恋する街 -夜明け前-




岩井市 英知








 意味、なんて考えたところで仕方ない。何はなくともカードの返済日は近づいているし腹が減ったってファストフードなんかもう食えない。そもそもファストフードなんて学生の食うものであって、立派に稼いで立派になった腹の舌は小粋なイタリアンレストランかなんかで飯を食いたがる。ああ、そういやコンビニ弁当だけは別か。にんにくがチリッと利いたパスタかなにかが食いたい。シャツをクリーニングに出すのは相変わらず面倒だし、仮住まいの今の女家主は猫を飼っていることで全てが許されるような具合だし、もしそうでなければとっくに追ん出てるところだ。何しろ一分おきに「ねぇ、愛してる?」だなんて調子だ。はっきりいって肌に触れるのも嫌なのだけど、生理的に我慢ならないことでも我慢できるようになっちまうもので、馴れとはおそろしいものだ。早く済ませたいのはヤマヤマなのだが、あんまり早いとナメられる。上位に鎮座させとけば万事が良好な女というのもいるにはいるが、今の家主、乗増する手合いなのでタチが悪い。文字通り。
 と、いうわけで俺は口直しをする。どうやら性欲だけは人一倍備わっているらしく今さっき済ませたばかりなのに中学生のようなデートが出来やしない。さすがにナンバーワンだ、と言わざるを得ない。ただひとつ気に食わないのはその服装だ。エイティーズのファッションなんてのは俺らの世代にしたらあんまり良いものじゃないんだな。その栄華も知る代わりにその滑稽さもたっぷり知っちまっているのだから。このなかなか事に至らせないじらしのテクニックというのにも舌を巻く。最近俺はおかしい。こんな顔が好みだったかなぁ。よく分からねぇや。洗濯板のような体が童貞のときには好きで好きで仕方なかったのだが、客足のいいのはやっぱり豊満な体だ。昔はただのデブにしか見えなかったその体も、客足の良いせいか俺もご執心、夢中という体たらくだった。思うに、征服感が違う。思いきり乱暴に扱ったときの、その目がたまらないのだろうか。到達した感じがする。
 セックスは射精で完了するとは思わない。俺は別に出さなくたっていい。俺の友達には選り好みが顕著に顕れちまう奴がいるが、そんなことはないな。奴は肉を愛せずいるのだ。女なんて全部”いれもん”だ。そういった愛し方もある。ロイヤルコペンハーゲンの器に新聞紙の煮汁、そんなもの「それでいい」としか言い回しがあるまい。
 人に愛されようだなどと思うな、無抵抗主義者は死して理解される。それはその主義に感銘を受けるのではなく、その死に様に感銘を受けるのだ。だから俺のフラれっぷりは最高にカッコイイ。
 じゃぁな、グッバイ。もう会うこともないだろう。客という体裁を取れば売上にも貢献だし、この切なさはエズラの肴にしてショッバーで。フィッシュアンドチップス、どっちが酒がすすむ?君とは体だったら何遍だって交われるけど。ポールスミスのスーツがイカしてるねぇ、タイはピンクで、ねぇ。素足にヘビ柄のスリップオン、耳には三連のピアス、トルコ石の指輪、クロムハーツ。赤い髪、赤い顎髭、最高にキてんだろ?

 ニセもんの俺の死に様はきっと最高にイカしてると思うぜ。多くの感銘を残して本物になるよ。マジだ。





 トクはショックの後まどろんでいた。間の悪い男は電話をかけるタイミングも間違っている。センスの悪い奴はもう何もするな、とトクはひとり怒声を張った。ペットボトル中の水をがぶがぶ飲み干して、それからゆっくりと呼吸を整えた。それでもまったくというほど怒りの火種のようなものは消えないでいた。ぶすぶすと目視されないところでくすぶり続けるそれのようにトクを昂ぶらせていた。必死で温厚な人間になろうとしてきたが、いざ怒りに直面すると冷静沈着の仮面はいとも簡単にはがれ落ちた。
 いつもの大きな鞄から手帳を取り出し、昔馴染みの女の知り合いの中で暇がありそうな人間を片っ端からピックアップした。ただ、もう、簡単にセックスがしたかったのだ。昔馴染みの知り合いならば、しばらくはそこそこにいい加減な関係が続いていたので難しくはないだろう。面倒があるなら客の振りをして済ませてしまえばいい。そのぐらいには物分りが良いはずだった。ただトク自身はそれを意図して避けてきた面もある。何もかもが元に戻る。全てが元に戻る。あの底抜けに陽気な闇のような場所で、事の重大さを認識する感覚を鈍くし、全てに無感動になり、楽しいことも嬉しいことも悲しいことも分からなくなることを怖れていたのだ。今よりもうんと金を稼いでいた、だが十万円持った直後に全部使ってしまっても何も考えないでいた。未来のことなど考えなかったし、その閉塞感を投げやりに楽しんでさえ、競ってさえいた。--誰が一番終わってるか?--スリルを楽しんでいるのに近かったかもしれない。ただ毎日寝る時間がほとんどなくて休む暇もなくて、客が撒き散らす欲望のりん粉を吸って女たちの撒き散らす欲望のりん粉を吸っていた。その光景を受け入れていた。積極的に加担していた。下らないことがすごく可笑しくて、そしてそれでいいと思っていた。だからトクはそれでいいと思えなかった。
 少し迷ってから何件か電話をかけて、それが全て空振りに終わると仕方なくジャケットを羽織って靴を履き外に出た。引っ掴んできた小さな鞄を肩に掛け、咥え煙草で街の中心部を目指しそこに吸い込まれていった。

