天は人の上にも下にも人を造る

―満月の夜―
( 1 )


佐藤 由香里







 この世は不公平だ。人間皆平等だなんて理想論に過ぎない。裕福な者は多くを得て、貧乏人は多くを失う。地位ある者は偉そうに振る舞い、なき者は頭を下げ続ける。美しい者は称賛を浴び、醜い者は蔑まれる。世の中はとても解かりやすい。
 人間は皆平等であると説いた人物がいる。子供だった当時の私はその思想を聞いて、なんてきれい事だろうと思った。きれい事だけではご飯は食べていけないし、いい家にも住めない。理想はあくまで理想であって、現実はそんなに甘くない。だからそんなきれい事を言う「彼」のことは大嫌いだったが、「彼」が印刷されている日本銀行券は大好きだった。「彼」は私を裏切らないからだ。
「ミヅキ、今日の分だ。また来月あたりに頼むよ」
 裸のままシーツに包まっている私の目の前に、男は無表情のまま二万円を置いた。「彼」と目が合う。私は何も言わずに、ネクタイを締め直して部屋から出ていく男の背中を見送った。

 一人取り残された部屋で、仰向けになったまま鏡張りの天井を見た。化粧の落ちかかった顔が映っている。腫れぼったい一重瞼、釣り上がった目、低い鼻。私はたまらず目を逸らした。私はもっと美しく生まれたかった。美しい母親ではなく、醜い父親に似た運を恨んだ。

 ホテルを出て、私も家に向かう。暗い部屋を出た直後にネオン街を歩くと、余りの眩しさに眩暈がする。騒がしい通りを抜けて静かな路地に入ると、ビルの隙間から見える空には大きな月が浮かんでいた。闇の中でひっそりと光を放つ月は、夜の世界に身を置く私と同じ。
 マンションのエントランスホールには、中年の男が白い息を吐きながら誰かを待っているようだった。見覚えのある顔。どこで見たのか思い出そうとしたが、今まで体を重ねた男達の顔が次から次へと浮かんできたので、面倒になって考えるのをやめた。
 鍵を開けて玄関を入ると部屋は暗いままだった。陽美(はるみ)はまだ帰っていない。きっとまた男と遊び回っているのだろう。私は自分の部屋に直行し、化粧も落とさずにベッドに横になった。急に酷い脱力感が襲ってくる。
「二時間で四回だもん。疲れるってば」
 誰にこぼす訳でもない愚痴を一人呟いて、私そのまま目を瞑った。



* * *


『満月(みづき)、あんたなんか産まなきゃ良かった!』
『おねがいママ、ぶたないで! いいこになるから!』
『あんたはあの人にそっくりだよ。不細工なあの人にね』
『いたい! いたいよママ!』
『陽美は私に似たのに、なんであんたはあの人に似たのよ』
『ママ! ママ! もう許して!』
『あの人とそっくりな顔で私のことを見ないでちょうだい!』
『ごめんなさい! ごめんなさい!』

*

『ねえ、みづきちゃん。どうしてパパはでていったのかなぁ』
『さあ、どうしてだろうね』
『もしかして、ママのこときらいになっちゃったのかなぁ』
『わたしにもわかんないよ』
『それともはるみたちのことをきらいになっちゃったのかなぁ』
『わかんないっていってるでしょ!』
『うぅっ……』

*


『ねえ、せんせい。はるみちゃんとみづきちゃんはほんとうにふたごなの?』
『そうよ。どうして?』
『だってぜんぜんにてないよ?』
『二卵性双生児っていってね、双子でも必ずそっくりになる訳じゃないの』
『ふうん。はるみちゃんはとってもかわいいのにね』
『こら。満月ちゃんに聞こえちゃうわよ』
『あ! みづきちゃん!』
『……』

* * *


 はっと目が覚めると、私は泣いていた。顔も枕もぐしゃぐしゃに濡れている。
 久しぶりに見た子供の頃の夢。胸がぎゅっと締め付けられる。出来れば思い出したくない遠い過去。
 父親はどうしようもない男だった。ろくに働きもしないで、いつも家でごろごろ寝ていた。それでも母には優しくて、働いて欲しいと母に言われるたび巧みな言葉で母をなだめて、結局母もそんな父親をずるずると許していた。父親が女を作って家を飛び出したのは、私達が小学校に上がる直前。残された母は気が狂ったように私達を虐待しはじめ、生きていくために母から逃げなければいけないと陽美と話していた矢先、母は飛び降り自殺をした。親戚中をたらい回しにされ、そのたびに自殺した女の娘達と指を刺された。私達は、誰にも助けてもらわずに自分達だけで生きて行こうと決めて、中学を卒業してすぐ、陽美はモデル事務所に入り、私は売春を始めた。それから三年。私達はそうやって二人で生きてきたのだ。
 傍から見れば、二人だけで生き抜く絆の固い姉妹だったかもしれない。けれど私はずっと陽美が憎かった。汚い大人から逃れて二人だけで生きていくことになった時、私は陽美と一緒に辛い人生を歩む覚悟をした。けれど蓋を開けてみれば辛いのは私だけで、陽美はなんの苦労もせず、ただ笑っているだけでちやほやされた。アパートだって私達だけでは貸してもらえなかったから、陽美の事務所が借りてくれた。私は陽の当たる世界で笑う陽美の陰で生きるしかなかった。闇の世界で若い体を売って、時には、お前に払う金はないと罵られ、惨めな思いをしつつも何とかお金を稼いだ。
 こんなはずじゃ、なかったのに。

