恋する街 -夜明け前-




岩井市 英知








 不思議な体験だと感じた。
 まったく違ったものを体験したのだ。例えるなら、初めての性交の予感、だろうか。それとも少し違う。馴れのように安堵し、初の試みのように高鳴る。日溜りのように弛緩し、暗闇のように緊張する。欲情していることを忘れるようでありながら、ひどい疼きを意識しないではいられない。射精したいと強く思いながらいつまでも射精しないでいたい。癒されるような、咎められるような。そんな、感触。
 トクは思う。もう、端的にものを考える。思うままよりは整理して考えるほうだった。割と現実的な人間だった。そしてどこかロマンチストだった。思いついたのは彼女と交際することだった。その線に行き当たれば話は簡単だった、何故なら店に所属する女の子をプライベートな交際にまで取りつけたのは一度や二度ではなかったし、そういった手腕に長け、まず始めに何をしたら良いかも分かる。トクはもう随分と久しぶりにマスターベーションをした。それは新鮮味さえあった。

 前回訪れたときには呼び込みの男の後について店の中まで入ったので、店の名前さえ知らなかった。地下へと続く階段が大きな生物が口を開けて待っているようで、何でもない階段なのだけれど、その入り口をじっと見つめることが出来なかった。トクは代わりに上を見上げる。呼び込みの男は今日は居ない。店員の数も少なかったので、こういう時間が存在するのだろう。灯らないネオンの電飾看板の文字を読む。
 エ…コー…ル

   (学派?)
 トクは内心その店の名前を訳すと同時に訝しみながら、意を決して階段を降り始める。何もこんなことで躊躇することもないのだ。まだ店の名前のことを考えていた。他の女の子の源氏名をまるで見なかったので今いちコンセプトを確実には掴みかねるが、おおかた間違いはあるまい。そんなところだろう。
 (なんだ、そんなことか。少し興ざめだな)
 トクはかつて幹部にまで就いていたので、そういったわざとらしい企画には辟易するところがあったのだ。風俗は風俗だ。いくら何をどうしてもそれは変わらない。また現実的な経営を考えても在籍する女の子ひとりひとりにまで特殊な設定を徹底させることは難しいし、その綻びが露呈したときの滑稽さというものは決定的すぎた。そしてそれで興ざめする男がいる。トクは頭が冷ややかになってゆくのを感じた。
 男が出迎える。
 「いらっしゃいませご指名ご予約ございますか」
 なんだか語呂が面白い。また余分なくらい覇気があって、拍車をかけている。トクは壁のポラロイド写真を右上の端から順繰りに眺める。
 (ふぅ、げんなりだ。『舞姫』とか、『踊り子』とか。それは違くはないか。もし俺の部下だったらそんな企画は切って捨てるよ)
 おおよそ本を読みそうにない笑顔の店員に尋ねる。
 「ソーニャちゃん、っていないの?」
 「ソーニャちゃんですか今日はちょっ…と出勤していないんですが申し訳ありませんがソーニャちゃんは電話で問い合わせいただかないと確実じゃないんですが」
 「あ、そうなんだ」
 トクは内心で続ける。
 (何で句読点打たないの?)
 なおも壁の写真を眺め続けた。それなりに可愛らしい子が揃ってはいる。他の上位の人気店と比べてもそうは一見して見劣りするラインナップではない。人数は少ないが幅もそこそこ広い。ひとりの女の子に目が止まった。
 「あ、この子いい。『サリー』。待つかな?」
 「『サリー』ちゃんですと…お時間十五分ほどお待ちいただきますが」
 また心の中で(いつも十五分だな)と呟きながら快諾し、ソファへと腰掛けた。

