恋する街 -夜明け前-




岩井市 英知








 男がトクから託けられたもの、昔馴染みのよしみで依頼されたわけであったが、その内容は男にとって十分に魅力的なものだった。トクは決していいかげんな男ではなかった。男に依頼するからにはやはりきちんと主旨を説明し、必要とあらば資料も集めた。労力も惜しまない。そして謎解きのような口調で、喋り出した。もしかしたら、それはトク自身の魅力であったかも知れない。男はそういう彼を知ればこそ信用し、引き受けたのだから。
 「それで、これから何処へ行く?俺もたいして暇じゃないぜ」
 男は言った。
 「何言ってんだ、相も変わらず暇じゃ可哀相だと思って借り出してやったんだぜ。少しはその腕も使いたいだろう?」
 「”暇”とはひどい言い草だな、俺だって言うほどは暇じゃないぜ」
 ふたりは軽口を叩き合う。
 「なぁに。君、写真やってたろう?カメラ持ってこさせたよな」
 男が背負った鞄からごつごつとしたカメラを取り出すのを見て、トクは黒の光沢のあるジャケットのポケットから煙草を取り出し、それから例のひどく大きな鞄から手帳を取り出しながら言った。
 「一応な。『やっていた』とは言い切れないな。プロじゃないから下手くそだぜ」
 「まぁまぁ。いいんだよ、君の腕が欲しいのはその先だから。あくまで資料だ」
 「フフフ、何か企んでやがるな」
 男は意味有り気に笑う。恐らく、トクの性向を知って。トクはその間もずっと手帳を繰り続ける。
 「これから、俺のかつての知り合いを総動員させる。俺の昔の人脈は知っての通りだな?」
 「うん」
 「ある貸しない貸しを全部使っていくぜ。オールキャストだ」
 「ハハハ」
 「と、きたら。まずは俺の写真を一枚」
 トクは自分を指差し、端のコンクリートがむきだしの壁の前に立った。
 「撮るぜ。笑えよ」
 シャッターの切れる音が大げさに響いて、トクは自信有り気に豪胆な顔つきで咥え煙草のままわざとらしく笑った。

 トクの手帳に並ぶリストの中から選びに選んで呼び出した歳若い女は、はじめは困惑していたものの再会を果たした彼との間に生じた懐かしさに引きずられる形で、終いにはろくに主旨も聞かず、いやもしかしたら聞いたが理解しなかったのかもはしれないが、快諾した。
 「サキ、相変わらずイイ女だな」
 トクは普段の彼よりもより男性的な喋り方で言う。女のほうも嬉しそうだ。
 「トクちゃん、今何してんの?全然連絡くれないんだもん。サキ、もうお店変わっちゃったよ」
 トクは男に作らせた名刺を一枚サキに渡す。
 「マジで?今何処にいるの?」
 「ほら、今田さんのとこ。系列だよ、『ドリーム』」
 「今田か…。あいつが店長?」
 「そうだよ、トクちゃん消えて今田さんが幹部になったの。サキあんまり好きじゃないんだけどね」
 「あいつ、あんまり好かれてなかったからな」
 「今もだよ」
 サキと呼ばれた女はかなり整った顔立ちをしているものの、その派手さというのはまるでフィクションのようだった。歳も二十歳そこそこ、恐ろしく短いブラックデニムのスカートを履いて金髪に近い髪の色だった。顔じたいはとても愛らしいのに、化粧だけが枠からはみ出したようだった。
 「サキ的にはオッケーだけどさ、大丈夫?ヤバいことになったら困るよ」
 「任せとけって。じゃぁ、今から一緒に『ドリーム』行こうぜ」
 「なんかひさびさトクちゃんと会って、サキ、ドキドキするんだけど」
 「ちょっとその前に。頼むぜ」
 トクの合図でふたりの会話に入らずにいた男はカメラを携え女の前に立つ。頭と肘で三角形を作りながら構えたカメラでサキに向けフラッシュを焚いた。空いた喫茶店の店内に小気味良いシャッター音がこだまする。椅子に座り大きな格子の網タイツを履いた足を組んだまましなをつくるように首を傾げた彼女は、下からせりあがる感じで視線をファインダーに向け、妖艶に微笑む。男はもう二・三度続けてシャッターを切り、言った。
 「撮られ馴れてるね」
 「そぉお?」

