カラーズ5




潮なつみ






   五、ヤスオ

 高校三年生の冬休みはあっという間に、というか、あっという間もないくらい早く終わってしまった。一応、行くだけ行った冬期講習なんて、くだらなくてつまらなくて仕方なくて、こりゃあ学校に行ったほうが少しはマシだよな、なんて始業式を密かに楽しみにしちゃったりした俺だったのだが、いざ学校が始まってみたらどうだ。
 とりあえず、センターを受ける奴ら(マモルやリョウジやヒサノなんかも、その中に入るらしい)のほとんどは、センターが終わるまでは学校に来ないから、教室にはいつもの半分くらいしか人が居ない。こんな状態じゃ授業やる先生の方だってマトモな事なんてできるはずもなく、授業がマトモじゃないから、他の奴らは授業なんてまったく聞いていない状態で、じゃあ何をやっているのかと思えば、とっても楽しくない受験勉強、ってなわけだ。
 ミカは夏くらいからこんなふうになっちゃったけれど、マモルも文化祭が終わったあたりから志望校を絞ってしっかりやってきたらしいし、驚いたことに、ついこの間まで大学どころか人生の方向性まで見失いそうだったあのアユミまでもが、眼の色を変えて勉強し始めたのだから、もう世の中がおかしくなっちまったんだとしか思えない。
 ちょっと茶々を入れてやろうと、休み時間にアユミに話し掛けてみた。
「なんだよ、オマエまでクソマジメに英単語なんか詰め込んじゃって」
 アユミは手を止めて、たっぷり二十秒ほど空を見て(それは、今覚えたものをそのまま忘れてしまうのを防止するような意味があるのだろうと思う)、それからようやく俺の言葉に対して答えた。
「ん。あのね、あたしも、行きたい大学が見つかったの。あたしにも出来そうなことがある大学、見つけたの。そこに行きたいから、ちょっと頑張ってみるんだ」
 妙に自信に満ちた声でそんなことを言われた俺は、何だかもう何も言えなくなって、ただボケッとしてアユミの顔を覗き込んでしまう形になった。アユミは、こういうときに決して目をそらさない。まっすぐに俺を見つめ返す。だから、俺は余計に動けなくなってしまう。どうすりゃいいんだろう、と動けないなりに考えていると、さっきまで勉強のために強ばっているように見えたアユミの表情が、急にフッと緩んだ。
「これも、ヤスオのおかげだよ」
 今まで何人の男を落としてきたのかわからないそんな眼で、俺を見るなっての。

 結局、このクラスの落ちこぼれ軍団の中でも、未だに受験勉強に集中できないのは、俺とユミコとコウイチぐらいか。だけど、ユミコは未だに大学に行くかどうかって根本的なところで悩んでいる段階だし、コウイチは初めから浪人するつもりで勉強をわざと避けてるんだから、「大学には一応行くつもりだけど、やりたい事もないし、行きたいとこもないし」なんて中途半端なことを言ってるのは俺だけ。願書は出すだけ出したけれど、学部もレベルもバラバラだ。一体どうなるんだか。
 本当、アユミなんかの相談に付き合っている場合じゃなかったってのに。時々こんな自分が無性にイヤになる。いつもこうだ。
 「ヤスオってホント、いい人だよね」
 よく言われるよ。でも、「いい人」なんて、褒め言葉になんかなりゃしない。

 つまらないことばかり考えて、一向に勉強も何も身が入らない俺を放ったらかしにしたまま、一月も中盤に差し掛かる。センター試験という一つの仕事を終えた奴らも、学校に顔を出すようになった。もう志望校を諦めなきゃいけないという窮地に立たされている奴もいる。リョウジとヒサノは、センターは満足な結果に終わったらしく、本番に向けて気合も新たに、といった感じだ。マモルは少し落ち込んでいるけれど、私立が第一志望なので良いのだそうだ(そういや、俺たちはよく一緒につるんでいるけれど、具体的に志望校がどこなのかは聞いたことがなかった)。一喜一憂もいろいろだ。
 そうなると、今度は私立しか受けない奴ら(一応俺もそのうちの一人であるはずだが、いまだに自分がそうであるとは信じがたい)が、本番を目の前にして焦る番だ。
 しかし、こんな時だってのに、学校は学年末試験なんてものを遂行しやがる。こんな一月に学年末なんて言われたってピンとこないし、受験勉強以外の勉強をする暇なんてないはずなのに、これを受けなきゃ卒業させてもらえないっていうんだから、世の中狂ってる。まあ、俺はもともと落ちこぼれてるし、散々な結果になることは目に見えているから、ちっともやる気にならないのだが。
 とか何とか言いながらも、それはそれ。やはり前日には地学なんていう普段から授業にも出ないような教科を、徹夜で勉強してみたり、する。さすがに高校留年は避けたいから、情けないが権力に屈するほか仕方ない。