 「すばらしいわ!あなたに会うなんて!」
 彼女は開口一番そう叫んだ。普通はここでいきなり隣りに座ったりせずにしおらしく許されるのを待ったりするのだが、彼女ときたらまったくこうなんだものな。(と、いきなり『ライ麦畑でつかまえて』のようになってみる)トクは面食らう。
 「僕こそとても嬉しいよ」
 トクもそう答えた。するとサリーはくすくすと笑った。トクとしてはこれもまた本心からそのつもりであった。何しろこんなブッ飛んだ子がいるとは思いはしなかったから。隣りに座った彼女は言う。
 「あなた、ホールデン?」
 「君がサリーなんだから、そうなんだろう」
 トクもくすくすと笑いながら答えた。
 彼女は遣り取りに負けず劣らずやはりとても変わった子だった。ものすごい美人にも関わらず、そうは見えない髪型をしていたし、メイクも何処か的を外したようなものだった。何色とも言い難い、あえて言うなら「古い金」としか言いようのない髪の色で、変な短いおさげを両端にぶら提げて。それでもそれが彼女の地だとは思えなくて、聡明そうな瞳の色をしていた。
 トクは試しに「愛してる」と言ってみた。すると彼女はこう言った。
 「まぁ、ホールデン。あたしもあなたを愛してるわ。本当はクルーカットをやめて欲しいんだけど、今時クルーカットな人なんていないし、そもそもあたしこの頭好きよ。短くて赤いの、似合ってる」
 サリーはトクの髪を梳るようにして、抱きついた。そうして、長く、でも、気色悪くはない、キスをした。他の女の子みたいにがむしゃらにキスをしない、そんなくちづけだった。
 彼女は作られた印象と落差のあるとても成熟した体付きをしていて、その胸などは健康的に形良く張りだし薄っぺらいセーラー服を先端の突起で支えるようにして肌から浮かせていた。腰はなだらかにくびれ、足はすらとスカートの中から伸びている。身に付けた下着がいやに地味でそれがひどく淫靡だった。まだふたりは時折くすくすと笑っていた。もう随分付き合いのある気心の知れたふたりのように。そこに出会いはひとつもなかった。
 トクはこの彼女をとても気に入り、「面白い子だな」と感じた。出来ればずっとこのままこういう調子で話をし続けていても良かった。だがサリーは時間配分を気にしたのかトクの股間をズボンの上から弄り、音を鳴らせてベルトを外しにかかる。まだトクは少しも勃起していなかったし、そしていつまでじっと見つめていてもそのうち勃起しそうだという気配は起こりそうになかった。トクはサリーに対して例えば「学校には行っているのか」とか「どんなところに住んでいるのか」だとか、詮索する気はなかった。ありありと彼女の雰囲気から住まいが見えてきたし、それが割と古いアパートで高校を出てからフリーターとしてきたことも分かったし部屋の土壁には映画のポストカードや古着屋で買ったオーバーという風情の上着が掛かっていることや、古着屋と庇を並べた雑貨屋で手に入るこまごまとした使い道のない雑貨がこれまた古いチェストの上にところ狭しと並ぶ様が見えた。そして玄関脇の台所から部屋へと入るところにはもとはガラスの障子戸があったのだがそれはまるきり外されていてそこには色とりどりのカラフルなプラスチックの玉が暖簾状になって振れると音を鳴らす邪魔くさい名称のない代物が暖簾の代わりに下がることも知っていた。土壁は隠されるようにしぼり染めの象柄の大きな布で覆われていた。しばらくフリーターを続けた後、ここで働き出した。だからトクは悲しかった。
