君と僕とのディスタンス

―祐介の場合―


佐藤 由香里







 俺はいつも葛藤の中で生活している。好きな女に好きと言えないもどかしさってやつは、どうしてこんなにも苦しいんだろうか。

「私のこと、好き?」
 ベッドの中で梨花がそう聞いてきた。
 ああ、好きだよ。大好きだ。でも俺はそれを彼女に言うことが出来ない。仕方がないのでいつものようにこう答えた。
「さあ。」

 梨花はとても甘えんぼうで、俺にいつもそう聞いてくる。俺はそんな彼女がかわいくて仕方がなくて、思わず抱きしめたくなるのだけど、だめだ。梨花に好きだという気持ちを正直に伝える勇気は、今の俺には無かった。
「ねえ、どうなのよぉ。」
 ああ、そんな風に上目遣いで見つめられると弱い。
「あのなあ、お前しつこい。」
 俺はそう言って梨花に背を向けた。危なかった。抱きしめたい衝動を抑えて、俺はそのままじっとしていた。

 数分後、梨花が眠ったようだ。俺のパジャマの裾を握り締めてすうすうと寝息を立てている。俺は梨花が起きないことを確認して、そっと彼女の唇にキスをした。寝ている時でないとこういうことが出来ないというのはとても辛い。俺はちっとも眠くならなかったので、梨花の髪を撫でながら思い耽っていた。いつまでこんな自分を続ければいいのだろう。梨花に本当のことを言えない臆病な自分を、どこでどう変えればいいのだろう。本当は梨花が甘えてくる時にそれに応えてあげたいと思っている。俺だって好きで冷たくしてる訳じゃない。ただ怖かった。彼女を失うかもしれないことが、ただ怖かっただけなのだ。

 恥ずかしい話だが、俺は恋愛経験がほとんどない。だから女の子と付き合うのがとても下手なのだ。付き合った人数は梨花も入れて3人。しかも梨花の前の2人に関しては良い思い出が全く無く、過去の経験がトラウマとなり、それが今の俺を演じさせている。

 初めて付き合ったのは高校3年生の時。1つ年下の部活の後輩だった。すごく甘えんぼうで、いつも俺に「愛してるって言って」とねだってきた。俺はそいつのことを本当に愛していたので、彼女の要求には全部応えていた。真夜中に会いたいと言われればすぐに自転車に乗って彼女の家まで向かったし、欲しい物があると言われたらバイトをしてお金を貯めて何でもプレゼントした。ところが実は、彼女は俺以外の男とも付き合っていた。要するに二股だ。彼女を問い詰めると本命は向こうだと言うのだ。あなたは私の言うことを何でも聞くからつまらない、と。そう言われて俺はボロボロにされた。

 次に付き合ったのは大学2年生の時だ。同じバイトの女の子に告白されて、本当の所は別に何とも思ってなかったのだけど、長期に亘るものすごいアプローチに押されて、結局妥協した俺は彼女と付き合うことにした。ところが付き合いが深まって行くうちに俺の方がどんどんはまり、それと反比例して彼女の心は徐々に俺から離れていった。彼女が男を落としたら満足する性格だったのだと友人から聞いたのは、俺が彼女に振られてから数ヶ月経ってからだった。

 俺が梨花にそっけなくしてしまう理由はそこにある。彼女は俺が過去に付き合った女2人の要素を両方とも持っているのだ。
 1人目の女のようにやたら好きという気持ちを確認したがる。俺は「さあ」とか「別に」とか、とにかく自分でも本当にそっけないなと思いながらそう答える。それでも何度も何度も彼女は聞いてくる。「私のこと、好き?」と。
 そして2人目の女のように何かを手に入れるとすぐに満足する。恐らく手に入れた瞬間に納得してしまうのだろう。梨花はよくDVDやCDを買ってくるが、まだ袋から出さずにいるものがたくさんある。買った時点で満足してしまって、せっかく手に入れてもそのまま放り投げたまま手を付けようとはしない。
 俺が思うに、梨花はきっと好きな男を追いたい女なんだ。そこで俺が好きだと答えようものなら1人目の女の二の舞になりかねない。俺が梨花の手中に納まってしまったら2人目の女のように豹変しかねない。それが怖くて、もうあの時のような思いをしたくなくて、俺は自分の気持ちを偽ったまま梨花にそっけない態度を取っている。
 でも本当は自分でも解っている。馬鹿なことをしていると。それでも俺はその意志を曲げようとはしない。そう、梨花を安心させてはいけないのだ。


