真夏のフィルム

(前半)


美咲






 夏がくる。

 そして甘い秘密のフィルムがまたカタカタと私の意思とは関係なく動き出す。幾度となく再生されたその記憶はボロボロになり、もう何を言っているのかセリフもはっきりとは聞き取れないし、登場人物の顔や風景すらぼやけてしまっている。
だけどフィルムがどんなに古びようとも鮮やかに、私はそれを再生する。


 美術クラブの時間は、水曜日の7時限目だった。
内気でやる気が無くて、生徒が騒いでいても怒らない美術教師のそのクラブは大人気で、高校3年にしてやっと入部することができた。成績には関係なく、ただ好きなように絵をかいていればいい。ほっと一息つける大事な時間。
グループで固まっておしゃべりに夢中になっているコも居れば、本を読んでいるコも居る。私は独り、黙々とキャンバスに向かう。
 今描いているのは、ひまわり畑の絵。目がチカチカするほど鮮やかな青空に向かって、伸びるひまわり達。だけど1本だけ背を向けてうなだれているやつがいる。そんな絵。
色を重ねるのが好きだから、油絵にした。キツイ色彩を、なんどもなんども塗りたくる。描いてはつぶし、描いてはつぶし。そうしているうちに4ヶ月かけてなんとか、最後の背を向けた一本を描きおえることができた。
 私はふうっと周囲に聴こえないぐらいのため息をついて、筆を置く。
少し離れて見てみようと思い、窓際の席に座る。遠くから見るとごちゃごちゃしていて、何の絵なのかよくわからなくなった。
分厚いレンズ越しに覗きこんだ世界のような、正体のわからない絵。それは今の私にぴったりの絵だ。
 ひとつ席をはさんで座っていたのは、隣のクラスの沙良(サラ)だった。
彼女は特に美人というわけでもないけれど、すっと伸びた背筋と遠くを見つめるような強い視線が印象的で、友達になりたいと思っていた私は、いつも密かにチャンスをうかがっていた。
特に親しい友達もいないようで、彼女はひとりで居ることが多かった。放課後のひまわり畑や寮の廊下でよくすれ違っていたが、まだ一度も会話をしたことは無い。
沙良はキャンバスには向かわず、窓の外を眺めている。 いや、違う。窓の外の景色ではなく、自分の手の甲をじっと見つめているようだ。
目を凝らしてよくみると、折れそうな白い腕に黒い小さな虫が這っている。
沙良はそれをもう一方の手ですくう。
何度も何度も虫を、自分の手に這わせて遊んでいたのだった。

 興味をそそられて思わず席を立ち、空いていた沙良の前の席に座る。
「私にも頂戴。」
そう言って、人差し指をつきだす。沙良は口の両端を少し上げて笑い、私の手に触れる。その手は冷たくてやわらかくて気持ちよくて、少し震えてしまう。
 黒い小さな虫が私の手の上を必死で這う感触が、くすぐったい。沙良がそれをすくう。それをまた私がすくう。
「なんだか私たちみたい。」
 彼女の声は風の無い日に少しだけゆれる風鈴みたいに、耳の奥に心地よく響きわたる、涼しくて優しい声だった。
何か上手なことを言ってもっと声を聞きたいと思ったけれど、どんな言葉が彼女の心を響かせることができるのか思いつけず、私は少しうなづいた。睫毛が沙良の呼吸にあわせてゆっくりと上下する。
どうしてこんなに長くてキレイなんだろうと思って眺めていると、少し涙を溜めたような瞳が、真っ直ぐに私を捕らえた。
 光に透けるビー玉のような、何もかもを見通してしまいそうな、その真っ直ぐで澄んだ瞳に見つめられた瞬間。つま先から髪の毛の先まで、私は恋に落ちた。教室のざわめきも、照りつける太陽も、背を向けたひまわり畑も、狂ったセミの声も、なにもかもが消えて私の世界は沙良だけになった。
 目も耳も鼻も感覚も、全ての神経が沙良だけに向かい、自分の身体が少しでも多く沙良を感じようとしているのがわかった。キインと、強い金属音が耳の奥で鳴って、消えた。何かを知らせるサイレンみたいに。 これは恋だ。恋だ。
同性を好きになってしまったことに対する罪悪感や嫌悪感を抱く隙間も躊躇もなく、ただ身体中をぐるぐると恋、という文字が走り抜けていった。


