熱血王子、おしゃべり姫




神田 良輔







 僕らの街は新宿から快速に乗って一時間、という距離にあった。
 電車賃は片道で千円ほど、一月の定期は学割で二万円をちょっとこえた。おそらく、関東ではこの様な街は珍しくもないだろうと思う。
 まあこのあたりの大抵の街と同じように、この街にも活気はなかった。気の早い人間は中学の頃から休日になると上京し、東京での活動範囲を広げることに熱中していた。街の中では、何もすることがないように思えたに違いない。確かに、毎週毎週同じ場所で酒を飲むことには耐えられなかったと思う。
 気の長い人間だっている。彼や彼女は親戚の結婚式で上京したきりだ、という人も少ないわけではない。そういう人は大人になり、生活が安定するにつれ、もっと足は遠のくことになる。それはそれで、悪くなさそう過ごしている。
 とにかく、僕らの街はそういう街だった。東京に行くことだけをとって、決定的に生活を分けることが出来た。


 ☆


 僕らはそんな街で暮らした。他の街に出て行ったとしても、結局はここに帰ってこなければならない。たとえともだちが他の街にいたとしても、結局はここの街に帰ってこなければならなかった。
 それはかなり長い間続いた。少なくとも、中学生だった頃は3年間ずっとその生活だった。


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 中学生の頃の話をすることに、あまり意味はないような気もする。もう僕らは実際大人になったのだし、そのころの自分はまだ自分ではないといっても言い過ぎではないと思う。前世で虫を食べるカメレオンだったとしても、そのころはまだ自分ではなかった、というのとまったく同じ話だ。そのころは自分ではなかったのだから、罪の一つも犯して当然なのだ。
 だからこれは――うん、思い出話を聞くような気分で読んでもらうと良いと思う。
 他人の思い出話なんか、聞きたくはないかもしれない。だから、酒でも飲みながら飲んでもらえると、助かる。
 僕も飲みながら書くことにしよう。


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 僕は当時、学習塾に通っていた。学校の教科を、専門的な技術を使って教え込む、集団のトレーニングセンターだ。
 これは僕らが子供の頃はけっこうメジャーな施設だった。今となってはどうなのか、僕にはわからない。今となっては、これは流行で終わったカルチャースクールと大差がないように思える。
 そのころ中学生の子供を持つ親は、とてもシンプルだった。「なるべく勉強させて、質の良い高校に入らせる」ということに、誰も疑いを挟まなかった。だから、子供の成績に致命的に失望しない限りは、大抵学習塾に通わせた。そうすることが生活をランクアップさせる、唯一の手段だった、とでも思っていたのかも知れない。
 僕が通うようになった塾は、小規模の塾だった。大学を卒業したばかりの女性が、自宅の一室を改造して人を通わせるようにしただけの、こじんまりとしたものだった。
 その塾では毎年四月に、四人の中学三年生を入塾させる。この数は毎年変わらない。僕らが中学三年になり、この塾に入ったのは、先生が塾を始めてから四年目で、そのやり方も四回目だった。過去三年間の生徒12名は、すべて同じ私立高校に合格した。先生自身が卒業した、この地方でいちばん名前の知れた、名門高校だった。
 そういうやり方で、規模の小ささの割には信頼は厚かった。僕らの代では、多くの入塾希望者がいたらしい。


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 ちなみに、入塾に関しては、面接だけで決められた。話がわかりそうな人間を集めただけではなかったか、と思う。でも成績をろくに調べもせずに、入塾させるのはたいしたものだ、と今でも感心する。そのやり方ですべての生徒を同じ高校に合格させてしまうのだから。18時のニュースで特集を組んでも不思議じゃないだろう。
 このやり方を通じて――そして、先生の教え方を通じて――徹底的に思い知ったのは、受験はやり方だ、ということだ。知性とかやる気とか、そういうのは一切関係がない。それに適した方法を知って、それを地道に行うことさえすれば、受験には合格する。
 おかげで、この考え方は受験以外のことにも応用させるようになってしまった。ものごとには、目標とか努力とかそういうことでなんとかなるものではなく、やり方と生活を知ることだ、と。やり方と生活が揃わなければ目標にはならない。そして一人でするにしても、この二つさえ揃えばなんとかなる。


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 結果から言えば、僕らの代も、四人はそろって同じ高校に入学することが出来た。この塾の評判に貢献することができたわけだ。
 でも僕らの四人の親に関して言えば、最終的には満足することが出来なかった、と言えるだろうと思う。
 僕らの代の4人のうち、まず一人が高校二年に上がるのと同時に学校を退学した。留年をする生徒は少なからずいた。でも退学となると、学生運動の活発だった六十八年に二人の退学者を出した頃までさかのぼる必要があった。だいたい三十年ぶりの不名誉なことである、と教師は憤慨したようだった。そして翌年、さらに一人が退学した。これも僕ら四人の一人だった。それ以来は毎年一人か二人の退学者を出すことになる。
 まあこれは関係がない。
 中学生の頃の話に戻ろう。


