カラーズ7




潮なつみ






   七、マモル

 今年の大学受験において、とうとう僕は、たったひとつも合格に至らず仕舞いだった。そして、その事は、僕に少しの落胆と、大きな安堵をもたらした。
 僕は、大学で専攻したいことがあるわけではない癖に、行きたい大学がある。明確にある。学部など、正直言ってどこでも良いと思っている。
 これは、クラスの仲の良い奴らも知らないことだけれど、実は、僕は子供の頃に児童劇団に入っていた。多分、親の意向で。そして、ようやく演劇の面白みが解り始めた頃、確か中学に入るとほぼ同時だったが、今後のことを考えて退団した。これも、親の意向で。
 中学や高校の演劇部には、入るような気にはならなかった。けれど、演劇に対しての興味が薄れたというわけでもなかった。元々、劇団で一緒に演っていた仲間たちの舞台を、付き合いで観に行くうちに、一人で大小さまざまな劇団の舞台を見に行くことが、自然と習慣になっていた。
 大学の学園祭などは、廉価で(時には無料で)意外と面白い舞台を観ることができる好機なので、当然、好んで足を伸ばした。そして、とある大学のとある演劇サークルに、僕はいわば一目惚れをしてしまったのだ。何が良かったのかは巧く言葉で説明できないけれど、今まで見たすべての劇団の中で、一番気に入った。観ているだけでは物足りず、あの一員になってみたい、と思わせるものがあったのだ。だから、とにかくその大学に入ることから、すべてが始まるような気がした。
 とは言え、僕にも迷いがあった。プロの俳優になる気はさらさら無いし、今の自分にどれだけのことが出来るのかも解らない。演劇も、やってみたら意外と面白くないかもしれない。そんなとき、大学で勉強していること自体に興味がもてなくなったら、そこから先はどうすればいいのか。
 あり得ない展開ではない。だから、僕は二の足を踏む。そんな心の迷いが、ダイレクトに形になって現れたのが、「受験全滅」の称号なのだ(もっとも、全滅したのは僕だけではないのだが)。
 折角だから、僕はもう一年くらい、ここで悩んでいようと思う。
 そんなことを改めて思いながら坂を登ると、三分咲きの桜が目に入った。明日から四月になるのだから、早くも遅くも無い。例年通りのスピードで、彼らは春を表現し始めている。
「三年前、私たちが入学したときも、このくらい咲いてたっけ?」
 ミカが、桜に向けてカメラを構えながら言った。大仰なレンズをつけている格好が、何となく可愛い。
「もっと咲いてたかなあ」
 僕は、自分に言い聞かせるように答えた。
 三月の最後の朝。学校は、もうほとんど新しい年度を迎える準備を終えているようだ。

 やっぱりもう一度、あの壁画を見に行こうよ、と誰かが言い出した(アユミかミカが、大学に入学する前に、とでも言い出したんだろうと思う)。僕ら浪人組は、もう予備校の授業が始まっていて、早くも受験生になりきっていたのだが、その誘いには、乗らないわけにも行かなかった。
 僕らは駅で待ち合わせたけれど、そこから学校までは、決して一列になって仲良く歩いたりせず、それぞれが自分のペースで校門まで歩いていった。校門までは、割と急な坂が長く続いているので、自分のペースで無いと辛いというのもあるけれど、みんなで足並みをそろえるよりも、好き勝手に歩くほうが良いから、そうしているのだと思う。
 と、校門までラスト五メートル地点で、急にユミコが大声で叫んで、走り出した。
「私が一番に見るぅっ!」
「あっ、お前、抜け駆けするなよ!」
 リョウジも負けじと走っていってしまった。なかなかお似合いだ。僕らの中から生まれた一つのカップルを、半分微笑ましく、残り半分は妬ましく思いながら、僕は彼らの後姿を見つめていた。少し前方には、ミカとアユミが、コウイチをからかいながら、大笑いして歩いている。僕は、ヒサノやヤスオと彼らの後ろ姿を拝みながら、あいつら元気だよなぁ、などと言って、ゆっくりと桜を見物しながら歩いた。
 例の壁は、学校の中でも奥まった場所にあり、裏から回らないと見えないようになっていた。だから、僕らはなかなかその異変に気付くことが出来なかった。かなり近くに行ってようやく見えたのは、リョウジとユミコが、壁の前に棒立ちになって、沈黙している姿だった。妙な緊張感。表情が無い。声も無い。僕が不思議に思ったとほぼ同時に、アユミとミカが、ただ事ではなさそうな雰囲気を察したらしく、壁まで駆けて行く。
 アユミは壁を見上げて、一息を置く間もなく、叫んだ。
「どうして?」
 その声は、静かな学校には恐ろしいくらい響き渡ったけれど、その質問に答えてくれる声など、どこからも現れない。
 僕らがそこに着いた時には、他の五人はすっかり硬直していて、僕は、まるでおかしな空間にでも取り残されてしまったような気分になった。
 僕は、あらためてその壁を仰ぎ見た。