 手近な雰囲気の良いショットバーで酒を飲んでいる。この街だと一番ここが何かと便利が良い。トクは客層も店の雰囲気と捉えるタイプだったので学生の多い店も嫌いだったし、若い女が多い店も嫌いだった。ウイスキーには造詣が深くないのだが、いつか行った会員制のバーでマスターに教えてもらった銘柄は好んで飲んだ。トクは酒に強くはなかったが、その味やアルコール度数よりも絵になる雰囲気を好んでしばしば酒を飲んだ。そういったわけでひどくウイスキーを飲みたい気分だったのだ。決まりきってグラスの中の丸く大きな氷を転がし鳴らす。
 友人を誘って一緒に飲むことも多かったが、大概はひとりだった。店の中はまだ早い時間だったのでガラガラだった。

 数時間そこで飲んでそれから店を出てあてもなくブラブラと歩いていた。見上げるとネオンが眩しい。人通りのある通りを横道一本脇に逸れてみると飲食店の裏手に出るようでそこには大きなポリエチレンの袋や雨ざらしの段ボールやビールケースの姿があった。そこを進む。表通りよりも一際こじんまりと、だが、おおげさにきらびやかなネオンが目に入る。黒服の客引きの姿が見えた。トクが昔働いていた店なんかに比べると随分と小さい。客引きも熱心ではない。トクが受けた指導要項では、もっと猛烈に歩く足を止める努力を強いたものだったが。妙な感慨に耽っていた。
 「どうスか?写真だけでも?」
 ひとりの男が近づいてきた。風体はコンビニエンスストアの深夜に仏頂面でバイトをしているような強面の男だった。茶色い髪をして、不自然に日焼けをして。それがいやに自然な笑顔で寄ってきた。
 「写見(しゃけん)していい?」
 トクは試しに尋ねた。特別興味をそそられたわけではない。ただ試しにだ。
 「おっ。どうぞどうぞ。今の時間ラッキーすよ。女の子揃ってますよ」
 男の「おっ」が何に感嘆したのかおおよそ見当が付くがトクはつれなさそうに「そう?」とだけ言って男の後ろについて地下へと降りる階段を進んだ。
 短い階段を降りきったところの壁一面に張られたポラロイド写真を見る。その脇のカウンターでは頬杖のような恰好をしたまた別の茶色い髪不自然に黒い肌の男が店内のスピーカーから流れる音楽に体を揺すらせていた。そしてぼんやりと「どうぞー」と言った。ポラロイド写真の中の子は大概はみな顎を引いて上目遣いでこちらに微笑んでいる。トクが昔いた店でも大概はそうだった。歯を見せない程度に。インスタント写真はストロボが強く焚かれたような調子に仕上がる。それが具合が良い。鼻筋が消せて、頬骨のラインもぼやかすことができる。個々の笑顔の仕上がりは様々だが、それぞれにキャラクターの研究が成されていて面白い。こういった場合、猫の目のようなアイラインを強調した子には要注意だ。まったくの別人が現れるからだ。誰かしらの芸能人なんかをフラッシュバックさせて錯覚を起こさせる企みなのだろう。そんな場合カテゴライズが良くない。「こういった感じの子は○○のような感じのはずだ」と暗に思わせてしまう。期待感が良くない。瞼の裏にかすかに写る『君』には気をつけるべきだ。
 写真だけを見学したらすぐに出てゆくつもりだったが、ものは試しとトクはひとりの子を選んでみた。幸い出勤の印が付いている。
 「『ソーニャ』ちゃんですと、お時間十五分ほどお待ち頂きますが?」
 「いいっスよ」
 トクは七千円を男に払い、待合室のような場所のソファに腰掛けた。大画面のテレビでは連続ドラマが流れていた。第四回。

