カラーズ2



潮なつみ






   二、ミカ

 「ね、今日も数学サボるでしょう? 私も一緒に行くから、待ってて」
 アユミは、もうすっかり準備万端になっている私を待たせる。いつもこうだ。
 思えば半年前、まだ三年になって二回目の数学の授業を、早速抜け出そうと思って、立ち上がった瞬間に、
「あ、ちょっと待って」
 と声をかけられたのが、私と彼女の関係の始まりだった。
 尤も、私はそれよりもずっと前から彼女のことは知っていたのだけれど、特に興味も無かったし、自分とは関係の無い人間だと思っていた。だから、三年になって同じ教室に彼女がいたのを見つけたときも、有名人がいるなあ、くらいにしか思っていなかったのだ。なのに、突然「ちょっと待って」と声をかけられて、何を待てば良いのか解らないけれど、仕方なく言われた通りにそこで待っていると、どんな男をも陥れるという噂で有名な女が、にこにこして私を追いかけてきたので、私はびっくりしてしまった。まさか彼女、今度は同性愛に目覚めてしまったのでは、と内心焦ったのも、今となっては笑える話。
 あの時、アユミは「急がないと、チャイム鳴っちゃうよぉ」などと言って、急ぐ必要など無いと思っていた私を無理矢理引っ張るようにして、校門をくぐっていった。私はもう、それだけで不機嫌になっていたと思う。なぜなら、私は担任に見つかったら、平然と「具合が悪いので早退します」と言って欠席すれば良いと思っているからだ。急ぐ労力を使うくらいなら、机に突っ伏して寝ながら数学の授業の退屈な時間をもてあますほうが、遥かに救いがあると思っていた。私の速さで午後を過ごすために授業を受けることを拒絶したのに、人の事情に合わせて走らなければならないなんて、あまりに本末転倒だ。
「うふっ、もう先生に見つからないよね」
 校門の坂を五メートル位駆け下りて、初めてアユミは立ち止まって、私の方を振り返った。彼女の吐いた言葉の女の子らしさに、私は気分をさらに悪くした。言葉づかいが問題なのではない。彼女特有の微妙なイントネーションに現れているのは、媚以外の何物でもなく、そこには自分を可愛らしく見せようという魂胆があまりにも見え見えだったから。
 それなのに、その日以来、私とアユミはすっかり仲良くなってしまった。後から聞いたところによると、実はアユミも私のことをずっと知っていたのだそうだ。ちょっと変わっているけれど、何だか雰囲気のあるカッコイイ女の子がいる――アユミの私への評価は、そういった感じだったらしい。それで彼女のほうから私に近づいてきたのだと知って、私は随分驚いた。
 私は、この高校では単なる変わり者として扱われている。それは、時々情けなくはあるものの、大方は私の目論見通りだと言っていい。私は、偏差値が七十以上ある女なんて、ちっとも可愛くないと思う。けれど、高校に入るまでの私が、まさにそれだった。「オレより勉強の出来る女なんて」と好きな男の子に振られた時のやるせなさといったら、もう本当にどうしようもなかった。顔が嫌いと言われたほうが、よほど諦めがついただろうと思う。哀しいことに、私に期待してくれるのは、学校や塾の先生ばかりだった。その期待というのも、馬鹿みたいに神々しくて、その先にある未来は、誰の役にも立ちそうになかった。だから、私は落ちこぼれになりたかった。誰にも期待されないで、毎日を自由に過ごしたかった。
 それが、自分よりも確実に偏差値が高い人で構成されるこの高校に入ろうと思った理由の全てだった。そして、実際に落ちこぼれになって、誰にも期待されること無く、ただ気ままに過ごしていたところ、私はめでたく『変わり者』の称号を与えられたのだった。
 アユミの私への印象は、実際に話した後にはどう変わったかは解らない。けれど、ここまで仲良くなれたのは、お互いに相手を「自分に足りないものを持っている人間」と認めざるをえなかったからかもしれない。

