だけど、僕は自分を見失う訳にはいかない。


上松 弘庸



 気が付けば。空が赤くなっている。さっきまでは蒼かったのに。でも。たぶん、またそのうち蒼くなる。そうすると、きっと僕のお母さんが死んだのも、本当なんだろう。と、思う。時間はちゃんと流れているんだし。僕は生まれてからずっと同じ時間を彷徨っている気がする。でも、それは、きっと気のせい。

 だけど。
 空から天使の涙が落ちてきて。僕の体は溶けてしまった。

 きっと気のせい。同じ時間を彷徨っている気がするのは気のせいで。僕は再び歩き出す。時間の流れに逆らわないように。しないと。
 僕はお母さんの事を思うと胸が張り裂けそうになるけど。それはきっとお母さんが僕の記憶のずっとずっと深い所で悲しんでいるからだと思う。お母さんは悲しんでいる。

 僕としては、お母さんを悲しみから解放する気はさらさらないのだけれど。

 …お母さん?悲しみから解放?…ちょっと待て、これじゃ、まるで話がメチャメチャだ。僕の話をしよう。僕が主人公だし、それに、たぶん君は僕の事を知らないだろうから。…と言っても、僕も僕の事を知らない。何しろ僕は、サンプルNo.020154。2万番代さ。名前だってないんだ。名前があるのはNo.000799までなんだ。でも、本当はみんなに名前があるらしいんだけどね。…噂なんだけど。まぁ、そんな噂、信じる方がどうかしてる。君だって単細胞生物一つ一つに名前があるなんて思わないだろう?それと同じさ。まぁいいや。僕の名前なんかどうだっていいさ。
 さて。僕の話だ。つまらないかもしれないけど聞いてくれるかい?
 僕は―つまり、No.020154である僕は、なんだけど―周りから自分の事をどんな人間と思っているかを聞いて回った事がある。1万番代の人には恐れ多くて聞けなかったけど。僕が聞いたのは、同じ2万番代の奴らで。
 で、どういう意見が多かったかというのが僕の知りたい事な訳で。まぁ簡単に言うと、「虚像と実像の識別を掌る、感性と知覚の欠落が如実に現れているのに対し、絶対的な真実を渇望する傾向が強く、自己に映した外界からの防壁の中でゆっくりと着実に彩られていく幻像を過信するあまり、排他主義に陥っている。また、その事に対する自覚の欠如が主な問題点の一つである」という事が大体の共通した意見だった。まぁ、所詮2万番代。ピントの合っていない望遠鏡で、手元の新聞紙を読むようなものだと思うよ。僕は。でも、頂戴した意見は有難く拝聴しよう。何しろ、No.20100前後の人なんだ。僕が聞いたのは。そこらへん、僕はしっかりしてるのさ。でも、まぁ2万番代には変わりはないんだけどね。
 そんな訳で。「自分の欠点を認識していない」僕の体は溶けてしまったって訳。僕は。これから僕の体を溶かした天使の涙について書いていこうとも思っていたんだけれど。そんな事には興味がないかもしれないね。君は。
 やっぱりやめよう。邦子の事を書くのは。


 右手に持った自由のピストルを。空の上に、ずっと上の方に撃った。
 空の上の、ずっと上の方に飛んでいた、もっともっと自由な大鴉は、僕の撃った弾に体を撃ち抜かれても、まだまだ元気そうに飛んでいて。
 まるで手を伸ばしても空には届かないような気がして、僕は泣いてしまった。空はあんまり蒼くて、僕は消えそうになってしまうし。
 それに、僕の体はもう既に溶けてなくなってしまっているんだ。そういえば。


 ちょっとだけ舐めた世の中の辛酸は
  とっても苦くて嫌な味で
   僕は吐き気がする程気持ちが悪くなってしまうのだけれど
 毎日毎日舐め続ける
  毎日毎日舐め続けるんだ 飽きもせず
 空を見れば大きな鴉
  阿呆か阿呆かと鳴いている
 阿呆な僕は空見上げ
  天使の涙を浴びながら
   己自身に涙する
   
  それでもまだまだ満たされぬ
  それでもまだまだ満たされぬ


 孤独とはそうまさに孤独とは存在しない。私の闇、私の月、私の赤い石。人の心に土足で踏み込むこの世に生まれ、幼い頃よりその事を意識していたような気がする。実際、自我を気遣い合う事より能力を発揮する事のみ考えていた。つまり全ては自分の事、という事である。
 一体それが私の罪なのだろうか。

 もうこれ以上つらい思いをするのは嫌なんだ。もうたくさんだ。誰も傷つけないって言ってたじゃないか。嘘つき。嘘つき。えぐられた僕は空見上げ、ほんとうに空っぽになってしまった。そう。大きな大きな小さな嘘。骨が軋んでうまく歩けない。僕の体は溶けてしまった。骨が軋んでうまく歩けない。
 涙が頬を伝っていった。まるで作り物みたい。僕のからだ。歩く、歩く。歩こうとするけど、歩こうとするんだけど、一生懸命歩こうとするんだけれど。でも、うまく歩けない。骨が軋んでうまく歩けない。だから言ったじゃないか。僕はなにも分かっちゃいない。だから最初から無理だったんだ。分かりきっていたのに。可哀想ね。可哀想ね。でも、どうしようもないね。
 僕の前で、天使の涙。僕は一体何をしているんだろう?

                                              (未完)

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