天は人の上にも下にも人を造る

―満月の夜―
( 2 )


佐藤 由香里







 まだ暖房の効いていない部屋。肌寒い空気が半分セーターを脱ぎかけた私の体に触れる。はっと我に返り、私は乱れた服を直して男を睨んだ。男の余裕の笑みが私の神経を逆撫でする。
「でもちょっと惜しかったかな。いい体をしてる」
「あのさ、私と過ごすなら二時間で二万なの。お金くれないなら帰るけど」
「俺は女を金で買う趣味はない」
「じゃあどうして私に声を掛けたのよ」
「死んだ目をしていたから」
 え?
「夢も希望もない、世の中みんな敵って顔に書いてある孤独な少女に興味を持った。それだけじゃ返答不足かい?」
 カァッと頭に血が上った。なんなのこの男。解かったような口ぶりも全てを見透しているような眼つきも、何もかも気に入らない。第一、お金にならない男に用はない。
「帰る!」
 私はドアに向かって身を翻した。けれど男はそんな私の腕をものすごい勢いで掴んで無理矢理ベッドに押し倒した。
「ちょっと! なにする…」
 言い終わる前に、男は私の唇をキスで塞いできた。優しいキス。本当に私を乱暴に押し倒した男なのかと疑いたくなるほどに、優しいキスだった。まるで脳内で何かが溶け出すような、甘い感覚が私を支配しようとする。そんな自分に負けそうになるのが嫌で、男の行為を振りほどこうともがくのだけれど、私の必死の抵抗は男の余りある力によって捻じ伏せられてしまう。
「聞き分けのない女だ。ますます気に入ったよ」
 男は唇を離すと、そう言って笑った。一瞬だけ見せたその屈託のない笑顔に、私は一瞬ドキッとした。こいつ、腹が立つくせに笑顔は無邪気で、変な男。けれど……。冷たい私の心の中に、一滴の温かい雫が落ちてきたような妙な感覚がじわじわと広がっていく。私は、この男に変えられる。直感的にそう思った。
「俺は神崎。神崎啓介。お前は?」
「……ミヅキ」

 私は裸の状態で仰向けになり、ぼんやりと天井を見ていた。ベッドの横には脱がされた服が散乱している。神崎という男が熱いキスと吐息で私の体を温める。私はもう何も言わなかった。ただ黙って、神崎が自分にしていることを他人事のように眺めていた。
「ウリなんてして、もうセックスなんて大嫌いになってるだろ」
 私の両足の間から、神崎はうずめていた顔を上げて聞いてきた。
「ミヅキ、お前、セックスして嬉しいと思ったことないんじゃないのか?」
「よく、わかんない」
「セックスってさ、本当はすごく感動的な行為なんだよ」
「なによ、感動的って」
「少なくとも、嫌々ながらするものじゃない」
 初めてお金をもらって男に抱かれた時のことを思い出した。気持ち悪くて、家に帰った後に口をゆすいだ。口の中の粘膜が全て剥がれてしまうのではないかと思うほど何度も何度も。それでも口の中で蠢く舌の感触は取り除けず、結局朝日が昇るまで泣いた。けれど私はどうしてもお金が欲しかった。300万円貯まったら、今までの自分とは全く違う自分に生まれ変わって、どこか遠い街に引っ越そうと決めていたから、自分を売ることは辞められなかった。そうやって男と体を重ねているうちにそんな感覚も鈍り、感情もなくなっていった。セックスはお金を稼ぐための手段なのだと割り切ってしまってからは、自分のしていることに疑問を持つなんて無駄だと思った。セックスをして嬉しいと思ったことなどない。ましてや感動的な気持ちになったことなんて。
「……じゃあ、教えてよ」
 ゆっくりと、神崎は私を優しく貫いた。私の名前を呼びながら、何度も何度も私の中を往復する。激しい摩擦で私の体は熱っぽくなる。お互いの体を密着させて、更に熱を増していく。
「もっとこっちにこいよ、ミヅキ」
 神崎は、下から突き上げられて少しずつ枕元の方に移動してしまっている私をぐっと引き寄せた。二人の体が再び密着する。こんなに熱いと感じるセックスは初めてかもしれない。私はいつも冷めていた。男の体温を感じ取ろうとも思わなかった。ただ、意志のない人形のように抱かれるだけだった。けれど、神崎の口づけによって命を吹き込まれた人形である私は、今確かに、意志を持って抱かれている。耳をくすぐる甘い囁き。呼吸をするのを忘れそうになるほどの快感。私は我慢できずに、神崎にしがみついたまま達した。
 射精してもなお、神崎は挿入したままで私を抱いていた。私が起き上がろうとすると、神崎は、「いいから離れるな」と言って私を強く抱きしめた。私はこんなふうに必要とされたことはない。求められることがこんなにも嬉しいと感じたことは一度もない。神崎の言葉の意味が少しだけ理解できた。そして、今までずっと私を支配していた黒い感情が、彼のほとばしりと一緒に私の体内から流れ出ていったような気がした。