 午前3時。いつの間にかこんな時間になっていた。睡魔はまだ襲ってこない。明日は土曜日で仕事は休みだし、このまま起きてても眠れそうにないから何かビデオでも見ようか。そう思ってベッドから出た。振り向くと梨花はシーツを握り締めて心地良さそうに眠っている。俺のパジャマの裾と間違えてシーツを握り締めているんだろうか。俺は捲れている掛け布団を梨花の体に掛け直して寝室を出た。

 冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出しリビングに向かうと、テーブルの上に出しっぱなしになっている袋に目が止まった。袋には本屋の名前が印刷されている。きっとまた梨花が買って来たまま放っているのだろう。見てみると、テープはきれいに貼られている。梨花のやつ、買ってからまだ開けてもいなようだ。全く彼女らしい。この厚さからするとかなり読み応えのある長編みたいだ。丁度いい。どうせ眠れないんだから、この本を読むことにしよう。俺は袋を開けて本を取り出した。

「君と僕とのディスタンス」

 それがこの小説のタイトルのようだ。あらすじによると、どうやらこの本は遠距離恋愛をしている男女の話らしい。

 俺が言うのもなんだけど、梨花の選ぶものは、本にしろ音楽にしろ映画にしろ、どれを取ってもセンスがいい。梨花はそれらをいつも買ったままほったらかしているので大抵俺が彼女の許可無く先に手を付けるのだが、今まで外れだと思ったものはまず無い。ただ俺は女作家が書く恋愛ものの小説は、何だか甘ったるくてあまり好きではないのだけど、この「君と僕とのディスタンス」という小説は女性の作家が書いているにも関わらず、なぜかいつものような嫌悪感が無く、それどころか早く読みたいという衝動に駆られた。俺は缶ビールを開け、一口飲んでから、表紙をめくった。

 読み始めて5分と経たないうちに、俺は妙な感覚になっていた。この小説に出てくる女は、なんとなく梨花みたいだったからだ。天真爛漫で少しわがままな女と、自分の気持ちを素直に表現できない不器用な男。そしてすれ違ってばかりの2人。
 
 こんなシーンがあった。
 男の誕生日に女がケーキを作った。お世辞にもおいしそうな出来栄えではなかったけど、女は男が喜んでくれると思っていた。でも男は、おいしくないから残してもいいかと言うのだ。女は、あれ?おいしくなかった?と笑った。でも、本当は心の中では泣いていた。女にとっては、男の知らないところでクッキングブックを読み返し、何度も何度も失敗しながら作った初めてのケーキ。その努力と想いを男に感じ取ってもらえなかった女は、その日の夜、泣きながら残ったケーキとクッキングブックを捨てるのだ。
 
 俺は正直言って驚いた。実は、俺と梨花にも全く同じ経験があったのだ。去年の俺の誕生日、梨花がケーキを焼いてくれた時に、俺はその男と同じことを言った。確かに無神経な発言だったと自分でも思う。でも、梨花は別段気にしていないような感じだったので、俺はそれほど気にしなかった。もしかして、梨花もこの小説の女のように泣いたのだろうか。それを考えると胸が痛んだ。
 いつも俺の隣で微笑んでいる梨花は、本当は俺の知らないところでたくさん泣いているのではないか。俺は自分の身かわいさに梨花にいつもあんな態度を取っている。でも、それによって作られる梨花の胸の傷の数は、実は俺が考えている以上なのだとしたら。
 今のままの自分を続けることは梨花も、もちろん自分自身も辛いだろう。かといって過去のトラウマを一夜にして消し去ることも不可能だ。それに、いきなり俺の本心を曝け出すのは随分と不自然だろうから、少しずつ、少しずつ、俺が梨花を大切に思ってる気持ちを出していくことにしよう。そして最終的には愛してると囁いて梨花を抱きしめられるようになろうと思った。

