもそんな頃があったから。」
「先生に?」
「うん、周りの子がすごく子供っぽく見えてね。私はそういう人たちとは違うんだって、精一杯背伸びをしてた。でもさ、判っちゃったんだ。そう思ってる自分が、子供なんだってことを。」
 松越先生は私をじっと見据えていた。もう私も目を逸らさなかった。
 確かにそうだ。私はそうやって他人を見下すことで、他の人達より大人なんだと思い込もうとしていた。だから早苗に図星を突かれて、あんなことを言ってしまったんだ。
 私は自分が無理をして大人ぶろうとしていたことを認めた。その苛立ちを、何の関係もない早苗にぶつけてしまったことも。一度止まったはずの涙が再び溢れてきた。
「カプチーノ」
 先生はマスターに再び声をかけた。頷くマスター。先ほど見た光景が繰り返される。先生は何も言わなかった。ただ、泣き崩れる私の顔を穏やかな表情で眺めていた。カプチーノがテーブルに運ばれてくると、一言だけ「ほら、温かいうちに」とだけ言って私を促した。コーヒーの表面を泡だったミルクが覆っていて、見るからに美味しそう。一口飲むと、口の中で微細な泡がシュワシュワと弾けて消えていった。ほろ苦いコーヒーと甘いミルクが混ざって、私の喉を通る。
「…おいしい。」
 松越先生もコーヒーカップを口に運び、二人で一緒に溜息をついた。
「おいしいでしょう。ここのコーヒー。」
「はい。本当に。」
「温かい飲み物は、人の心を落ち着かせる作用があるんだって。」
「そうかもしれませんね。何だか落ち着きました。」
「それとね、私、相原さんに謝らなきゃいけないことがあるんだ。」
「はい?」
「このエスプレッソはね、砂糖を入れて飲むのが本当なの。エスプレッソをブラックで飲むなんて、どんなに苦いコーヒーが好きな人でも滅多にいないの。」
「そ、そうなんですか?」
「うん、素直じゃない相原さんを試そうとして、意地悪しちゃった。」
 そう言って先生は満面の笑みを私に向けた。大人っぽいと思っていた松越先生の、まるで子供のような無邪気な笑顔に、私は一瞬ドキッとした。
「年相応で、いいと思うよ。無理して背伸びしてると疲れるでしょ。」
 私は返事をせず、ただ頷いてカプチーノを飲んだ。不必要な虚栄心が泡と一緒に弾けていくような気がした。

 再び重いドアを開けて店を出ると、外は既に真っ暗になっていた。空には今日も星が輝いている。
「先生、ごちそうさまでした。」
「うん、少し歩こうか。」
 細い路地を抜け大通りに出ると、ジュースの自販機が目に止まった。
「あ、先生。ちょっとここで待っててもらえますか?」
 私はそう言ってウォークマンからCDを取り出した。小学生の時、もらったお年玉で買った、愛着のあるCDウォークマン。
「それ、どうするの?」
 先生は不思議そうな顔で尋ねてきた。
「こんなものは、もう私には必要ないから。」
 心の中で早苗に謝りながら、私は長年愛用していたCDウォークマンを、自販機の隣にあったゴミ箱に捨てた。