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 僕はこの塾に、週三回、日が暮れ始める頃に自転車で通った。結局、一度も、車で送ってもらったことはなかった。自転車で通えない日は行かなかった。
 家を出て、車通りの多い国道に向かい、その道をひたすら走る。大型の電気屋(今はもうない)の前を過ぎてから脇道に入り、住宅が並び始めると、すぐにその塾はあった。ほとんど知らない場所ではあったが、始めに先生が車で迎えに来て以来、この辺りは中学生が好んで行くような場所ではなく、自転車で気軽に行く、というほど近場ではなかった。
 僕らは四人とも別の中学だった。おかげで一人などはかなり遠くから通わなければならず、中学生には交通手段は自転車しかないので、自然両親が送り迎えすることになった。彼女の両親の負担はかなりのものではなかったかと思う。でももちろんそんなことは僕らの思い知るところではない。
 中学生は入塾に関して、反対しなかった、という程度のスタンスでしかないのだから。


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 それでもこの先生から受けた影響はかなりのものだったと思う。
 自宅の一室なだけの教室は、本当にただの、普通の部屋だった。黒板のスペースすらなく、先生はやや大きめのホワイトボードを使って授業をするだけだった。
 一時期の徹底的な反復練習を除けば、あとはほとんど話をすることで授業は進められた。先生は参考書を読みながら、ホワイトボードに問題を書き込む。それは僕らの誰かに渡されて、解くように言われる。もちろん他の三人と先生は常に注目しているわけで、足し算のスピードまで知られてしまう。これが初めはすごく辛かった。元来負けず嫌いな僕は、そのスピードが遅く――一人計算がものすごく早い女の子がいたのだ――それに負けまいとして、単純なものを解くだけですごく緊張したのだ。
 英語の授業なんかは、ホワイトボードはほとんど使われもしなかった。一つの本をみんなで囲み、質問することとされることだけしかほとんどされていない。そのころ喋り合ってた見当違いな発音は――先生も、スピーキングはまるで苦手だったせいだが――今でも僕に染みついている。
 割にすぐに慣れることは出来た。先生と話をするだけではなく、僕らは生徒同士でも、良く話をした。それなりに得意の分野というのは出てくるし、お互いのことを分かり合ってしまえば、それはそれで慣れることが出来る。


 僕らはそうやって。なんでも喋った。
 わからないことはわからないというだけではなくて、どのようにわからないか、言葉で説明することを求められた。そのための言葉を、まずは僕らに徹底させたくらいだった。
 使用するための言葉は多い方がより好まれた。他の三人が知らないような言葉でも喋らせたし、理解出来てないと思ったら――先生は、それを驚くほど正確に察知した――尋ね返して教え込んだ。だから、基本的に無口だった生徒も、一年ここで過ごす頃にはいろんなことを喋るようになった。
 でも実際には喋られた言葉は、しかしまだほとんど追いついていなかった。これはまあ仕方がない話ではあると思う。喋ってみて、その言葉があまりにも大きすぎ、自分には過ぎた言葉だった、と後で後悔することは多かった。――本当に多かった。なるべく気をつけて喋ろうとは思っていたが、やはりそれでも。今でも思い返すと恥ずかしいことは多い。
 多分先生は稀に見る聞き上手だったのだと思う。聞き上手なものが一人でもいれば、それを吸収して自分も聞き上手になるのは、難しくはない。そうやって僕らは、まず喋らせる、という形が定着したのだろうと思う。
 今でも初対面の人と会うと、その人の語彙でいろんなことを判断する。ごく稀に、驚くほど貧困な語彙しかない割に尊大な人間などがいる。綺麗な女の子や中年に多い。どうしてそんな言葉を致命的に言えるのか、こちらにはまったくわからない。それだけでこちらは失望するのに充分だと思ってしまう。