 壁の落書きは、きれいに消えていた。
 よくよく見ると、絵を消されたわけではなく、単純に上から壁の塗料を塗り替えられたために、その部分はまったく綺麗な新品の壁のようになっている。
 しかし、そんなことに気が付いたって、仕方が無かった。所詮僕には何も出来ないので、結局は皆と同じように、馬鹿みたいに呆然とするだけだ。
「チクショウ…」
 リョウジが一番初めに、これは夢じゃなくって現実なんだと気付いたようだった。彼は、ただ悔しそうに春の土を蹴り上げた。湿気と温度を持った土特有の匂いを、かすかに鼻に感じた。
 その次に、ミカが大きくため息を吐いて、力なく「あはは」と笑った。それから、コウイチが静かに、コンクリートの上に座り込んだ。アユミは、さめざめと大きな涙をこぼして泣き始め、ユミコはただおろおろと、迷子のような不安げな表情をした。ヒサノはただ、じっと黙って何かに耐えているような顔をしていた。
 僕は、そんな皆を見て初めて、『悲しい』と思った。
 「ま、しょーがねーじゃん、元々ちょっとしたイタズラだったんだし」
 ヤスオが、とにかく場の雰囲気を和らげようとして、そんな事を言った。
 「悔しくないの?」
 アユミは、泣き声でヤスオを責めた。彼女も別に、彼を責めたくて責めている訳ではないのだ。ただ、どこに怒りをぶつければいいのか、解らないだけだ。それを知っているからだろうけれど、ヤスオは憮然とした表情で「そりゃあ、悔しいよ」とだけ言った。
 また皆が沈黙した。
 しばらくそうして時間が経った。恐ろしいほど重苦しい時間だった。
 初めこそ、悔しさやら悲しさやらで、誰もそこを動けなくなっていたのだろうけれど、それにしても、この場の空気は重過ぎた。いつも笑って過ごしている僕には、とても耐えられない。きっと皆にとっても同じなのではないだろうか、と思った。皆はただ、この空気を蹴散らしてくれる何かのきっかけを待っているのではないかと。
 だったら、僕でも良い。おちゃらけた役を買って出てやろう。ちょっとした演技。
「なあ、ここにいてもなんだから、教室にでも忍び込もうよ」
「そうだな、行くか」
 真っ先に、リョウジが反応した。さすが、気持ちの切り替えの速さが違う。
「でも、鍵があいてないんじゃないの? どうやって忍び込むの?」
 ミカは冷静を装ってそんな事を言ったけれど、すっかり「忍び込む」という言葉の響きに好奇心を示している。
「まあ、任せとけ」
 僕の言葉を合図に、リョウジとミカと、リョウジに引っ張られながらユミコが立ち上がった。後の四人も、少し遅れてのろのろと後を付いてきた。
 教室の窓は簡単に開いた。一つの窓の鍵が緩くなっているので、ガタガタガタと少し揺すれば、脆くも鍵が外れてしまうのだ。これは、夏休みに学校に忍び込もうとした僕とリョウジが二人で偶然発見した方法だった。他の六人は、それを見て驚いたり喜んだりして、もうすっかりはしゃいでいた。まずは、僕が空いた窓から忍び込んで、中からベランダの出入り用の大きな窓を開けてやった。皆、無事に忍び込むことに成功した。