 サキと一緒に『ドリーム』と白昼から煌びやかな電飾のかかる雑居ビルの2階に位置した店に入っていったトクが再び、今度はひとりで、ビルから出てきた。
 電柱にもたれ落ちつかない様子で煙草をくゆらせていた男の下に息せき切って駆け寄って、言う。
 「業界大手系列ファッションヘルス店D店のナンバーワンS嬢と本番行為を敢行の巻、だ」
 「OKでたの?」
 男は驚いて煙草を足元に落とした。
 「店長の今田は前の店のとき、ほとんど俺の言いなりだったんだ。断らせねぇよ」
 「…すげぇな」
 「あ、もちろん本番うんぬんはサキとだけ交わした秘密だぜ。今田の野郎は俺がただ普通に遊んで帰るものと思い込んでるよ。六○分の料金だけで捻じ込んだぜ。その感想を雑誌に書く、なんつってな。うまく騙されてくれた」
 「じゃぁ俺は1時間後に落ち合えばいいのか?」
 「この、店の様子を写真に撮ってからな」
 「さすがに行為中の写真までは撮らせてくれないしな」
 「そんなの、嘘か本当か分からないところが良いんだよ」
 トクはまた元の憮然とした感じの彼に戻り、それはひどく見慣れた愛想のない顔つきだった。

 後日、また初めに待ち合わせたのと同じオープンエアのカフェで、トクは時間を気にしながら待っていた。
 隣りのテーブルでは交際したてのカップルが話し込んでいる。聞き耳をたてていると、どうやら同じ大学に通うどうしらしく共通の友人がいるらしい。まったく、何処をまんべんなく向いても恋人達に視線が当たる。
 「悪い、遅れた」
 男が脇にA4サイズの封筒を持って現れ、トクは待ちわびたとばかりにそれを男から引っ手繰った。封筒を開いて、中の紙を取り出す。
 「いいじゃねぇか、デザイン屋」
 トクは男に作らせていた企画の誌面の構成を見て取り、思わず声を大きくした。
 「どう?」
 男は自信有り気に尋ねる。
 「うんうん。サキも微妙に誰なのか分からない、だが、可愛いことだけは分かる。店も何処の店か分からない、でも実際に在りそうだ。俺の顔も実像をディフォルメして出すことでリアリティが増している、指定通りだ」
 「お褒めに預かりまして」
 興奮して一気に喋るトクに対して男は冷静に返す。
 編集の松尾から聞かされた企画はページの余白をただただ埋めるようなものだった。もちろん、画像を挿し込む予定も指定もない。それをトクは男を使い、立派な企画へと昇華させた。通常ならば取材の許しを乞うことすら不可能なところを以前勤めていた時分にほぼ恋人のように付き合うことで従業員の管理をしていた管理職の特権の名残で、サキのトクに対するかつて愛情の名前で呼ばれた感情のみで写真撮影までを可能にし、取材をとてもぼかした説明で済ますことを同じ時分に売った大量の恩でかつて部下だった店長にも押し通した。全てを秘密裏に。そうして実際に仇で返すことはギリギリのラインでしない。これがトクの企てたことだった。トクという男と付き合う全てだった。
 読む側も想像力をかきたてられるであろうことは必死だった。ただ漠然と「どこどこでカワイイ女の子と許されていない本番行為をしました」だけでは、読み飛ばすだけで意味がない。そこに、「こういった」という容姿のサンプルを置くことで、そしてそれを実際に在籍する女の子をぼんやりと霧をかけた形で提示することで、その記事に強みを持たせた。どういった人間がそれをしたのかも提示して。
 「いまどこらへんだ?もう銀行から逃げるところか?」
 そう男が尋ねる。
 「これで、企画ページまるごと奪いとってやる」
 トクはその誌面のデータの入ったフロッピーディスクを引っ掴むと、にやりと丹精な顔を歪ませた。