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 だからまあ――僕らは塾の中では、普通以上に濃密なコミュニケーションを求められた。始めて会ってから中学を卒業するまでの一年の間で、ぎゅっと圧縮されたようにいろいろなことを喋りあった。元来、なにかを喋ることは快感なのだろうと思う。
 僕ら四人は奇妙な仲ではあった。基本的に生活はまったく別だ。住む場所も遠く離れているし、共通の友人もまったくいない。それでも、その相手がどんな生活をしているか、どんなことで悩んでいるか、どんなともだちがいてどんなことをしているか、それは映像を見るようにわかっていた。
 当時の僕は、だからこの三人をあまり友人、という風には考えていなかったと思う。もちろん恋人でもない。それもものすごく奇妙なことだとは思うのだけど、普通にともだち、という語幹で取り扱うには抵抗があった。
 それをはっきりと覚えているのは、歳をとるに従って、だんだん友人という形が、この塾の人間関係に近づいてきたからだ。それまで友人だと思ってた漠然とした形は、歳をとるごとに、だんだん友人関係とは言わなくなっていった。
 このギャップを実感し、僕に致命的な形で襲いかかってくるのは、僕が高校に入ってからだ。
 ――まあ、しかし、ここでは関係がない。
 中学生に戻ろう。
 経験した事よりも、喋ることの方が大きかった頃の話に。

 ☆



 ――ひとつのエピソードをひこう。


 季節は夏だった。
 授業はほとんどぴたりと時間に終わった。これはつまり、時間が来たのとほとんど同時に、僕らの間でテンションが一段落した、ということを意味する。一つのテーマはいろいろな形に変形させられ、そしてそれらの動きを四人が四人とも自在に扱えるようになっていた。この問題はもはや僕の驚異ではなくなっていた。
「じゃあ、今日はこんな感じで」
 と、先生は宣言した。
 僕らはそこで解散するところだったが、帰り際、ちょっとした話題が持ち上がった。
 もう夏休みは終わるところだった。
 古沼は夏休みの始め、同級生を連れて彼女の田舎に行った、という話をした。田舎は鎌倉にあり、彼女の祖母と祖父が二人で住んでおり、二泊して帰ってきたという話だった。
 勉強道具は持っていったが、結局勉強はまったくしなかった。間の一日を使って湘南の海まで行き、朝から夕方まで遊んでいたという。水着を持っては行かなかったので、ショートパンツとスカートの姿で膝まで水に入り、それでもとても楽しかったという話だった。
 それを受けて、向田が去年は家族でハワイに行ったという話をした。数年に一度に家族で出かけ、同じホテルで同じように過ごす。それほど楽しいものじゃないけれど、と向田は言った。目新しいこともないし、ビーチとプールを往復していただけだ、という。僕は向田の言うとおりだな、と思った。確かに、親と行く旅行なんておもしろいものでもないだろう。場所なんてどこだって差があるとは思えない。
 それにしても、僕は旅行なんてしてなかった。小学校のころ家族で群馬にスキーに行ったのが最後だった。去年(か一昨年だったと思う)誘われたが、面倒になって一人で留守番するほうを選んだ。でも、同級生と行く旅行ならとても楽しいだろう。
 神田が口を開いた。じゃあ、みんなで古沼の田舎に行こうぜ、と言った。
 古沼はとても乗り気になってくれた。彼女は僕らと行く旅行も同級生と同じように、楽しめると思ってくれたようだった。
 僕ももちろんおもしろそうだと思った。だいたい友人と泊まりがけで遊びにいくことは経験がなかった。古沼が誘ってくれるなら、みんなで行きたかった。


 しばらく僕らはとりとめもなくその話で盛り上がった。神田と古沼は移動する電車について知識を出し合い、距離と運賃、乗り換えを検討した。向田はスケジュールを組み、それでもやはり受験生なのだから勉強の時間はとるべきだと言った。それに僕は反対した。結局のところ遊ぶだけになるのだ、と、向田は僕のそういうところを嫌ってあげつらった、だいたい勉強もせずに、心から遊んでられるはずがない。いや絶対そうなるのに決まってる、と僕は古沼の前例を引っ張って、こちらの仲間に加えた。古沼もまあ勉強はしたほうがいいよね、と曖昧に話をまとめ、それよりお金とみんなの両親に話をしてみるほうが難しい、と言った。それには向田も同意して、考え込んだ。
 夏休みの授業だったので。比較的遠い向田も、自転車で通ってきていた。古沼はこの中でいちばん家が遠く、両親の車で送ってもらう必要があった。はじめのうちは定時になると両親のどちらかが車で来ることになっていたのだが、授業の終わりの時間が一定せず、やはりだらだらと話をしてしまうことが多かったため、終わり次第こちらから電話をかけることになっていた。だから時間はみんなにたっぷりとあった。なにより、夏休みなのだ。
 僕と神田は落ち着きなく立ったままで、授業用のホワイトボードに落書きをしたりしながら喋っていた。そのうちに話題は全然別になっていったりもして、僕と神田、古沼と向田に別れて喋り合ったりした。僕と神田では勉強することについて、含蓄を如何に含んだ討論が出来るか躍起になっていた。僕も神田も討論風の言い合いになると後に引くのは死ぬほどイヤだったのだ。男二人が向きになっていると女の子二人は一歩下がることになり、恋愛の話なんかをはじめたりする。徐々に旅行の話題から遠ざかっていった。
 お互いの折衷点を見つけ、なるほどそれならばおまえの話はわからないこともない、という段でまとまりそうになる頃、古沼と向田は古沼の彼氏について、愚痴をこぼしていた。僕らは話が一段落ついたので、自然とそちらに注意がいった。
 僕らが注意を向けようが、向田と古沼は話のペースを変えなかった。話が少しづつややこしくなっていき、セックスについてになっても僕らは顧みられなかった。そうなると逆に僕らは話に入れない。それでも注目せざるをえない。
 要はまだ、古沼はセックスなんかしたくない、ということだった。向田はそうなると、説教風の口調になる。古沼はそれをおとなしく聞くことが出来た。
 したくないならしないほうがいいのに決まってる、と向田は断定した。でもほんとうにそれで良いのか、と向田は詰め寄った。あんたはビビって臆病になっているだけだ、愛してるならなにも恥ずかしがることもないし、いやがる理由はないんじゃないか?、と――
 僕と神田ははものすごく注意を向けて、それでも邪魔しないように聞いていた。