「なあ、『ミヅキ』って、いわゆる源氏名みたいなものか?」
 裸のまま神崎の腕枕でうとうとしていると、彼は小さな声で聞いてきた。私の本当の名前なんて聞いてきた男は過去にいなかった。それは、私は『売り物』で、相手は『客』だったからなのかもしれない。私は男達にプライベートな部分までは関与されたくなかった。男達も『売り物』である私にしか興味が無かった。お互い、それ以上のことに関わる必要はないと思っていたのだろう。
 窓の外のイルミネーションの数は減り、その代わりに空の一番高い所から月の光が黒雲の向こうから射している。
「本名だよ」
「へえ。どんな字を書くんだ?」
「満月(まんげつ)って書いて『ミヅキ』って読むの」
「いい名前だな」
「全然。私は気に入ってない」
「そうか? いいと思うけど」
 沈黙が流れる。神崎は私を抱き寄せて、少し強引に自分の胸の中に導いた。私は彼の胸に顔をうずめて目を瞑った。真夜中の静寂に響くのは、耳元に聞こえる神崎の鼓動だけ。この世界には私と彼の二人だけしか存在しないと錯覚するほどに、ただ静かな時間が流れていく。
「ねえ知ってる? 月ってね、太陽の光がないと輝かないんだよ」
「ふうん」
「太陽は自分で光を出して輝くことができるけど、月はその太陽の光を反射して輝いてるの。だから太陽がいなきゃ、月は誰からも見つけてもらえないのよ」
 頭の中に陽美の眩しい笑顔が浮かんだ。子供の頃からそう。人気者の陽美の隣で私はいつも無表情で立っていた。けれど最初にみんなの目がいくのは陽美の方。誰もが陽美を見た後で目立たない私を見た。いたの? という視線で、私はいつも見られていた。
「もしかしたら私、誰かに見つけて欲しかったのかもしれない」
 ぽつんと口をついて出た言葉。けれどそれは紛れもない本音だった。
「ミヅキはさ、きっと幸せになるのが下手なだけなんだよ」
 凍えるような冬の夜。しかし、二人分の体温が伝わったクイーンサイズのベッドの上だけはぬくもりに満ちていた。



* * *



「それにしても満月ちゃん、やっぱり変わったよね」
 陽美が頬杖をついて不思議そうに私の顔を覗きこむ。撮影旅行から帰ってきてからずっとこれだ。私に何があったのかをしつこく聞いてくるけれど、私はそのたびに、何もないと誤魔化している。
 あれから私は、次の日も、その次の日も、ほとんど毎日のように神崎と会った。不規則な仕事をしているらしく、携帯にメールが入ってくる時間帯はまちまちだったが、それでも私は何時であっても神崎に会いに出かけた。彼のマンションはここからそう遠くはなく、会いたいと思えば30分後にはに会えてしまう距離だった。
 昨日の夜のことを思い出して、私は思わず顔がほころんでしまう。昨夜は彼の家で料理をした。神崎は日頃外食ばかりしているらしく、やけに感激してくれた。小さい頃から料理をし慣れている私にとっては、こんなことで喜んでもらえるなんて思ってもいなかったから、少し驚いたけれど。今度は何を作ってあげようかと頭の中で献立を考えていると、ちらちらと神崎の笑顔が横切る。そして私の口元はさらに緩んでしまう。
「何にもないなんて信じられないよぉ。前は全然笑わなかった満月ちゃんがさぁ」
 陽美はすねたように言う。そんなことを聞いてどうしようというのか。本当に陽美は、人に対して無関心な私とは正反対で、人に介入するのが大好きだ。
 突然、携帯電話が鳴った。ディスプレイにはメールのアイコンが点滅している。神崎からかもしれない。私は携帯電話を広げメールボックスを見た。

