「すごくいやなはなし」





神田良輔






 その場所に彼が来るということを聞いて、僕は矢も盾もなく行きたくなった。
 彼のことは噂で聞いていた。あまり耳ざとい僕ではなかったので、前から得た情報は少なかった。彼の名前も知らないし、今なにをしているのかも知らない。こうして――彼、と呼ぶのに抵抗を感じるほど、僕は彼について知らない。
 でもそのほとんど唯一と言っていい、彼の噂を聞いた僕は、どうしても彼に会わなければならないと思った。僕は彼に会ってなにかの影響を受けることも出来るだろうと思ったし、なにか教えられることも多いだろうと思った。救いをもとめていたとも言えるし、体の悪い同性愛的願望を感じたとも言えるし、野次馬根性の好奇心が刺激されただけとも言えるだろう。とにかく、僕は引きつけられるように彼に会うことを求めた。



 実際の彼はインパクトのあるタイプではなかった。やはり、と僕は思った。
 服装は地味だった。シャツかセーターかなにかの地味なもの、それに地味なコートかジャンバーを着ていたように思う。実際、忘れてしまった。表情を思い出そうとしても、あまり思い出せない。断片的に、眼鏡をかけていたこと、頬が痩けているように見えたこと等を思い出す。考えてみれば、そういうのは当たり前すぎたことだった。

 彼は僕らの多くと初対面だったので、いろいろはじめに喋ることになった。他には目を引く事も人も特にない僕らの集団なので、やはり会話の中心に、彼は座ることになった。
 そして期待された以上のことを、彼は喋った。自分の過去の話をする時にも、なにも迷いはなかった。過去の話こそ、僕らがもっとも興味を持ち、そして畏怖していたことだ。彼は用意されたように線を引いて、僕らにどこまで扱われれば良いかを提示してくれた。上手な笑い話だったおかげで、僕らはミーハーであることも社会の良識派であることも、またはかつての彼に同調することも許されたように、僕らは思った。幸いにして、僕らは初対面のゲストに対する敬意を持つことが出来る人ばかりだったため、必要以上に踏み込むこともしなかった。鋭さを鼻にかけて答えの間違いを指摘するようなこともない。

 彼の座談で、しばらくは全員を含めた会話が成り立った。それは少し、意外なことだった。実際彼と話す前には、僕の持つ彼に対する興味をどうすれば良いのか、不安だった。僕が興味を持つ物事は他人が興味を持たない事が多いし、もっと悪いと僕の興味を露骨にいやがられる事もしばしばあった。僕は多少無理をしてでも、彼の話を聞かなければいけない、と少し構えて行く必要があった。
 それでも彼のおかげで、僕はごく自然に興味を持ち出す事が出来たし、それに対する彼の態度にも笑顔が途絶えることがなかった。
 だから、僕は少し、行き過ぎてしまった。


「ねえ――僕らとあなた方をわけたものは結局なんだったんですか?」僕は言った。
 僕はそうとう飲み過ぎてしまっていたのかもしれない。思い出すだけで罪悪感と恥ずかしさに駆られる。