 彼女がしばらく弄ぶと、成果を示すように勃起していた。そうは見えなかったが、必死だったのかもしれない。だがそれを看破することも何故か気の毒に思えた。サリーは自ら服の裾を捲くり、立派な胸を露出させた。トクの手を引き、触れさせる。彼女は熱い溜息を吐いた。彼女はその聡明なだけで十分に素敵だったのだけれど、それだけでは幸せにはなれなかったのだと思った。そしておそらく、彼女の体が彼女と比べて淫靡すぎたせいだと。
 サリーはようやく柔らかく勃起した性器を飲み込むように口腔に収め、ひどくスローモーに上下移動させた。そして根元を掴み細く長い指で素早く動かす。口で咥えたままそこを中心軸として三十度づつ左右に捻りながら更に上下を続ける。舌の動きが止まると今度は強く吸引し始める。それが止むと更に深く喉の奥まで飲み込み始めた。唾液が、じゅぽじゅぽじゅぽじゅぽ、鳴っていた。
 彼女は「イク?」と尋ねたのだと思った。そう思った瞬間にはもう射精していた。トクはそう尋ねられたのだと思ったが、その瞬間があまりにおとぎ話からは掛け離れた、例えば大分長く付き合った恋人の尋ねる言葉のようで、居心地が悪かった。彼女はとても素敵であるのに。台所でする性交のようだった。
 衣服を正しながらいる彼女に言った。
 「ねぇ、きみ、どう、こんなところから飛び出したくはないかい?」
 サリーは「ふっ」と優しく微笑みながら、何も答えなかった。それは少々意外だった。
 「本気でさ。リアルな話、金はあるんだ」
 「本気…ねぇ」
 「別に何を下敷きになぞって会話を進めようとしてるんじゃないんだよ」
 まだ彼女は微笑んだ顔のままだった。
 「じゃぁ。わたしたちはもう子供みたいなものじゃないけど、きっとどこにも行けやしないわ」
 「何も、すばらしいところじゃなくたっていいんだ。もう少し、もう少しマシなところへ」
 気が付けばトクは滑稽なくらい必死に説いていた。
 「俺にはできない?」
 それには彼女は何も答えなかった。
 「きっといつまでもこのようすは変わりはしないだろうけれど」
 「そうか。仕方ないな。酒ぐらい飲めると良かったんだけどな」
 「ふふふ。きっとウェイターはスコッチ・アンド・ソーダを出してくれないわよ。それであなたは腹をたてるの」
 「かもしれないな」
 「きっとそうよ」
 ふたりはまたくすくすと笑い合った。
 「ねぇ、きみはどうもどこへ行っても誰かを知っているようだから尋ねるけど。ソーニャを知っているかい?」
 サリーは「なぁんだ」と言って、それから続けた。
 「ソーニャはここにいるけど、きっとあなたが思うようには赦してはくれないわ、ホールデン」
 「まぁ、俺はどうかしちゃってるんだろうからな」
 「きっとわたしもここであなたのこれをこうして咥えて結局は射精させる以外にはどうしようもなかった」
 「それでも君のフェラチオは気持ち良かったぜ。ありがとう」
 「無理したくせに。ごめんね、フィービーじゃなくて」
 「何言ってんだ、…畜生…うまく言えねぇな」
 「いいよ」
 トクとサリーはソファから立ちあがる。
 「じゃぁね、また」
 「うん。また」
 ソファの間の通路を縫うようにして歩き、去り際、彼女は言った。
 「あ。ソーニャは月・水・木の午後三時から七時までよ。今のところ」
 「サンキュー」