 ソファへ通され、そこにまた腰掛ける。新幹線のように並ぶソファの間を縫うように歩く間、別のソファで中年の股間に向かい合わせに跨るように座した女と目が合った。キスの最中の彼女はセーラー服を乱したまま金髪の髪を鬱陶しそうにしていて、目が合った途端両目を閉じた中年を尻目にこちらにウインクをする。トクは「フフ」と声に出さず笑った。
 少しの間、トクは股間の位置を直しながら待った。
 急に可笑しみがこみあげてくる。トクは思う。
 (なんか実は緊張してんなぁ。知らねぇところ来るの久しぶりだもんな。なにか無防備な感じがするよ)
 そういったことが頭を巡っていた。
 不意に考え事を中断される。
 「こんにちは」
 高く、可愛らしい声。愛想が良過ぎなくて、あまり気乗りしないでもない。言うなれば、花屋の店員のような声。
 「外寒い?」
 その質問にトクは思わず「は?」と返した。それから。
 「いや、別に寒くはないよ。一応ジャケットは羽織っちゃいるけども」
 「ふーん。今日昼間来るときちょっと寒かったから」
 「あ、いや。知らないんだよね。昼間のことは」
 「ああ、寝てたの?」
 「何で?普通の人は働いてるでしょう?しかも『今日はお休みですか?』って訊くんじゃないの?」
 「だって髪赤いもん。サラリーマンはないでしょ」
 「まぁ、ね」
 彼女の髪は黒が少し煤けたような色をしていて、目が大きく、何か意思を宿した力強さのような感じと何も考えていない緩慢とした感じの両方の印象を受けた。そして経験から言うとタイプ的にもこういう場所に似つかわしいと言いにくい。様々なタイプの子がこの職業に就く現実を知ったうえでも。おとなしそうで、あまり人気があるとも思えない。若い子は活発を装う。
 唇は厚く、乾いていた。くちづけた瞬間ひやりとして心地が良かった。昔、子供の頃。暑い日に水道から流れ出た水にずっと手をかざしていた。それが心地良くて心地良くて、ずっとそうしていた。目を閉じて。蝉の声を聞いて。手が水の甘さを次第に感じ始めるようなそんな水の冷たさに似たくちづけだった。
 トクとソファに並んだ恰好で座り、引き寄せられるまではもたれかかることをしない。抱き寄せると寒い国の匂いがした。紺色のプリーツスカートから伸びた白い足を手で摩り「すべすべだね」と言うと彼女は「嘘ばっかし」と言った。
 セーラー服の上から胸の膨らみに触れる。四肢の量感に対してそれは不釣合いだった。おそらく知らず知らず洗脳されているのだろう。不釣合いな方を均整が取れていると感じるほどに、メディアやこの世界に。彼女の体は均整が取れていたのだと思う。トクは服の裾を捲くり、直に彼女の胸に触れた。そして馴れた調子で乳首にも触れた。彼女はトクの股間にズボンの上から触れ、とうに勃起していたそれをやぶからに掴みゆっくりと摩った。
 「何してる人?」
 彼女は突然そう尋ねた。
 「君は何するの、将来?」
 トクはそう返した。彼女が大学生や何かであることが分かっていたのだ。
 「金融関係狙ってんの」
 「随分堅いんだね、また」
 「そうよ」
 トクは彼女のプリーツスカートの中に手を入れ、下着の上から性器を摩った。
 「今は難しいんじゃないの、そこらへんは」
 「そういうことはあんまり重要じゃないのよね、あたしの場合」
 「へぇ。単位やなんかはもう足りてんの?」
 「それは平気。結構成績だっていいのよ。英語が出来たらいいんだけど」
 彼女はトクのベルトを外し、ズボンのジッパーを下げて下着の上から先ほどと同じように摩る。
 「教授やなんかにも気に入られてんじゃないの?」
 「さぁ?あたしあんまり愛想良くないしね」
 「確かに。で?」
 「『で?』」
 彼女は突然トクに抱きつくような恰好になり、キスをしてきた。一度離れてはまたくちづけ、その度に舌を口腔で暴れさせ、その度に溜息のような湿度の高い息を吐いた。穏やかな外見と裏腹に情熱的のようにも感じた。
 「物を書いてんだ」
 トクは言った。
 「『罪と罰』、読んだ?」
 彼女は言った。
 「大昔、学生の頃にね」
 トクは言った。

 彼女は夏服のセーラー服の上を脱ぎ、トクのズボンと下着を捲くり下ろさせた後おしぼりで彼の性器を拭いてゆっくりと先端に舌を這わせた。三本の指で先端をつまむようにして舌で根元まで舐め下ろすとそれから五本の指で握る。ずっと、トクは彼女の胸に手を当てていた。
 おもむろに唇を先端に当てた。すると、例の「ひや」とした感触がまたトクを懐かしい気持ちにさせる。唾液が絡み、吸い込むと音を立てる。彼女はトクの股間に伏せたような恰好のまま咥え続けていた。
 トクは目を閉じた。顎を上げ、腹筋に力を込め。彼女がいざ射精に導こうとするところでアナウンスが小さく聞こえた。彼女を呼ぶ声。もう時間の残されていないという事実。
 彼女の動きが再開する刹那、トクは言った。
 「俺は罪を犯してんだ」
 一瞬間を置いて、性器から唇を離す。その唇が言葉を形作った。
 「大丈夫よ」

   トクは射精した後、放心しながら口の中にため込んだ精液をおしぼりの中に出して包む彼女を見ながら、先ほど彼女の唇が形作った言葉を思い返していた。




(つづく)