 隔離されたその学校を、そこに通う生徒たちは「監獄」と呼んでいた。
洒落たお店のひとつも無く、あるものといえば土手沿いにずっと続く散歩道と、かすかな風にゆれると波のような音がする、見渡す限りの田んぼと、畑。
全寮制の女子高だから、ひまつぶしに恋愛というわけにもなかなかいかない。
ここを出て行く日を夢見るだけの、吐きたくなるほど平和で何も変わらない日々。それもあと半年で終わる。そう思って耐えていたつらいだけの日常だったけれど。
 沙良に恋をしたその瞬間から、私の一秒ごとは宝物になった。
会えない時間は、沙良が言ったコトバの全て、目に焼き付けたしぐさのひとつひとつを思い出してはドキドキしていたし、会っている時間はそれらを全て覚えようと必死だった。
私は、沙良に夢中だった。時間の流れが残酷なほど速かった。
 高校最後の夏休み、他人のような家族のもとに帰る気にはなれず、受験勉強を言い訳にして沙良と一緒に過ごすことにした。沙良も何か帰りたくない事情があるようだったけれど、私たちはお互いに言いたくないことは話さなかったし、そうしてもしなくても2人の関係は何も、変わらないと思っていた。
 ある日の夕方、激しい雨が降った。雷を怖いとは思わない私でも、ちょっと恐くなってしまうほど大きな音の雷だった。音が鳴るたびに地響きがして、築30数年が経ってちょっとガタがきている寮が、小刻みに揺れる。
部屋で勉強をしていた私は、どうにも集中できなくなったのであきらめて、窓に激しくうちつけられている雨粒をなんとなく見ていた。ドアがノックされる音がかすかに聞こえた気がして、出てみると沙良だった。
「怖いから近くにいてもいい?」
「うん。いいよ。」
 こうして時々、お互いの部屋を行き来するようになっていた。苦手な科目の勉強を教えあったり、田舎から送られてきたスイカを食べたり、何かと理由をつけては受験勉強をさぼり、沙良と過ごしていた。
 2人で床に座り込んで、窓の外を見ていた。激しい雨の合間に時々ピカっと空を割り稲妻が走る。そのたびに沙良は小さく息を呑んだ。恐くてもいちいちキャア、などと悲鳴をあげたりしない。青ざめながらも凛としたその横顔を、思わず抱きしめてあげたくなる。
 雷から逃げるように、沙良は少しずつ話をはじめる。私は相槌をうつ。雨の音にかき消されてしまいそうな小さな声だったので、近寄って耳を傾ける。
暑さと雨の湿度でじっとりと濡れた、沙良のいい匂いがした。このまま雨も雷も終わらなければいいのにって、息が苦しくなるほど思った。だけどそれはふいに終わった。
「あ、雨が上がったよ。」
立ち上がって窓に手をあて、外の様子を見る。あれだけ雨が降ったのだから、大洪水でもおきているかもしれないと沙良が言い、ワクワクして窓の外を見た。
 洪水はおこっていなかったが、そのとき雲間から顔をのぞかせた太陽の光がさっと空を渡り、宇宙まで溢れだしそうなほどに世界を金色でいっぱいにした。寮の裏には広い畑があり、いろんな野菜たちが夕日にキラキラ光って、雨が降ったことを喜んでいるようにみえた。ふと沙良が言った。
「ねえ、トマト盗みにいかない?」


 誰も居ないトマト畑に忍び込む。
雨に洗われた大気は透明で、薄暗くなっても遠くの山がくっきりと近づいて見えた。葉っぱの緑とトマトの真っ赤のコントラストが、妙にリアルで生々しい。
夕日はオレンジで太陽とは思えないほど大きくて、薄っぺらな光る紙でできたニセモノみたいだった。遠くの山の上に鎮座した入道雲は、少しほどけてばら色に染まっていた。
 むせかえりそうなほど強く土の匂いがする畑。侵入者たちはコトバもなく、白い運動靴をめり込ませながら、誰かに見つからないように背を低くして走る。丁度真ん中ぐらいまで来たところで、おもむろに大きくて甘そうなやつをもぎとり、シャツでさっと拭いて合図するでもなく、2人同時にかぶりつく。
 甘味料でも入っているのかと思うほど甘く熟したフルーツみたいなトマトの実から、溢れ出す種が沙良の手を、口元を、流れ落ちて地面に還ってゆく。それを私たちは拭おうともせず、むしろイトオシイと思った。
どんどん流れていって、汚していけばいい。何か苦しいものを吐き出せずに、血も流せない私たちの変わりに、トマトが泣いてくれているような気がした。
 グジャ、ジュリ、ジュリュッ、グジュ。
両手に持ったトマトを、沙良が淫らな音をたててむさぼるように食べる。口の周りはもうトマトだらけになっている。私もマネをして、両手のトマトをできるだけ音をたてて、潰すように食べる。
 お腹いっぱいもうトマトなんて見たくないってぐらいに、飽きるまでトマトを味わいつくしたところで、全力で走って逃げた。ぬかるむ土に足をとられて転びそうになりながら、何かに追われるように全力で走った。
ひたひたと近づく夕闇と、大地の隙間をくぐり抜けて。


 沙良の部屋は寮の1階で、背丈ほども伸びた草むらから隠れて、部屋に侵入する。トマトと土と汗まみれになって帰ってきたころには、もう8時を回っていた。門限の7時はとうに過ぎていたが、誰も気付いていないようだった。
 部屋の停滞した生ぬるい空気が毛布のように、皮膚にやさしくまとわりついて緊張をほぐしてくれる。お腹の中いっぱいのトマトと、全力疾走のために激しくなった呼吸のせいで、しばらくは何も言うことができなかった。
ハアハアと肩で息をしながら、突然沙良がふふっ、と身体を震わせた。私もなんだかとても可笑しくなって、2人で大笑いした。お腹がよじれて涙がでるほど、笑った。
トマトが逆流しそうなどと言っては、また笑った。