 それからというもの、トクはソーニャが出勤する全ての時間帯に『エコール』へ行った。それは当初の目的のように交際を申し込むというような意味が不透明なものではなく、ただ、彼女に会いに出向いた。そうしないわけにはいかなかったのだ。
 ソーニャにしてもらうフェラチオの最中にサリーが彼女を指名した男のソファへと通路を歩いていく様子が時折見えたりもした。トクは必ずといっていいほどソーニャを指名することが出来た。出勤日が少ないとはいえ、それほど人気があるわけではなかったから。反対にサリーはまずすごい美人であったし多くの男の欲望を掻き立てそれに見事に応える体を持ち合わせていたから、ひっきりなしに指名があった。たいがいひどくいやらしい顔つきをした見るに耐えないみすぼらしい男達は待合室のソファで貧乏揺すりを絶え間無くした。トクはそれが否応なく目に入ったが、それでも悲しく思うことを自制しないわけにはいかなかったのだ。

 短い舌が先端を機械的に舐め、トクは身震いをする。射精して店を出ても再度訪れて舐められたときにはまた身震いした。それが不思議だった。何か淫猥なイメージを想像するでもなしに、特別淫らに振舞うでもなしに、全ての事は流れてゆく。そしてふと気を抜けば一度涙を零してしまいそうだった。ただ身を任せるだけではなかなか射精しないものだ。もしかしたら女性、いや男性でもかなりの者が理解は出来ないのかもしれないが、実際、皮膚の刺激だけでは射精はしない。絶対に、しない。それでも二時間も三時間も舐め続けていればあるいは不意に射精するのかもしれないが、それは試したことがない。そういうわけで時間に区切りでもあればやはりそこは努めて射精するほかはない。だが、何も無理にというのではない。助長する、というのか。そう仕向けるのだ。
 ここへ通う間、トクはその手の努力を初めは無意識にしていた。しかし、気が付いた。自分が何もそういった努力、場合によってそれは妄想に類するものなのだが、今まさに、ソーニャは股間に顔を埋め、彼の外性器を舌で愛撫している最中であるが、していない。ここには、口唇性愛の原初の形があった。

 (「うわ、マジで気持ちいいよ…」。それだけでもう俺は射精への階段を駆け登るようだ)
 パソコンのキーボードでかたかたとそれだけを打つと、デリートキーを連打し全ての文字を消去した。そして呟く。
 「違うな、そうじゃねぇ。これじゃ、三文エロ小説だ」
 怒りを顕にトクは咥え煙草のままくぐもった声でひとりごとを言った。パソコンデスクに向かい、回転椅子にあぐらを掻いたまま、くると回る。それから吸いかけの煙草を吸殻が山のようになった灰皿に強引に突っ込み、グシャグシャと揺すった。煙はくすぶったまま。外出するときとはうってかわって、黒色のゆったりとしたジャージ。上にはよれたTシャツの上にまた黒いジップアップパーカを着ている。髭も伸び過ぎて、ファッションというよりだらしがない。ひどくイライラして、髪をくしゃくしゃと指で梳り、ステロタイプに頭皮を掻き毟った。
 思い出せない−呟く。あれほど受けたフェラチオの正確な描写が出来ない。いや、「何をどうした」と順番と動きは追えるものの、直感的な、いわゆるコアのようなもの、それがすっぽり抜けてしまっているのだ。
 トクは自問した。−欲情していないからか?−と。しかし、ソーニャに感じるのは、それとは違うもののような気がするのだ。勿論、勃起はする。そしてその行為を受けたいとは思う。独占してもいい。いや、独占したいのだろうか?トクは最後に「俺は」と付け加えた。
 いつのまにか、また、文字を綴っていた。


 パソコンの電源を落とし、脱衣所で衣服を脱いでシャワーを浴びた。剃刀で丁寧に髭の形を整える。それから洗濯が済んだ服を着る。財布をポケットに突っ込み、部屋を出る。歩く。裏路地へと入る。階段を下り、指名をし、少しばかり待つ。ソファに座りソーニャが登場すると、昨日と同じ顔が昨日とたいして変わらない挨拶のような言葉を交わし、ベルトを外し、キスをし、セーラー服をたくし上げ、昨日と同じ感慨のまま腫れぼったい唇が開き先端を飲み込んでゆく。それも昨日と変わらない。しかしそれはトレースをするように微妙に下絵とはずれて上絵は線を引く者の絵心によってゆがめられてゆくのだ。何もここが特別ではない。特殊な訓練を施したわけでもないし、結局は個人の自我に左右されてその都度受け手の感慨もまた左右されていった。機械のように正確な快感もないし、山の天気のように気紛れな快感もない。また、この手の行為には必ずあるひとつのベクトルが存在しそれほどに気ままな気の飛散も有り得ず、収束する方向でシャットアウトするほうがよっぽど楽だしこの場には適していた。だから端的に言って我々は外性器を舐め合ったり内性器に指を突っ込んだりしている。
 瞳の奥を覗き込めば、茶色い、いや、灰色い?それか曇天の青い空のような不思議な風合いをかもしだした彼女は時折眼球だけを上方に向けトクを見た。その表情は扇情を目的としたというよりも憐れみに満ちて、例えて言うのならまったく好きでも飼う気も起きないし慈しむ気持ちもない子犬の惨たらしい死に対面したときのようなものであった。ただ平素であるのに、何故か風は冷たく鳥肌が立ち木葉の鳴る音が胸をざわざわさせた。無情感とも違った。
 そしてトクはぶるると身を振るい、射精した。
 彼女が精液をおしぼりの布巾に包む様はまるでグレープフルーツを食べているようだった。種や薄皮が口の中に残り、それを取り出す。そしてティシューに包む。横目でちらとこちらを見、今にも「食べる?」と尋ねそうだった。
 トクは帰り道、いったい彼女はどんな下着を身につけているのであろうか普段、と思った。それから色々と想像を膨らませ、意外にも自分が女性の下着の種類もデザインもたいしてバリエーションを知らないことに気が付いた。それはきっと何人の女性と交わっても、その時に目にしても、分からないことのような気がした。とても意外だった。