 そんな徹夜明け。
 朝が来て、カーテンを開けて、俺は思わず一人で叫んだ。
「うおお」
 景色が真っ白。やけに冷え込むと思っていたら、夜の間、外ではしっかり雪なんてものが降っていたらしかったのだ。全然気が付かなかった。十センチは確実に積もっていそうだ。何で俺は、こんなに降った雪に全く気付かないで、黙々と勉強なんかしていられたのだろう。
 雪ってのは、何歳になってもなんとなく嬉しいもので、俺は目の前の銀世界に一人で心を躍らせてみたりした。しかし、心配がひとつある。この雪の中、学校までたどり着けるのだろうか。
 幸い、ばあちゃんが「電車は動いているようだよ」と先手を打って調べてくれていた。普段だったらサボるところだけど、さすがに学年末試験はそういうわけにもいかない。早めに家を出て学校に向かおう。そう思って、俺はいつもよりも三十分も早く家を出た。
 ところが、俺の心配と気合をよそに、電車は恐ろしくスムーズに動き続けてくれて、おかげで俺はバカみたいに早く学校に着く羽目になってしまったのだった。

 学年末試験の日に、一番乗りで教室に着くなんて、すげえ張り切ってるみたいでカッコ悪いなぁ、などと思って一人で照れながら、俺は教室のドアを開けた。
 「お、ヤスオ!」
 せっかく一人で照れていたのに、ちっとも一番乗りじゃなかった。
 教室には、俺より早く着いているマモルがいたのだった。奴は学校から自転車で十分ほどの所に住んでいて、自転車が徒歩に変わるくらいの不都合はあるかもしれないが、交通機関の心配なんてあり得ない。ということは、わざわざ早起きして一番乗りで学校に来やがったのか。
「どうしたの、珍しく早いじゃん」
 マモルは満面の笑みで俺を迎えてくれる。屈託のない笑顔というのは、こういうものを言うんだろうと、コイツの笑った顔を見る度に思う(これが、マモルがクラスの女の子たちから密かに『癒し系』なんて言われている理由にちがいない)。
「見ろよ、アレ」
 マモルはそう言って、教室の窓の外にある中庭を指さした。何かと思ってみてみると、そこには小さい雪だるまが遠慮がちにたたずんで、こっちを見ているのだった。
「はぁ?」
「すごいだろう!」
「マモル、おまえまさか、アレ作るために、こんなに早く来たのか?」
 半分呆れて言った俺に、「そうだよ」などと、素直に答えるマモルは、本当に純粋な人間なのだと思う。俺はその純粋さを馬鹿にする代わりに、言ってやった。
「バーカ、どうせやるなら、あの三倍ぐらいでけえの作れよ。俺も手伝ってやるから、みんなをびっくりさせるようなやつに作り直そうぜ!」
 かくして俺は、徹夜した体を雪の中働かせる運命を、自ら選び取ったのだった。

 途中でリョウジも雪だるま作りに加わった(奴はいつも来るのが早い)。三人の男の手によって、作業は思いのほか早く進んだ。そして、クラスのみんながぼちぼち教室に入ってくる頃には、本当に当初の三倍もある、俺たちよりは少し小さいけれど、女の子の身長くらいはありそうな大きな雪だるまが完成したのだった。コウイチがまだ来ていないのをいい事に、俺たちはその雪だるまにコウイチという名前を付けた。木の枝や小石を拾ってきて、コウイチに似た顔まで作るという懲りよう。これがまた妙に似ているので、笑いが止まらない。
 やがてミカやヒサノがやってきて、「すごい! 誰が作ったの?」などと感嘆の声をあげた。隣の教室や、二階や三階のベランダからも、コウイチ雪だるまは注目を浴びているようで、歓声が上がっている。
「コウイチよりも、雪だるまのほうが女の子にモテてるな」
 リョウジがにやにやしながらそう言って、俺とマモルは賛同した。雪はまだ降り続いていたけれど、身体も心も割と暖かい。
 と、そこにようやくコウイチが教室に駆け込んできて、雪だるまの横で得意げな顔をしている俺たちを見つけた。
「おお、すげえ! これ、おまえらが作ったのかよ?」
 来るなり興奮状態のコウイチに、リョウジが冷たく言い放つ。
「これからは、おまえの代わりにコイツが俺たちの仲間だ」
 ミカやヒサノに混じって、いつの間にか来ていたユミコとアユミも、それを聞いてキャッキャと笑う。
「おまえよりも人気者だぞ」
 マモルがそう言うと、コウイチは突然中庭に飛び出して、何をするのかと思ったら、雪玉を作り、「くそう」と叫んで俺たちのほうに投げてきたのだった。
 その玉はリョウジに向けられていたのだが、リョウジは軽くよけてヘラヘラした。その間に俺が密かに作った雪玉を投げると、これがコウイチの頭にうまい具合に命中した。女の子たちの笑い声が高らかに響く。コウイチは顔を真っ赤にして、ムキになって当たらない雪玉を作っては投げてきた。
「雪合戦だぁ」
 叫んだのはユミコだった。ミカを連れて、中庭に出てきたと思ったら、早速俺をめがけて投げてきやがった。ミカはそれを見て大笑いした。
 その騒ぎに、隣のクラスやら、そのまた隣のクラスからも、どうやらウズウズして見ていた奴らが飛び出して来る。いつの間にかクラス対抗の雪合戦が始まった。初めはおとなしそうに見ていたアユミとヒサノを始め、最近勉強づくしでストレスのたまっていたクラスの連中が、どんどん中庭に出てきて、D組の加勢をする。
 クラスの奴らが、こんなに大きな声で笑っているのを久しぶりに聞いた。雪玉をぶつけたりぶつけられたり、子供のようなその遊びが、こんなに人を夢中にさせるということを、ずっと忘れていたのだと思う。
 隣のクラスどころか、二階のベランダから見ているだけだった二年生なんかも、上から雪の塊を降らせて来る有り様。肩に自信のあるリョウジが、二階に攻撃を仕返したら、見事命中した。
 見ろよ、この実力の差。圧倒的に俺たちD組が優勢だ。この勝負、貰った!
 と。
 俺たちが調子に乗ったその瞬間。
「こらぁ、テスト始まるぞぉ、いつまでも遊んでるんじゃない!」
 氷柱のように冷たく鋭い担任の声が飛んできて、皆ハッとして動きを止めた。