 3分の2を読み終えたところで、俺は既に外が明るくなっていることに気付いた。時計を見ると6時前。もうこんなに時間が経っていたのか。それを知ると、急に体中の細胞が休息を求め、まぶたが重くなってくる。続きはまた今度読むことにしよう。ただ、今から寝たとしても、きっと梨花は目が覚めると無理やり俺を起こしてどこかに行こうとねだるだろう。時間がゆっくりと流れる平和な休日を過すのもいいけど、最近梨花と出掛けていなかったし、たまには2人でどこかに行くのもいいかもしれない。
 俺は本を袋の中に戻して寝室に戻った。梨花は数時間前に見た状態と変わらない体勢でシーツを握り締めたまま寝息を立てている。
「おやすみ、梨花。」
 俺は梨花の唇に軽くキスをしてベッドに潜り込み、そして目を瞑った。
 

 眠りについてどのくらい経ったのだろう。遠くの方で不快な電子音が耳をつんざく。なんなんだこの音は。朦朧とした意識の中でその音の正体を手探りで調べると、手に何かが当たり音が止んだ。手の中には携帯電話が握られている。電話の着信音だったのか。誰だよ、俺の安眠を妨害するやつは。俺は不機嫌さを露わにして電話に出た。
「・・・誰?」
 電話の向こうからは、俺のテンションとは天と地ほどの差がある、やたら明るい声が聞こえた。
「おう祐介!俺だよ俺!今何やってたんだよ。」
 おいおい、寝起きなのに勘弁してくれよ。
 声の主は、高校、大学とずっと一緒だった悪友の健一だった。こいつとは大学を卒業して離れ離れになった今でもこうしてたまに連絡を取り合っている。
「あー、寝てたよ。つーか何だよお前、こんな朝っぱらから。」
「おい祐介、お前寝ぼけてるのか。ちっとも朝じゃねえぞ。」
「えっ。」
 時計を見ると3時35分を差していた。休日はいつも梨花が俺を起こして、寝起き早々どこかに行こうとねだるのに。横を見ると、ベッドの隣に梨花はいない。リビングだろうか。ベッドを出て健一と話しながらリビングに向かうと、やっぱりそこにも梨花の姿はなく、その代わりテーブルの上にメモが置いてあった。

 加奈子と出掛けてきます。
 気持ち良さそうに眠っていたので起こしませんでした。
 夕方には帰るね。行ってきます。

 なんだ、出掛けたのか。今日は梨花とどこかに行きたかったんだけど、まあ仕方が無い。加奈子? ああ、梨花と同じ大学のあの子か。何回か会ったことがあるけど、顔立ちのはっきりした、まさにイマドキって感じの子だ。

「おい祐介。聞いてんのかよ。」
 健一のその言葉で、俺は現実に引き戻された。
「え? ああ。悪い」
「それはそうと、梨花ちゃんとはどうなんだよ。」
 きた。そろそろ触れられるとは思っていたが。
「ああ、まあ相変わらずだな。」
「相変わらずって、お前まだ彼女にそっけなくしてるのかよ。」
 健一には俺の気持ちを全部話しているから、奴は全て知っている。過去の女のことも、トラウマも、梨花への気持ちも。きっと今日も説教されるんだろう。
「祐介、お前、梨花ちゃんに好きだよって言ってあげたくないのか?寝てる隙にじゃなくて、目の前にいる彼女を抱きしめたくないのか。」
「そりゃあ抱きしめたいよ。」
 健一はいつも俺の痛いところを知ってて突いてくる。
「お前の話を聞くたびに、本当に梨花ちゃんはお前のことが好きなんだって思うよ。」
 それは俺が一番知っている。梨花は本当に俺のことを好きでいてくれてる。解ってるさ。解ってるけど、でも・・・。
「言っておくけどな祐介、過去の2人と梨花ちゃんは違う。お前のトラウマも解るけど、ただそれは梨花ちゃんには無関係のことだ。彼女はお前のことを本当に愛してるんだぞ。お前はどうなんだよ。」
 愚問だ。そんな解りきってること。
「ああ、俺も好きだよ。」
「だったらどうして!」
 健一が熱くなってそう叫んだ。このままではいけないことくらい俺だって解ってる。それでも、俺は・・・。
「実はな健一、俺もちょっと思うところがあってな。梨花にはいずれ俺の過去を全部話そうと思う。ただ、今はまだすぐには・・・」
 そう言った時、後で何かがドサッと落ちる音がした。振り向くとそこには梨花が立っている。まずい、今の話、聞かれたか。
「悪い、そろそろ切るわ。じゃあな。」
「おい祐介、話はまだ・・・」
 健一が何か言っていたが、俺はそれを聞くことなく、素早く電話を切った。とにかく動揺を抑えるのに精一杯だった。もし今の話を梨花に聞かれていたら・・・。俺は何とか平常心を保とうと努めた。
「帰ったんならただいまくらい言えよ。」
 少しきつめの口調になってしまったが、それはいつも俺が演じている通りの自分だったため、梨花は特に何も気付かなかったようだった。
「あ、ごめんね。ただいま。」
 俺に満面の笑みを向けてそう答える。いつもの梨花だ。大丈夫。きっと聞かれてはいない。