 とある通信販売のカタログを取寄せ、女性下着のページを繰っていた。どうもこれらが実際に履かれているとは想像が付き難かったのだ。だいいち、見たことがない。いや、そうは言っても、ではどれならば見たことがあるのか、と問われてもあてずっぽうで指を指すぐらいしか出来はしないが。それから実際にスーパーマーケットに行って肌着売り場を歩いた。大きなデパートやなんかだと少々気恥ずかしい。その専門店が持つ特有の網にかかっては、敵の侵入を知らせるのと同義な気がした。そこでトクは納得した。これらは多少見たことがあるような気がする。学生時代に交際していた女の子がこういうやつを履いていたと思った。
 まったく可笑しなものだ。

 文をつらつらと書くことと、ソーニャと会う(といっていいかどうか悩むところだが、一応)ことを繰り返して、その合間には昔大学生の頃に読んだり積んだりしていた古ぼけたハードカバーを読み出した。ちっぽけなプライドで捨てずに持っていたりわざわざ買いなおしたり、そうこうするうちにまったく書棚から取り出すこともなくなったものたち。第一今の仕事には必要がなく、参考になるはずもないものたち。ジャージの裾を膝まで捲くり、フローリングのひやとした感触を味わいながら、仰向けになって読むうちに夜になり朝になった。
 朝になればコンビニエンスストアに朝食を買いに出てついでに煙草も買い、昼になればコーヒーを飲みながらパソコンに向かう。夕になってもしも空虚な気持ちになれば窓の外の斜陽とビルが影になっていく様子を眺めて、人ひとりを勝手気ままに解き明かそうとする。それから夜も更けて腹が減り、弁当屋に行く。ビールを飲みながら下着のカタログを眺め、飽きれば本を飽きるまで読む。外の喧騒が途絶えれば、パソコンに向かい文章を書いた。
 ソーニャに会う度に遠くに感じ、離れれば近く感じた。そういった生活をしばらく続けた。



 ある日、『桃源郷ウォーカー』編集部の松尾から電話がありトクの新しいコラムの連載が始まることになった。
 「トクさぁん、決まったよ。トクさんの書くものは裏人気があるからなぁ、だからオレ言ったじゃん」
 「書きたいものでいいですかね?」
 トクは尋ねた。
 「いいよいいよ。問題ナイよ。ま、様子見はあるけど。どんなの?」
 「ひとりの風俗嬢にのめり込むようなアレなんですけど」
 「いいね、トクさんいいよ。さすが、終わってるね!」
 「そうですか?大丈夫ですかね?」
 「その廃人感覚が大事よ。それが現代ニッポン終わってていいジャン。ギリギリ変質者、アウト。いいな〜」
 「そんじゃ、ま。いつものように」
 「だね、だね。タイトルとか決まってんの?」
 「まぁ、一応」
 「どんなの?」