 ちょうど三週間が過ぎて、男はトクからかかってきた電話を取った。
 受話器の向こうからいやに覇気のないトクが静かに告げる。
 「スマン、だめだった。申し訳ない」
 男は「どうして?」と理由を問いただすことも出来はしなかった。普段から愚痴をこぼさない男ではあってもトクの話のはしばしから相手方の反応というものは伺い知ることはできる。男は言う。
 「『下らない連中』は下らないことが大好き、もう好きで好きで仕方ないから、だから『下らない連中』って言うんだぜ。『少しまでもまともなもの』を嗜好するのは掟破りなんだ。村を追われる。『下らない個人』じゃ到底生きてゆけやしないだろう?」
 「うまい返し言葉も見つからねぇや」
 トクは男の言葉にそれだけを言い、続けた。
 「取り合えず、コンビニで立ち読みはしないでくれ」
 「わかった」
 男はそれしか言うことができなかった。


 世は相対評価で、それとてその相対を間違いなく誰しもに納得させ得る材料になどは溢れてはいない。相対とはそういった不確かな断定の連続と各個の諦めの連続によって形成され精製される旨い部分、うわずみだった。時として特定のエリアの人間はひどく酔うことが可能だった。美味である。「人の不幸」に次いで。

 トクは自分の署名で掲載された記事を読み、そうしてそれが全国に出回っているのかと思うともうたまらない気持ちだった。はじめ目にしたときには、全国を行脚して回収して回る旅にこの後の一生を捧げてもよいと思う程度にはショックを受け、それ相当の傷を心にこしらえた。だが、雑誌が発売されてもう一週間が経過するとトクは受け入れることが出来た。トクは思い出したのだった。
 そう。

 --はじめから、世の中はこんなもの

 トクのこれは「諦め」とは少し違った。
 正確に言い表すならば、トクが留置場で夜を明かしたときに鉄格子の向こうの暗闇でうごめくものを見据えたときに感じたことと同じことであった。高い位置にごく小さな窓だけがあり、そこから星空なりが見えればまだ救いがあった。だがこの街では星もろくに見えはしない。たとえ星が見えたとしてもその窓から見えたかどうかは分からない。自分は夜が明けてもここから出ることは叶わないだろうし、ややもするとこの夜は明けることがないかもしれない。格子の向こうに目をやると先ほどうごめく何かが見えた位置よりも”そいつ”はこちらに前進してきている。間違いがなく、こちらに。
 トクは深い深い闇と眠りの中に落ちていった。それはまるでマトリョーシカのように、大きな蓋を開けるとそこにはまた同じ形をしたものが限定された形で存在し、更にそれの蓋を開けるとまた同じものが。蓋を開ければ開けるほどに大きさが小さくなるもののその質は濃縮されてゆく。開ければ開けるほどに閉ざされ、解放すればするほど閉塞してゆく。そういった種類の感情だった。

 トクは思う。”そいつ”とももう随分と長い付き合いだ、と。

 気が付けばもう朝だった。いったいどれぐらいの時間部屋のベッドに座したままでいたのだろう。どれぐらいの時間雑誌を開いたままでいたのだろう。光が大きくとった窓から薄く飛び込む部屋の薄い闇の中、いつまでも、この時も世界は動きを止めない。書いた記事も書かない記事も、変わりがなく掲載されてゆく。恐らくそれは彼が忽然と消えたとしても同じことなのだった。つけはなしたテレビから今日も今日の運勢が告げられる。

 おはよう。『今日のトクの運勢は最低、ちょーバッド。救いようもないね。それだって』あたらしい朝がはじまるよ。おはよう。




(つづく)