「やっぱりなんていうか、時代とか身近なトコにあったとか世代とか、それしか差はなかったんじゃないかな」
 あまり頭の働かない僕の同僚が口を出した。「結局差なんてないんだよ」
「そういう言い方はつまんない」僕は言った。「というか間違えでさえあるよ……仮に僕がね、あなたの側に暮らしていて、非常にあなたの影響を受けながら生活していたとする。でも僕は、あなたたちと一緒になって騒がなかっただろうと思う。それが正しいとか間違っているとかじゃなくて、客観的に見てもそう思うんです。これには自信がある。この差はなんだと思います?」
 僕は彼に向き直って言った。「ねえ、僕とあなたたちとの違いですよ。僕に感じる違和感って、なんです?」
「真剣に考えたことがあるから、答えられるよ」彼はやはり微笑みを絶やさずに言った。とても立派だと思う――
「あなたの言うことは良くわかるよ。確かに僕らとあなた――イヤあなたらだね――は違うところがある。あなたの言うとおりだ。確かにあなたは当時の僕と一緒にいたとして、僕が熱心に誘ったとしても応じなかっただろうと僕も思うよ」
「喋って欲しいなあ。こういうことを考えるのが僕は好きなんです。ぜひ教えてもらいたいなあ」僕はだらしなく言った。 「確かに、僕らとは違うんだ。これは趣味が違うとかそういうレベルの話じゃない。価値観的な話とか、趣味の話とかをすれば、僕らはとても近いところにいるはずだしね。今の僕はあの集団とは離れた。僕は趣味とか価値観とかはなにも変わっていない。だから言ってみれば、僕がどうやって変わったか、ということだよね。僕は成長したんだとは思ってはいないんだ。シフトしただけだ」
「シフト……いいですね」僕は独り言を、相づちのつもりで言った。とてもいい気になっていた。「それが正しい。人間は成長しない、ねえ、あなたはどのように移り変わったんですか?なにがあなたの中で変わったんですか?」
「ちょっと待って……今のあの集団のイメージでしか捉えていないわけじゃないよね」彼は僕に言った。周りは誰ももう喋らなかった。僕と彼は、向き合っていた。
「ええ。相当資料は集めました。肯定とか否定とかじゃなくて、データは集めたつもりです」僕は言った。
「うん、ならいいんだ。当時はまだ、今ほどイメージがぼろぼろにされていたわけじゃなかった。今のイメージで引き寄せられるのは、もうマイナスを望むだけの心境だ、マゾヒズムに似た心性だよね……昔から今でも活動しつづけてる人は昔のイメージがまだ引っ張られていて今のイメージを捉えていないという訳さ。僕の中にも、昔のイメージは未だ残ってるし、それは今のイメージでは覆い尽くせないほど巨大なんだ……」
「ええ、わかります。僕は最大限の力を発揮した時期のイメージを持つことができます」僕は言った。「それでも、僕は入らなかっただろうと、想像できる」
「そう、僕だってそのイメージを持ったまま、距離を置くことになった。だから、きみと一緒さ」彼は言った。
「じゃあはじめの設問に戻りますよ……」僕は言った。「僕らと当時のあなたの差はなんです?今のあなたと当時のあなたの差は?なにが、なにをして、あの集団はここまで社会と極北の位置にいることになったんですか?」
 彼は二ヤリと笑った。
「なんだと思う?」
「じらさらないでください」僕は言った。

 周りも息を詰めて彼を見ているのが、僕にはわかった。

「経済を知ってる、知ってないというのが、その差だよ」
 彼は言った。
「つまんなくてごめん」
「なるほどね」僕は言った。「経済とは融和のためのルールである……そんな言葉が、確かあったな」
「そう、経済の世界では、すべてを数値に置き換えることができる。大なり小なりで捉えられることができる――決して超越とか無限大とかを考慮に入れない。イメージでさえ強度を持つ、そういう世界さ」
 周りのみんなはまったく喋っていなかった。沈黙の空気が僕ら全員を覆っていた。僕は彼の顔を見ながら、彼の言っていることについて考えていた。酒が入っているので、論理的に考えたわけじゃない。対象の一つ一つを見つめるように考えていただけだった。
 僕はしばらくそうしていた。周囲はまた会話を始めたが、僕はそれに加わらなかった。一人が始めた話題に乗っかって喋る彼の顔を見ながら、僕はしばらくなにも喋らなかった。一つの感情が動き出そうとしていた。
 それに気が付くと、僕は注意深くそれを見守った。小さかったそれは、だんだんと大きなものになっていった。アルコールが感情を肥大させ、彼の横顔がそれを推進させた。
 僕は腹がたっていた。醜い!こいつはただのゲスだ!てそれじゃ俺も同じじゃねえか!ただのゲスだ!子供の頃に感じた『なにかものすごくイヤな感じのもの』じゃねえか!いつのまにか俺はそれになってんじゃん!うわ、なんだよ、俺!
「うわああ!」
 僕は叫び、遠心力を付けて振り回した拳を、彼の頬にぶつけた。彼はテーブルにつんのめり、ビールのグラスを倒した。
「ちくしょう!ちくしょう!俺が悪かったよ!昔のあんたみてえに俺はなりてえんだ!」
 僕は半分泣きながら立ち上がった。目をこすりながら出ていこうと思った。その前にやらなきゃいけないことがあった、と僕は気が付いた――ポケットからサイフを取り出し紙幣のすべてを握りしめ、その場に投げ出す。
 そして僕は誰かがなにかを言う前に、その場を逃げ出した。



 この話には後日談がある。
 翌々日、僕は会社に出勤した。大騒ぎを見守った人たちは、僕の反応を多少の緊張を持って、見つめた。
 僕は彼ら一人一人の前に立ち、唇を歪ませ、笑った。
「いやあ、ごめん、あんときはだいぶ悪い酒が入っちゃったみたいでさ。ほんと、ごめんね」
 と僕は謝った。
 何人かは、苦笑いと辛辣な(親しみの入った)言葉で迎えてくれた。

 ようは、そういうことだ、と僕は思う。
 僕は有り金を投げ出す際も、サイフごとおいて行こうと一瞬思った。でもそこまでアルコールに浸ってはいなかった。

 ええ、ですからもうこんなのは書かないようにしようと――思います。ごめんなさい。