 From: 杉原
 Subject: 来月って言ってたけど
 今夜はどうかな? 返事待ってるよ。

 なんだ。神崎かと思ったのに。それにしてもこの人、先週会ったばかりなのに、もう呼び出してくるなんて。
「あ、満月ちゃん。ご指名?」
 陽美はにこにこして聞いてくる。私は適当に相槌を打ちながら、「ごめんなさい」とだけ返信をした。神崎に抱かれたあの日以来、私は一度も仕事をしていない。入ってくる仕事のメールには全て断りの返事をしている。今は、どうしても神崎以外の男には抱かれたくない。けれど、仕事をしなければ生活ができないのも解かっている。貯金はあるけれど、目標額に達するまで貯金には手を付けたくない。やっぱりバイトか何かをするしかないのだろうか。でも、もし300万円を貯めたとしても、今この街を出てしまったら神埼とは会えなくなる。私は、どうすれば……。
「どうしたのよ。今度は渋い顔しちゃって」
 陽美が怪訝な表情で再び私の顔を覗きこんだ。きっと陽美にはこんな悩みはないんだろう。フィジーの撮影から帰ってきて早々、先日リングをくれたカメラマンに呼び出されて、ルイ・ヴィトンのスーツケースをプレゼントしてもらったらしい。気に入らないから売ると言っていたけれど。
「さぁてと、そろそろ仕事に行ってくるね。今日は撮影の後に打ち合わせが入ってるから遅くなると思う」
 陽美はつまらなさそうに立ち上がった。私も求人情報誌でも買いに本屋へ行こう。とりあえず、この街を出るという以前に、ウリを辞める以上新しい仕事をしないと生活できないのだから。



 平日の午前中だというのに、通りには人が溢れ返っていた。散歩をしている老人、買い物途中の主婦、学校をさぼって遊んでいる学生。こんなに明るい時間に外を歩くのが久しぶりで、なんだか新鮮に見える。本屋に入り、適当な求人情報誌を数冊手に取ってレジへ向かう。途中でファッション誌に目が止まった。表紙に写る、パステルピンクのスプリングコートを着た陽美と目が合う。春の陽射しのように明るい陽美の笑顔はとてもきれいで、そんな陽美が私の双子の妹だと思うと悲しくなった。
 本を買って店を出ると、今度は銀行へ向かった。財布の中にある数十万円を使ってしまわないためだ。バイトが決まるまでは無駄に使うわけにはいかない。
 銀行に入ると、私は財布の中に5万円残して、あとは全て貯金した。ディスプレイには『273万円』と表示されている。残り27万円。ここからが大変そうだ。普通のバイトをして生活しながら貯金なんてできるのだろうか。けれど、そんなこと言ってられない。目標額は絶対に達成したい。そんなことを考えながら後ろを振り返ると、ATMの並んでいる一番奥の場所には若い二人の男が立っていた。私を見ながらひそひそと話している。小声で話しているつもりらしいが、会話は筒抜けだった。
「おい見ろよ。あの女、いい体してるな」
「バーカ。顔を見てみろよ。俺はパスだね」
「うわ。本当だ。俺もパス」
 私は無表情のまま一瞬彼らを見て、そのまま立ち去った。目が合った男達は、私の顔を見ながら笑っていた。なんとでも言えばいい。私はこの貯金が300万円になったら生まれ変わるんだから。あんた達が手を伸ばしても絶対に届かないような、とびきりのいい女に。