 教室は、だけど空っぽだった。
 一年間、僕らを拘束した場所のくせに、そこにはもう思い出すら染み込んでいないかのように、ただきれいに磨かれた床に、机と椅子が並んでいるだけの空間になってしまっている。
 僕らが初めてこの教室に送り込まれた時も、こんなふうだったかなあ、と思い出す。僕らはこの大きな空白に、いつの間にか、皆で色々なものを描いていたのだろう。そして、あの壁の落書きと同じように、それらは消され、この場所は新品のように綺麗になって、また誰かがその空白を埋めるように、色を乗せるに違いない。
 皆は、僕と同じように、このリセットされた教室を見ていた。あるいは懐かしんでいたのかもしれない。
「なんだか、申し訳ないなぁ」
 ヒサノがそう言って靴を脱いだ。そうだ、こんなに磨かれた床に、土足で忍び込むのは悪いな。僕たちはヒサノに続いて、黙ったまま皆で靴を脱いで、ベランダに並べた。

 それから僕らは、誰からともなく、それぞれ自分の席だった机に座った。そこから見た教室の風景は、見たことがあるようで、見たことがなくて、悲しい気持ちになった。
 ミカが頬杖をついた格好のまま、鼻歌を歌い始めた。別にそれに聞き入るという訳ではなく、僕らは静かにミカの歌を教室に響かせた。ミカは何を考えているのか、いつもああやって何かしらの歌を口ずさんでいて、時には授業中にも小さく聴こえてくることがあったのを思い出す。
 アユミは、授業中によくそうしていたように、窓際の席で窓の外をぼんやりと見つめていた。どこに視点を合わせている訳でもないあの危なげな眼に、多くの男が騙されるんだと力説していたのは、ヤスオだったっけ。
 ユミコも、いつものように机に突っ伏して、居眠りのポーズだ。どうしてそんなに眠いのか知らないけれど、よくああやって寝ていた。一日中寝ていた日もあった。
 ヒサノは、姿勢正しく座って、きちんと前を見ている。他の皆のように居眠りをしている姿なんて、決して見せたことが無い。毅然と。
 コウイチは、落ち着きなくきょろきょろしたり、貧乏揺すりをしている。いつもそれで複数の教師に怒られていたのに、結局その癖は、ちっとも直らないままだ。
 ヤスオは一番前の席で小さくなって座っている。アイツは席替えをするたびに、運悪く最前列の席になってしまっていた。折角の長身なのに、いつも「黒板が見えない」という苦情を背負って、すっかり猫背になってしまったようだ。
 リョウジは、机の上に突っ伏している。だけど、それは居眠りのポーズではない。あいつは、居眠りをするときには、もっと堂々と眠る奴だ。今、リョウジの手はきつく握り締められていて、少し震えていた。色んな思いが渦巻いているんだろう。そっとしておいてやろう。
 僕も、いつもと同じポーズだ。僕は、いつもこうして皆のことを観察して、それを楽しんでいた。皆、それなりに我が強くて、自分だけの世界を持っているのに、違う世界を持っている人が気になってしょうがなくて、触れ合ってぶつかり合っては、負けるもんかと頑張っている。
 そんな皆を見ているのが、僕は好きだった。

 不意に、ミカの鼻歌が途切れた。それに対しては誰も何の反応もしなかったけれど、僕だけが、ミカを振り向いた。
 彼女は、音もたてずに、大きな涙をこぼして泣いていた。
 それは、悲しみの涙でも悔しさの涙でもないように思えた。なんて言うか、それは浄化の涙なのだろうと思う。さっぱり洗い流して、新しい世界に足を踏み入れるのだと感じさせる、そんな意志のある涙。
 それを見ていたら、僕はようやく、卒業とは皆と離れる事なのだという自覚が湧いてきて、何となく目が潤んだ。それとほぼ同じ瞬間に、アユミがしゃくりあげた。
 皆そうやって、浄化していけばいいのだと思う。
 しばらく僕たちは時間すらも止めるように、そこで止まっていた。