「今日はどこでお茶する?」
 うきうきした口調で、アユミは私の横をついてくる。男の子だったらこんな言葉にときめいてしまうのだろうか。解らない。
「悪いんだけど、あたし図書館で勉強しようと思って」
「えっ」
 アユミは大きな眼をさらに見開いて、私の顔を食い入るように見ている。と思ったら、今度は疑惑の眼差しで、私に話し掛ける。
「ミカ、最近変わったよね。なに企んでるのか解らないけど、何にも話してくれないなんて、ちょっとひどいよー。なんか、リョウジも心配してたよ」
「リョウジが?」
 少し緊張した。
「そうよ、リョウジってば『ミカの奴、絶対おかしいぜ!』って、二学期始まってから、毎日のように言ってるんだから」
 それだけか、と思ってホッとした。
 八月の終わり、私は失恋をした。相手は二歳年上の大学生で、カメラが趣味の人だった。彼と一緒に写真を撮りに行きたい一心で、私は今までの貯金と少しのバイト代とで、中古の一眼レフを買ったのだった。彼と同じ型のもので、中古でも三万と少しした。撮り方を教えてもらう約束をして、彼に会いに行ったら、そこには彼の彼女だという女性が一緒に来ていた。彼よりも年上で、なんだかとても美しい人だった。その人も写真がとても好きだし、彼の写真のモデルにもなっていると言って、今までに撮った写真を見せてくれた。それはもう良い写真だったし、悔しいくらい素敵なカップルだった。
 すっかり打ちのめされてしまった私は、次の日に、一人で海に写真を撮りに行った。まだ使い方もよく解らない一眼レフを抱えて、ファインダーを覗くと、全く偶然だったのだけれど、リョウジが枠の中に入ってきた。私はびっくりして声をかけて、それで、波と戯れるリョウジの写真を何枚か撮らせてもらうことにしたのだった。
 いつもは割とクールに振舞っているつもりの私だったけれど、その日は少しはしゃぎ過ぎていたと思う。私はあれ以来、何だか気恥ずかしくて、リョウジとまともに会話できない。写真も全然上手く撮れていなかったので、リョウジには見せていない。
 そんなことを思い出している私の目の前に立ちはだかって、アユミは一人で話を続けた。
「みんなはたぶん、あんまり立ち入った事は聞いちゃいけないと思って黙ってるだろうけど、私はそうはいかないわよ。だって、私とミカの仲だもん。それにね、私はとぉっても一般的で、俗的なオンナだから、タニンのことにすごく興味あるし、そのことを隠せないよ」
 本気で言ってるのか、ふざけているのかわからないその口調。「それで男を騙してるんだ?」と言おうと思ったけれど、面倒くさいので、やめた。ただ、アユミの心に渦巻いている不安が何なのかは解る。
 私やアユミ、それにリョウジあたりのクラスで仲良くしている子たちは、大抵この進学校の落ちこぼれに位置している。成績や、授業の出席率の数字が、顕著にそれを物語っている。だけど哀しい事に、どんなに落ちこぼれたって、ここは進学校なのだ。私たち自身、大学に行くのに必要な学力くらいは備えている自負があるし、大学に行かない積りもない。だけど、他の子たちのように、勉強ばかりの毎日を過ごしたくはない。とはいえ、このままで良いのかどうか、そんな不安に、常につきまとわれているのだ。
 私は、時々彼らのそういった不安げな一面を垣間見てしまうと、いつもひどくつまらない気持ちになる。そして、そんな気持ちを裏に込めて、私はアユミに対して答えた。
「大丈夫。別に、抜け駆けして一人で『良い大学』に行こうとなんて、全然思ってないからさ」
「そうなの?」
「だいたい、そんなの今さら頑張ったところで、無駄だし」
「うそ、まだ遅くないもん。ミカなんて本気出せば何でも出来るくせに」
「アユミだって、そうでしょう」
「そうかもしれないけど」
 落ちこぼれ組のみんなは、とても馬鹿で頭が良いので、一緒にいてとても楽しいのだけれど、こういう種類の驕りだけは、今も好きになれない。自分も含めて。
「でも、本当に違うの」
「じゃあ、なに?」
「ちょっと、やりたいことが、あってさ。今はそれに向かって努力したいだけ。大学なんてどうでもいいけど、自分の夢を叶えるために必要な勉強を、思う存分やっておきたいなあって」
 アユミは暫し考え事でもするかのように、自分より少し上の宙を見る(そのぼんやりした上目遣いが、また色っぽいと思う)。少ししてから、「なるほどね」と、独り言の音量でつぶやいて、小さく頷いた。
「でも、今日はまあ、せっかくだから一緒にお茶でも飲もうよ。ね。それに、六時限目終わったら、文化祭の準備に行かなくちゃならないでしょう? 今勉強したって中途半端にしか出来ないよ」
「まあ、そうなんだけど」
 何だかんだ言っても、ここまでアユミを連れてきておいて、一人で図書館に行って勉強するなどということは出来ないことくらい、私だって知っているのだ。結局、今日はアユミのお薦めの、手作りチーズケーキの美味しい喫茶店で、チーズケーキを食べることになった。