 夜が来て、梨花はもう寝るからと寝室に向かった。今日は一日中梨花のことばかり考えていた自分に気付いて実感する。梨花の俺への愛情が確かなことは解っているが、きっと俺はそれ以上に彼女のことを愛しているだろう。そして思った。俺の過去のことも今の気持ちも、全部梨花に話してしまった方がいいんだろうか。ただ、俺のそんな弱々しい所を梨花に見せたら、あいつはどう思うのだろう。今までの俺に対する気持ちを保ってくれるだろうか。

 寝室に入ると、梨花はうつ伏せになって頬杖を付き、何か考え事をしているようだった。ベッドに入り手を伸ばすと、梨花の体はそれだけで過敏に反応した。いつもは我が強くてちょっとわがままな梨花が、ベッドの中では従順な少女へと変わる。細い足を掴んで頭に付くくらいに持ち上げると、梨花の頬は紅潮し、俺の首に回す腕に力がこもった。梨花の中に押し入ると、その吐息は喘ぎに変わり、俺の理性を飛ばした。いつも思う。梨花の体温をこれだけ感じているこの時に、愛してるの一言を囁けたらどんなにいいだろう、と。
 梨花の白い肌はしっとりと汗ばんで俺を包む。波のように押し寄せる快感が何度も何度も襲ってきて俺を飲み込もうとする。もう我慢できない。俺はその射精感に身を任せた。
「んっ・・!」
 俺は梨花の中にそれを放った。俺が大きく息を吐き出して梨花の方を見ると、彼女は肩を動かしながら呼吸を整えていた。梨花の瞳には俺が映っていたが、何だか上の空という感じで、俺のことなど見ていないようだった。
 どうしたんだ梨花のやつ。
 ぼんやりとした表情が気になったが、急に襲ってきた眠気にのせいでそれを中断せざるを得なかった。


 梨花が俺の腕を掴んで微笑んでいる。そして俺が梨花の頭を撫でながら微笑み返す。俺は手を差し出し、梨花はその手を握り締めた。俺は言った。その手を離さないでくれ、と。梨花は頷いて俺を見た。俺は堪らず梨花を抱きしめた。このままこんな風に抱き合っていたいと思った。なあ梨花、ずっと一緒にいよう。そう言って俺は梨花の果物のようなみずみずしい唇にキスをした。
 すぐにこれは夢だと解った。だからせめて夢の中でだけでも、梨花に甘えたかったんだ。
「好きだよ。」
 そう言った途端、梨花の顔が一瞬で曇った。さっきまでの笑顔は消え、俺の顔を悲しそうに見る。そしていきなり俺の服の裾を握り締めてわんわん泣き始めた。
 「こっ、こんなに好きなのにぃ、なんでなのぉ。」
 どうしたんだよ梨花。俺だってお前のことが大好きだ。なのになんで泣くんだよ。
 どうしていいのか解らず、俺は梨花を抱きしめたままおろおろしていた。
 
 
 けたたましいベルの音で目が覚めた。もう朝か。昨日といい今日といい、すっきりしない目覚めだな。ふと時計を見ると、まだ朝の8時前だった。
「・・・おい。なんなんだよ。日曜日くらいゆっくり寝かせろよ。」
 返事がない。
「梨花、お前返事くらい・・・」
 そう言いながら寝返りを打つと、隣に梨花は居なかった。昨晩の梨花の思いつめたような表情を思い出して、俺はリビングに走った。
 テーブルの上に一枚のメモが置いてある。
 