 「『恋する街』」


 それは、それでも十五回まで掲載された。それでも赦してくれるだろうか。僕を。


 松尾は言った。
 「トクさん、すまないんだけどアレ終わりになったよ。やっぱさぁ、ウチはエンタメじゃん?ちょっとねぇ」
 それから編集の遠峯も言った。
 「純文学きどられてもさ、読者もヒいちゃうでしょう。つうか、わけわかんないっしょ、コレ。やっぱり下半身的命題というか、ペーソス?」
 松尾は言った。
 「そうそう、トクさんの代わりにこの子、つぶらタン。いいっしょ?やっぱり今は女の子の視点からの風俗だよ。エロスを追うというエロスに熱くなるエロス。深いなぁ、深いよ。取りあえず萌えるよ」
 つぶらタンは言った。
 「よろしくぅ、”春先つぶら”でつ」
 松尾と遠峯は言った。
 「はい、よろしくねー。いやぁ、つぶらタンエロ可愛いねぇ」
 つぶらタンは言った。
 「そんなことないですよぉ。でも、もう彼飼ってるからダメですよぅぅだ」
 遠峯は言った。
 「ま、そんなわけで。トクさんはかなりマニアックな人気があるんで、すぐまた出番来ますんで。今回はこんな感じで」
 トクは言わなかった。
 「もうこんなもん書くのは終わりにする」
 トクは言った。
 「そうですか、まいったなぁ。次お願いしますよ」
 編集部にて。



 いやにすっきりとした、そして靄がかかったような、そんな気分だった。いつも『エコール』に行くために入る裏路地への入り口を素通りする。大きな黒い鞄を提げ、ポケットから煙草を取り出す。もう随分遠くまで歩いた。ここらで歩みを止めてみるのも良いかもしれない。かといって恒久的な措置ではない。いずれにせよ歩きはじめることにはなるだろう。だが、その前にコーヒーを飲むぐらいの時間、そのぐらいの時間ならば色々と考えを止めることも出来るはずだ。我々には、いや、その中の例外的なひとりにだって。
 煤けた感じの、おそらく学生時代からそのまままっとうに歩んだ自分ならば入ったであろう喫茶店を見つけ、扉を押した。木製のカウンターに肘を付いて、コーヒーを注文した。携帯電話の電源を切った。

その頃、トクの部屋では留守番電話のスイッチが音を立てて入り出した。ガチャと何かが、あるいはレールが、切り替わるような音だった。
 「徳村誠一さんのお宅でしょうか?わたくし…」

 喫茶店を出て、またしばらくあてもなく歩く。どこまで行っても行き当たることはなく、また、何処にも壁はないように思える。地図を見ればあからさまに存在を誇示する区切りもトクの歩く道にはそれらしきものはなく、何処かと何処かを繋ぐものも侵入を遮るものもない。ある存在の概念は、如何様にも形を変えそれこそ変幻自在に、小さいとか寂れたなどとだけの修飾の言葉の枠からも飛び出し、今まさに、奇跡のような凡庸さで姿を現す。心持ちが晴れやかになったり、逆に萎れてしまっていたりするだけで。
 すると、この道の突き当たらない程度の一番遠くからこちらを呼びかける人影が見える。それはこう呼んだ。
 「ホールデン」
 トクは驚いたが、その驚きはそれまでの全ての驚きと比べて比率的に大きいものの、驚きが少ない。
 「君か、サリー」
 近くまで駆け寄り息を切らす彼女は暗い店で一度会ったときよりも随分自然な印象で、そしてこの方が似合うと思う。サリーにはあの馬鹿馬鹿しいセーラー服は似合わない。きっと、この方が合っているのだ。色の組み合わせのひどい服。上と下の色が合わないだけでなく、色数も豊富で、スカートの丈も妙だ。だけれど。

 留守番電話に吹き込まれる声は言う。
 「あなたの『恋する街』を…」

 斜め掛けにした小さな皮製の鞄を揺らして膝小僧を桜色に染めながら、彼女は照れ臭そうに尋ねた。
 「ねぇホールデン、あれから素晴らしいところになんて行けたかしら?」
 トクはふっと笑いながら返した。
 「いいやサリー、まだ行けるよ。これから行くところだよ。幸いどこかの野郎に預けておいた魂も返金されてきたところだし、嘘じゃなくて、これからどこかに行って何かをするぐらいわけない」
 すると彼女は殊更に笑う、それは嬉しそうに。
 「やぁね、ホールデン。わたしの名前はサリーじゃないのよ。わたしの名前は…」
 彼女は言った。




(おわり)