 ☆


 僕らは――前述の通り――皆同じ高校に通うことになったのだけど、実際高校に入ってしまうとクラスが別れたこともあり、一切の交流はなくなってしまった。始めに向田が学校を辞め、その後神田も辞める頃にはまったくお互いに交流はなく、噂として入ってくるくらいしかお互いの近況は入ってこなかった。
 19歳になって、僕と向田は偶然――たぶん、偶然だろうと思う――に再会した。その歳に僕らは何度か顔を合わせ、いろんなことを話すことが出来るまでに交流が戻った。この歳にはいろいろな事があったが、それはまた、別の話。

「昔はものすごくしっかりしてたよな」
 僕は向田をからかう。向田は照れる。
「あんただってそうだったでしょ」
 と、言い返す。
「まあ確かにね」
 と僕も認める。恥ずかしいのだ。


「あの日のことを覚えてる?」
 と僕は一度向田に話をしてみたことがあった。
 どの日?と向田は尋ね、僕は一からこの日のことを説明した。話し始めるとすぐに、
「あ、わかった」
と言った。「言わなくて良いよ。恥ずかしい」
 僕は笑った。
「ねえ、本当にそう思ってる?」
「あんたねえ」
 向田は少し大きな声になる。
「頼むからやめてよ。私だってすっごく子供だったんだからさ」
 僕は笑う。
「あんただってさあ……」
「なに?」
 僕は尋ねる。
 向田はしばらく考えてみるが、思い出せない。
「絶対なんかあったはず。あとで神田に聞くからね」
 多分僕の方が、傷は浅いはずだ。そのことを僕は知っている。


 ☆

 向田は机に座り、壁を背もたれにしながら足を組んでその足を大きく揺らしていた。彼女は背が高く、足が長い。そのようにしていると、なんとなく威厳のようなものが感じられた。そのそばで古沼は椅子に座り、眠りそうに頭を支えながら話を聞いていた。その二人の姿はとても良く覚えている。
 彼女は古沼だけに言っていたのではなかった。僕と神田が聞いているのももちろん承知していて、僕らに対してもアピールしたかったことも多かったのだろう。
 ――今ものすごく悩んでいるのだけど、とにかくその内容を詳しく書くことは避けることにする。とても歯がゆい気もするが、やっぱりここで喋るには――酒を飲みながらでも――あまりにも失礼なことのような気がするから。
 でもそれは間違いなく僕には効果があった。目の前の彼女がとても巨大なものに見えた。
 正直に言うと僕は少し悔しくなった。僕の存在がちっぽけに感じられることを肌で感じたからだ。目の前の相手は僕の知らないことを沢山知っているような気がした。僕がなにを言っても、子供の言葉だから、とあしらわれてしまうような、そんな気がした。


 まあ、後日――とはいえ、19で再開するまでの期間はとても長いが――それは言い過ぎだった、と向田は認めた。実際リアルな話はその時には出てこなかったし、要は、まだ彼女も全然未熟な、ただのガキでしかなかったのだ。それに、それを知った19の頃にはまた僕らは別の話題があったし、真剣にならなければならないところも別にあった。この話は大人になり、からかって終わった。


 だから、まあ、これは僕らがまだ王子と姫だった頃の話だ。
 普通の男になり女になり、現実的な様々なことと向かい合って話をするのはまた後日の話になる。
 そこでも、やはり僕らはいろいろなことを喋りあう。しかし、割合は変わった。
 話される話題の99%は、冗談と笑い話になった。そうやって話されることは、まだ楽しい。もちろんだ。
 僕らは今でも、喋りあうのだった。