 今までありがとう。
 残っている荷物は処分してもらって構いません。
 さよなら。


 !!
 なんだよこれ!
 どうしてだよ梨花。一体どうなってるんだよ。

 俺は激しく動揺した。俺、何かあいつに言ったんだろうか。あいつが傷付くような酷いことを、そして、この家を出ることを決意させるくらい惨いことを。それとも俺に愛想を尽かせたんだろうか。こんな冷たい男の側にはもう居たくなくて出て行ったんだろうか。

 梨花が居なくなった。寝室に戻ると、彼女のいくつかの服と、通帳、印鑑などの貴重品が無くなっていた。リビングに戻ってくると、テーブルの上に出しっぱなしになっていたあの小説も消えていた。携帯に電話をすると、電源が入っていないというアナウンスが流れた。
 何があったんだよ梨花。もう話もしたくないのかよ。どうして何も告げずにこんな・・・。
 
 その日俺は一日中梨花を探した。梨花の行きそうなところは全て回ったし、家の電話や携帯電話にメッセージが入っていないかどうかマメに確認した。携帯電話にも何度も何度も電話をかけたが、梨花はやっぱり電源を切っているようで連絡が取れない。本当は月曜日に梨花の大学の正門の前で彼女が来るのを待つのが一番手っ取り早いのだろうけど、そんなことをするような男では、結局は梨花の心を俺のもとに呼び戻すのは不可能だろうと思って、それだけはしないでいようと思った。
 思いつく限りの手は尽くした。けれど梨花は見つからない。

 次の日から俺はいつもの生活に戻った。梨花が居ないことを除いて。
 そして俺は知ったんだ。
 一人でする食事がこんなにも味気ないということを。一人で寝るダブルベッドがこんなにも広いということを。そして、梨花の居ない生活がこんなに寂しいということを。
  

 梨花が居なくなって4日が経った夜、健一から電話がかかってきた。
「この前はいきなり電話を切りやがって。連絡の一本も無しかよ。」
 それが奴の第一声だった。
「悪いな。あれからちょっとゴタゴタしてて連絡できなかった。」
 俺の悲壮感たっぷりの絞り出すような声が、健一には伝わったらしい。
「ゴタゴタって、一体何があったんだよ。」
 健一の声色が俺につられて真剣になった。事態はかなり深刻なのだと感じ取ったのだろう。
 あの時すぐに電話を切った理由、次の日梨花が姿を消していたこと、連絡が全く取れないことなど、健一に全ての事情を話した。
「いいか? もし梨花ちゃんが俺とお前の会話を聞いてしまったのなら、喜ぶことはあっても悲しむことは無いはずだ。お前の気持ちはきちんと彼女に向いているって話題だった訳だから。だから、何か他に思い当たることは無いのか?」
「あの日の夜、何だか上の空って感じだったんだ、あいつ。それ以外は・・・解らない。身に覚えがないんだ」
 俺はあの日のことを鮮明に思い出そうとした。でも思い浮かぶのは健一に話したことだけだった。
「やっぱり、お前がそっけない態度ばかり取るから苦しかったんじゃないのか?」
 その可能性は確かにある。それについては全面的に俺が悪い。でも俺は何かが引っかかっていた。だってそんなことは今に始まった話じゃないし、それが梨花が消えた原因だとは考えにくかった。
 俺が考えを巡らせていると、突然健一が思い出したように言った。
「お前、梨花ちゃんと一番仲の良かった子って、どんな子か知ってる?」
「同じ大学の加奈子ちゃんって子だな。彼女の家に居るのかとも思ったけど、なんせ彼女の住所も連絡先も知らないし。大学の近くにあるマンションで一人暮らしをしてるらしいけど、それだけの手掛かりじゃあな。」
「そうか」
 俺と健一は同時に溜息をついた。そして沈黙が続いた。
「まあ、また何かあればいつでも電話しろよ。」
「おう。ありがとな。」
 落ち込んで、気持ちが沈んでいる時に、健一が電話をくれたのは本当に助かった。そして俺のために親身になっていろいろアドバイスをしてくれるのは正直嬉しかった。いつも口うるさかったのも、俺のことを本当に心配してくれてるからなんだと改めて実感した。
 時計を見るとまだ8時過ぎ。もう暗いとはいえ、まだそんなに遅くない時間だ。ちょっと大学の近くに行ってみようか。梨花とばったりなんてこともあるかもしれないし。
 俺は携帯電話をジーンズのポケットにしまい、財布と車のキーを持って家を出た。
 