 「ところで、ミカの『やりたい事』って、一体何なの?」
 チーズケーキにフォークを刺したままで、アユミはとてもさり気なく聞いてきた。さり気ないけれど、本当はずっと機会を窺っていたようなタイミング。この子は、本当に他人のことが気になって仕方がないらしい。女性週刊誌の記者にでもなれば良いのにと、私はしばしば思う。
「うん、なんて言うか、芸術」
「芸術?」
 あゆみはすっとんきょうな声を上げたかと思うと、その後吹き出して、しばらく肩を震わせて笑っていた。大声を上げて笑ったりしないのが、彼女流の「大人」らしい。
「どうして笑うわけ? 悪いけど、私は本気だからね」
「だって、『芸術』って言ったって、色々あるじゃない。一体何するつもりなの?」
「うーん、具体的には、はっきりとは決まってないんだけど」
 あゆみはまたもや可笑しそうに笑った。馬鹿にされたような気分になって、私も少しムキになる。
「でも、そう言うほかに無いんだもん。さっきアユミも言ってたけど、確かに私は、何を勉強したって、それなりに出来ちゃうだろうと思ってる。けれど、そう思ってしまう自分がすごく厭なの。それに、何となく小器用にこなして行ったって、結局何も出来ないような気がするんだもん。だから、今までやってこなかったようなことをやりたいし、勉強して無駄になるようなことを勉強しておきたいって思うの」
 我ながら説得力がない。
 でも、しかたないのだ。『芸術』なんて、語ったところで何の意味もない。あの彼の素敵な彼女も、そんな事を言っていた事を思い出す。彼女は芸大生だけれど、芸術を勉強しているというよりは、芸術を『していた』ように見えた。その風情に、私はとても憧れた。そして、だからこそ「勝てない」と思って、一つの恋を諦めたのだ。
「そうかぁ。でも、確かにミカには合ってるのかも知れないね。ミカは独創的なところもあるし、手先が器用で、色々と細かいものも作っちゃったりするもんね。絵も上手いし、歌も上手いし、文章だって――授業の合間にやり取りする手紙だけ読んでも、上手いなって思うよ」
「そうかな。まあ、それとこれとは別のような気もするけれど」
「ううん。そんなに改まらなくったって、ミカは昔っからそういう事をやりたかったんじゃないかなぁ」
「ありがと」
 それから、何となく会話が途切れたまま、私たちはチーズケーキを食べた。アユミが珍しく言葉少なになっている。物思いにふけった表情。本人が意識していないその表情こそ、彼女が自分を可愛く見せようとしてするどんな表情よりも、どんな仕草よりも、色っぽいなと私は思った。
 それから、アユミはぽつりと言った。
「あたし、何したいんだろう」

 結局、六時限目の日本史もサボった。すっかりやる気をなくしてしまった。そして私たちは、授業が終わったころを見計らって、裏門から学校に戻ることにした。
 裏門の前で、私たちは偶然にヤスオとコウイチの二人に出くわした。
「おまえらも、授業さぼってたの?」
「うん、本当は家に帰りたいところだったんだけど、ね」
「帰るわけないよな、ミカは文化祭の準備に命懸けるような人間なんだから」
「そう、おまえがいなきゃ始まらないぞ」
 二人が口々にそういうのをみて、アユミがひそかに笑って言った。
「さすが、アーティスト」
 私の目指すところとは、少し違うような気がするのだけれど。私はそう思いながら、小さく苦笑した。それでいて、私の頭の中にはもう、クラスのイベントを宣伝するためのポスターの構図が鮮やかに浮かび始めている。