「ちょっと、起きなさいよぉ」
 陽美が突然部屋にずかずかと入り込んで来て、勢いよくカーテンを開けた。窓の外を見ると、空の一番高いところから太陽が照りつけている。カーテンの隙間から射す日差しが眩しくて目が開かない。もう起きてたよ。そう言おうとしたけれど、声が掠れて出なかった。
「私、今日から一週間家を空けるから、一応声を掛けておこうと思って」
「あー。またセックスなしを条件に男と旅行?」
「違うよぉ。フィジーで撮影なの。初めて行くんだフィジー」
 そう言って、陽美は太陽のように明るい笑顔を私に向けた。陽差しよりもずっと眩しくて、私はたまらず目を細めた。

 陽美は仕事をもらうために男と寝るようなことは絶対にしない。その代わり、仕事をもらうために精一杯男に媚びて、気に入られようとする。心は売るが、体は売らない。それが陽美のプライドなのだ。私は逆。体を売っているけれど、心は絶対に売らない。この商売は、男に媚びて可愛らしくしていたらもっと稼げるかもしれないけど、心と体の両方を売ってしまったら、私に残るものは何もない。それが私のプライド。私を相手にした男達は、射精が済むとほんの少しの余韻を楽しむことなく二回目の準備をする。男にとって私は性欲を処理するための手段。私にとっても男はお金を稼ぐための手段。それでもここまで割り切るには長い時間と多くの罪悪感が必要だった。だから私は、器量と愛想の良さで上手に世の中を渡っている陽美に我慢がならない。

「満月ちゃん、今日はお仕事。。。?」
「多分ね」
「満月ちゃんはいい体してるからねぇ。出てるところは出て、締まるところは締まって。いいなぁ、時給が一万円の仕事」
 いいなぁ?
 私の心の中を憎悪が駆け巡った。売りたくて売ってる訳じゃない。売るしかなかったから売ってるんだ。多分、本人に悪気はないのだろうが、いちいち嫌味に聞こえる。
「私は抱き心地ちが悪いから無理だよねぇ。ガリガリだもん」
 陽美は口を尖らせながら平らな胸に手を当てた。そして溜息をつきながら、白く細い指で浮き上がった鎖骨をなぞった。指にはカルティエのリングが光っている。きっと、数日前、一緒に仕事をしたカメラマンからプレゼントしてもらったと大はしゃぎしていたリングだろう。
 体を売るつもりなんてさらさらないくせに、よく言う。男からいろんなプレゼントをもらって、いらなくなれば売って、旅行にも連れて行ってもらって。お金にも物にも男にも何一つ不自由していない陽美は、これ以上何が欲しいというのか。
「で、何時に出かけるのよ」
「あ、いっけなぁい。もう出ないと!」
 陽美は飛び上がって、そのままドタバタと部屋から出て行った。
 
 ふと睡魔が襲ってくる。今日は土曜日だから、夜からは仕事だ。きっと全ての体力を使い果たすだろう。あと少し。あともう少し眠りたい。視線を移動すると、枕元のテーブルにはハルシオンの瓶が転がっている。薬にはもうずっと手を出していない。飲まなくても眠れるようになったからだ。この仕事に慣れるまでは毎晩飲んでいた。飲まなければ、男達が私を嘲笑う声が聞こえて眠れなかった。薬の量が少しずつ減ってきて、飲むのが数日おきになっていって、最終的に飲む必要がなくなった時、私はとうとう『売り物』になったんだと実感した。それ以降、もう罪の意識を感じることはなかった。この瓶は、その時のまま。そしてこれからも横たわったままなのだろう。

 私は、二時間の拘束時間と魂の抜けた体を売る。男は、たとえ質が悪くても相場よりはずっと安い私を買う。お互いの利害関係は一致している。
 していた、はずだった。
 私は『売り物』だ。ずっとそう思ってきた。今夜相手をすることになるあの男と出会うまでは。


* * *


 私は駅前の、それも人の行き来が一番激しい場所でぼんやりと煙草を吸っていた。やっぱり土曜日の夜は人が多い。黒いマイクロミニのスカートが風に揺れて裾が上がると、数人の男の視線が私の太腿に集まった。動じることなく、私は無表情のままスカートの裾を手で押さえた。なんてことない仕草。でも、たったこれだけのことでも、解かる人は解かる。
「ねえ君。ちょっといいかな」
 きた。20代後半というところだろうか。大体声をかけてくるのはいつも中年のおじさんばかりだから、それに比べて目の前の男は随分と若い。
 男は半ば強引に私の手を引くと、何も言わずにそのまま歩き出した。人込みをすり抜けるようにどんどんと進む。その速さに着いて行けなくて私は小走りになる。どこに連れて行かれるのだろう。でも、どこに連れて行かれたってやることは同じなんだから、どこだっていいけれど。

 私はホテルの一室に連れ込まれた。かなり豪華な部屋だ。いつも場末のラブホテルなんかで事を済ませていた私には大きな衝撃だった。
「お兄さん、一体何者?」
「単なるサラリーマンだよ。それより……」
「そうね。そんな話なんかよりもこっちが先よね」
 私は男の言葉を遮って服を脱ぎ始めた。マフラーを外してコートを脱ぎ、セーターに手を掛けた。その時。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ。俺はそんなつもりじゃない」
「え?」
 私は訳が解からなくなって、乱れた服を手で押さえたまま彼を見た。彼も困った表情で私を見ていた。
 窓の外では、空に浮かぶ月よりもずっと眩しいイルミネーションが街を彩っていた。