 学校の近くにおしゃれなカフェレストランがあった。店の入り口には雑誌で紹介された記事が貼ってあって、昼は窓を開放してオープンカフェにしているということが書かれていた。いかにも梨花が好きそうな店だな。ちょうど腹も減ってきたし、ちょっと寄ってみよう。
 店内に入ると、内装の配色や置いてある小物など、どれもセンスの良い物ばかりだった。メニューを開くとどの料理もおいしそうで、最近あまり食欲がなくてまともに食事を摂っていなかったこともあり、俺の空腹感を一気に誘った。
 梨花と一緒に来たかったな。ああ、この料理は梨花が好きそうだな。
 気が付くと、思い浮かぶことは全て梨花のことだ。やっぱり梨花が居ないと・・・。俺は目を伏せ、メニューを閉じた。
 その時、
 「一人? ここ、いいかな。」
 誰かに声をかけられて顔を上げると、そこには加奈子ちゃんが立っていた。
「か、加奈子ちゃん!」
「駄目だなんて言わせないよ。こっちは言ってやりたいことがたくさんあるんだから。」
 その発言からすると、今回のいきさつを知っているらしい。
「なあ加奈子ちゃん、梨花が君のところに行ってるだろう。会わせてくれないかな。携帯電話もずっと繋がらなくて連絡が取れないんだ。」
 彼女は鼻でふふんと笑って髪をかき上げながら言った。
「さあ、どこに居るんでしょうね。私は知らないけど。そういえば、新しい部屋を借りるとか言って不動産屋を回ってたな。でもさあ、今、もし彼女が私のところに居たとしても、あの子あなたに会いたがるのかなあ。」
「加奈子ちゃん、君が梨花の居所を知らないはずはないと思うんだ。頼むよ。」
 俺は懇願した。とにかく梨花と会って話がしたかった。
「梨花からいろいろ聞いてるよ。いいご身分だね。全く、梨花っていう彼女がいながら・・・。」
「何だそれ。一体どういう意味なんだ。」
 俺にはさっぱり訳が解らなかった。
「そのままの意味よ。梨花を悲しませるような男は私が許さないから。」
 さっきまで余裕たっぷりに微笑んでいた加奈子ちゃんの表情が一瞬で変わり、怒りを露わにして俺を睨みつけた。
「あなた、本当に梨花のこと愛してるの?」
 ストレートすぎる表現に俺は戸惑った。
「それは、その・・・。」
 ここで俺の過去の出来事も、トラウマのことも、全部話してしまえば、きっと彼女は梨花の居場所を教えてくれるだろう。でも・・・。
「ほら、何も言えないじゃない。梨花のことを好きじゃないなら、もうこのまま放っておいてあげて。言いたいことはそれだけだから。」
 席を立とうとした加奈子ちゃんに、俺はしがみついた。
「ちょっと待って。」
 俺はテーブルの上にあったペーパータオルに急いで自分の携帯の番号を書いて、それを彼女に手渡した。
「何かあったら電話をしてくれ。何時でもいい。頼む。」
 加奈子ちゃんに見下ろされながら、俺は黙って彼女を見つめた。我ながらみっともない姿だったが、もうなりふりなんて構っていられない。無言で見つめ合う俺と彼女。
「言っておくけど連絡する保証なんてないからね。」
 先に沈黙を破ったのは加奈子ちゃんの方だった。彼女はふんと鼻を鳴らし、素早く身を翻して去ってしまった。どうやらひどく嫌われているらしい。一体梨花は彼女に今回のことをどう話しているんだろう。さっきまで旺盛にあった食欲は一気に減退してしまったので、俺はコーヒーだけ飲んで店を出た。
 家に帰って考えてみた。さっき確か加奈子ちゃんは、梨花が『新しい部屋を借りるとか言って不動産屋を回ってた』と言っていたな。学校の近くだろうか。それならあのレストランの近くにマンションやアパートがあったから、あの付近かもしれない。梨花を捜し当てる手掛かりが一つ増えた。梨花、部屋なんか借りて、もうここには帰ってくるつもりはないのかよ。