 気付けばぐしょぐしょに制服の裾を濡らしていた俺たちは、しょんぼりして教室に戻り、席に着いた。徹夜して覚えてきた地学の用語なんて、もうすっかり頭から消え去っていた。配られたテストの問題用紙を、めくる前に裏から透かして見たけれど、とてもわかりそうになかった。
 テストを受けている最中、雪がいつの間にか止み、空はだんだん明るくなっていって、ほんの少しだけど、陽が射した。ほんの少しの陽に照らされたコウイチ雪だるまの頭は、ハゲたオッサンの頭みたいに、テカテカと光っていた。
 情けないなぁ、と俺は思う。アイツ、溶けるためだけにこんな所に生まれてきちまってよ、かわいそうだよなぁ。
 結局ほとんど解らなかったまま、地学のテストの時間は終わってしまった。次の時間は受験科目でもある日本史だ。一応は、それなりに勉強している科目だから、今さら詰め込むこともない。
 俺は休み時間のあいだ、教科書もノートも一度も開かないままで、ぼんやり雪だるまの行く末を考えていた。

 地学と日本史の二教科で、今日のテストは終わりだった。明日は数学と古文のテストだったが、みんなそんなことを忘れていつまでも教室に残っていた。
 よく考えてみると、この地域ではそう滅多に雪が降るわけでもない。雪だるまを作れるような雪が降ったのなんて、三年ぶりぐらいの出来事じゃないだろうか。もう晴れてきている空を見ると、明日には多分、この雪ももう溶けきってしまっているのだろう。そして、あの雪だるまも、あれだけ大きいからすぐに全部溶けきってしまうことはないだろうけれど、ただの汚い雪の塊と成り下がってしまうのだ。

 「ちょっとさ、アレ日陰に移さない?」
 俺がそう提案すると、リョウジは面倒くさがって大反対した。
「どうせ雪だるまなんて、初めっから溶けることが決まってるんだからさ」
 そうはいっても、せっかくあんなに一生懸命作ったんだ。マモルなんか、必要以上に早起きして来たんだぜ。そう簡単に溶けてたまるかよ。
 俺は一人で勝手に雪だるまを移動させようと、外に出た。マモルが遅れてきて、「やるよ」と言った。
 クソ重たい雪の塊を、上部と下部とを分けて丁寧に運んだ。少し欠けてしまったところもあったけれど、まあだいたいは形をとどめたまま、それは絶対に陽の当たりそうにもない化学実験室の脇の壁に寄りかかるように立てられた。何となく、マモルと二人で「よし」などと言いながら、自己満足した。
 教室に戻ると、ミカとユミコが俺たちを待っていて、「よくやった」「お疲れさま」などと言って迎えてくれた。ヒサノとアユミは、雪で濡れたスカートの裾をストーブで乾かしているところだったが、帰ってきた俺とマモルを見つけると、「本当にいい人だね」などと褒め称えた。
 いい人だって? 俺は人間として当たり前の感情に、素直に従っているだけだっての。後に残るのはちっぽけな自己満足だけだぜ。立派なものなんて何にもない。そんなことばっかりやってるから、勉強にも何にもちっとも身が入りゃしないんだ。いい人だなんて言われたって、良いことなんか何一つないんだよ。
 だけど、そのちっぽけな自己満足さえあれば、大学なんて行かなくったって、いや、行けなくったって、とりあえずは幸せに生きて行ける気もするけどな。