 どの位時間が経ったのか、解らなかった。五分くらいだったかもしれないし、一時間くらいだったかも知れない。とにかく、はじめにミカが沈黙を壊してため息を吐いた。「あーあ、机の落書きも、きれいに消されちゃってるなあ」
 そういえば、彼女の机はいつも落書きでいっぱいだった。
 僕はミカの一言を合図に立ち上がって、フラフラと教室の四方八方を点検するように見回った。皆もなんとなく、色々見たくなったのだろう。席から離れて、教室の中を物色し始めた。
「黒板の隅っこのほうまで、見事にきれいになっちゃってるんだあ」
 ユミコが、きれいに拭かれた黒板を指で触りながらそう言った。
「ここにあったマンガとか、捨てちゃったのかよ、もったいねえな」
 ヤスオは退屈そうに空っぽになった本棚を軽く蹴った。勿体無いも何も、クラスの半分以上が毎週読みまわしていたヤンジャンは、かなり高いコストパフォーマンスを誇っていたし、大体もうボロボロでゴミ以外の何物にも見えなかったのだけれど。
「綺麗になりすぎて、落ち着かないよね」
「むしろ、あんなに汚い場所で、よく一年も過ごせたよな」
「誰かが鼻をかんだティッシュが、いつも床に落ちてたもんね」
「汚いわよね」
 そんなことを言いながら、みんなでコウイチに注目する。鼻をかんだティッシュを床に置いていたのは、まさにコウイチだったからだ。彼がアレルギー性のひどい鼻炎で困っていることは勿論知っていたので、皆、内心は『仕方ない』とは思っているのだが。
 皆の視線を集めたコウイチは、オドオドしながら言った。
「あ、トランプでもやる?」
 突拍子もなく、ここぞとばかりにジーパンのポケットからトランプの箱を取り出すコウイチに、皆が笑った。
「ばか、何でトランプなんか持ってきてんのよぉ」
 すっかり感傷に浸っていたアユミも、さすがに吹き出してしまって、調子の狂った涙声でコウイチに突っかかった。コウイチは「まあ、こんなこともあるんじゃないかなと思って」などと、自慢気にトランプを切り始めた。
「せっかくだから、良いじゃない。ここで最後の思い出を作って行こうよ」
 ヒサノの一言で、皆も「なんで教室に忍び込んでまでトランプをやるんだ」などと口々に文句を言いながらも、ひとつの机のまわりに椅子を寄せて集まった。
 僕もその輪に加わろうとしてふと見ると、まだリョウジが窓際の机に座って憮然とした表情をしている。まったく意固地な奴。仕方ないから、声をかけてやった。
「リョウジ、やろーぜ」
 リョウジは憮然とした表情をしたまま、こちらの方を向いて、あまり口を開かずに「ああ」と返事をした。のろりのろりと立ち上がって、近づいてくるその様に、僕はつい笑ってしまった。
「なんだよ」
 まだ憮然とした表情のリョウジが突っかかってくるので、僕は言ってやった。
「いつまでも泣いてるなよ」
「泣いてねえよ!」
 僕の言葉に、顔を紅くして、必要以上にムキになって反論するリョウジの姿があまりにも面白いので、皆も乗ってきた。
「やだぁ、リョウジ、泣いてるの?」
「さあ、涙をお拭き」
「大丈夫よ、私たちがついてるから、安心しなさいね」
「だから、泣いてねえってば。大体、さっきまで泣いてたのはお前らのほうだろ!」
「まぁったく、リョウジはすぐ感情的になるんだから、ねえ」
 ユミコが僕に相槌を求めたので、僕は「本当、迷惑するよな」と答えた。皆は笑ったけれど、リョウジだけは悔しそうな顔をして、コウイチからトランプを奪い取って、がむしゃらに切りはじめた。
「くそう、最後の勝負、絶対負けねえ」
 一生懸命トランプを切るリョウジを指さして、「ね、感情的でしょう?」とユウコがとどめを指すのも、微笑ましかった。
 からかいの集中攻撃をされてしまったリョウジも可哀相な気もしたけれど、まあいいだろ、少しくらい。
 だってこれは、僕らのエピソードを悲劇ではなく喜劇にするための、ひとつの演出なのだから。