 土曜日。俺は梨花の写真を持って不動産屋を回った。
「こんな女の子見ませんでしたか?」
「この子が部屋を探しに来ませんでしたか?」
 ある者は好奇の目で、ある者は同情の眼差しで俺を見た。その痛いほどの視線が体にぐさぐさと刺さり、俺を怯ませた。それでもここで帰る訳にはいかない。何としてでも梨花を探し出すんだ。

 もう何件回ったのだろう。梨花を見たという人は見つからない。既に日はすっかり暮れ、空は茜色に染まっている。俺は缶コーヒーを買って車に戻った。プルタブを持ち上げて、コーヒーを一気に喉に流し込む。張り詰めていた神経が途端に緩み、突然襲い掛かってきた疲労感が俺の体を支配した。ずっと気が張っていたから、自分でも気付かないうちに相当疲れていたのだろう。
 俺はシートにもたれ、煙草に火を点けた。数時間ぶりに取り込む煙が俺の思考回路を急速に鈍らせる。フロントガラス越しに見える夕焼けの空。梨花も今、この空を見ているだろうか。その鮮やかなオレンジ色が眩しくて、俺は目を瞑った。窓の外に腕を投げ出して煙草の灰を落とすと、人差し指で勢いよく弾いた煙草が、力の抜けた指の間から落ちていった。そして、俺の意識も。
 
 
 遠くの方で、無機質な電子音が俺を呼んだ。意識がふっと戻る。車内のデジタル時計に目をやると、既に真夜中になっていた。ドリンクホルダーに引っ掛けてある俺の携帯電話が鳴っている。もしかすると梨花からかもしれない。俺は慌てて電話に出た。でも、向こうから聞こえてきたのは梨花の声ではなかった。
「もしもし、加奈子だけど。先日はどうも。」
 俺は落胆の色を隠しきれずに、ああ、とだけ言った。でも、先日あんなに怒っていた加奈子ちゃんが、どういう訳か、今夜はやけにしおらしい声をしている。
「ああ、いや、いいよ。それより梨花は・・・」
「今日さ、本当は彼氏のところに泊まる予定で家には帰らないつもりだったんだけど、喧嘩しちゃって、たった今帰ってきたの。それで・・・」
 彼女が何を言いたいのか、最初は解らなかった。
「帰ってきたら、梨花がいないみたいなのよ。荷物もないし。」
 心臓の鼓動が速くなっていくのが自分でも解った。
「それは、もしかして・・・」
「だーかーらー!もう帰ったみたいよ、あなたのところへ。」
 嬉しさのあまり、もう何が何だか解らなくなって俺は混乱した。その様子を電話越しに感じたらしく、加奈子ちゃんは大笑いしている。ちょっと落ち着いてよと彼女に諭され、俺は少し冷静になった。
「でも加奈子ちゃん、この前はあんなに怒ってたのに、どうしてそれを言ってくれる気になったんだ?」
 彼女はふっと笑ってゆっくりと話し始めた。
「ん。本当はね、あれからずっと腹が立ってたよ。でも今日の昼、彼氏と歩いてる時に見ちゃったの。あなた、うちの近くの不動産屋で梨花のこと聞いてたでしょ。」
 うわ、そんな格好悪いところ見られてたのかよ。
「なあ、加奈子ちゃん。頼むから、今日のことは梨花には・・・。」
 俺の心の奥には、捨てたつもりでいたくだらない男のプライドがまだ残っていた。でも彼女は表情を変えずに続ける。
 「私、思ったんだ。梨花のことを本当に大切に思っていなければ、あそこまでは出来ないと思う。梨花とあなたとの間にどんな行き違いがあったのかは知らないけど、あなたたちが愛し合ってるのは間違いないって解ったから電話したの。さあ、早く行ってあげて。きっと梨花は今、あなたに早く会いたくて仕方がないだろうから。」
 加奈子ちゃんにお礼を言って電話を切り、急いで車を走らせた。家までの距離がやけに遠く感じる。

 俺は決めた。ついこの前までは少しずつ俺の気持ちを明かしていこうと思っていたのに、俺は既にそれさえも抑制できなくなっていた。もう過去を引きずって臆病になるのはやめよう。溢れる梨花への気持ちを抑えるのもやめよう。こうなったら、俺の気持ちを全部曝け出してしまおう。
 俺は梨花を好きだからこそ嫌われたくなくて、わざと距離をとっていた。でもそれは間違いだったんだ。歩み寄って、もっと近づいて、それからなんだと。
 信号は全て黄点滅。こんな真夜中、俺の行く先を邪魔する障害物は何もない。アクセルを緩めることなく梨花の待つ部屋に向かう。俺が力いっぱいアクセルを踏むことで、梨花までの距離がどんどん縮まっていく。俺はいつも梨花に対する気持ちにブレーキをかけていた。こんなふうに、びくびくせずにアクセルを踏めば良かったんだ。
 
 駐車場に車を止めると、俺はエンジンを切るのもキーを抜くのも忘れてエレベーターまで走った。全ての時間が長く感じる。エレベーターが一階まで降りてくる時間も、扉が開いて閉じるまでの時間も、動き出すまで時間さえも長く感じた。上で梨花が待ってるんだ。早く、早く、梨花に会いたい。
 チーンと音が鳴ってエレベーターの扉がゆっくりと開いた。すると通路の一番向こうに、玄関の扉の前でドアにもたれて立っている梨花がいた。
「あっ・・・」
 俺の足音に気付き、梨花が顔を上げた。一歩ずつ、一歩ずつ、俺は梨花に歩み寄って行った。

「あ、あの・・・ごめんなさい。私・・・私ね・・・」
 今にも泣き出しそうな梨花。俺はそんな梨花が愛しくて抱きしめた。それと同時に今まで我慢していた感情が次から次へと溢れてきて、俺はもう抑えられなくなった。不覚にも、先に泣き出したのは俺の方だった。
「祐介・・・泣いてるの?」
 梨花がそう言ったが、俺にはもう恥も外聞も無かった。
「お、俺・・・大好きな梨花のこと、本当はいつだってこうやって抱きしめたかった。」
 今まで言いたくても言えなかった言葉。それを初めて口にした瞬間だった。もう全てが色褪せて見える。この世界には俺と梨花しかいないと錯覚するくらい、周りのことなんてどうでもいいと思った。
「なあ、梨花。俺のこと、好き?」
 今まで散々梨花のことを冷たくあしらってきたくせに、俺はどうしてもそれが聞きたかった。梨花の目を見つめながらその答えを待っていると、彼女は悪戯に微笑んで言った。
「さあ。」
 
 
 一人きりでは広すぎたダブルベッドに、久しぶりに2人分の体温が広がった。梨花は仰向けになって寝転んでいる俺に突然覆いかぶさってきて、俺のパジャマのボタンに手をかけた。梨花が自分からこんなことを?ベッドの上ではいつも素直だった、素直すぎた梨花が、こうやって自ら俺を求めてきたのには正直驚いた。でも、頭の中ではそうやって冷静に考えていても、体はちっとも冷静ではなかった。
「なんか今日、いつもよりすごいね。祐介のここ。」
 梨花の卑猥な言葉によって、俺の敏感になっている部分が更に熱を増した。
「あっ。」
 堪らず声が漏れる。梨花の唇は俺の胸を這い、全神経をその部分に集中させる。気を抜いてしまうと大きな声を出してしまいそうだった俺は、高ぶる感情を必死に制御した。
「祐介、声、我慢しないで。」
 そう言って梨花は細い指先で俺の体を弄り、俺の反応を見ながら感度の高い部分を探す。そして特に敏感な部分を見つけると、それまでの柔らかな指の動きは途端に激しくなり、俺に更なる快感を与える。
「うっ、ああっ・・・。」
 俺は崩れそうになる理性の端で考えていた。二人の間に距離なんで要らない。1mmの隙間もあって欲しくない。体だけではなく心も、ずっとこのまま梨花と密着していたいと思った。