天は人の上にも下にも人を造る

―満月の夜―
( 3 )


佐藤 由香里







 男と寝て、様々なことを強要されて、それと引き換えにお金をもらう。それが私が生活するための手段だった。恋人なんて要らない。友達なんて欲しくない。生きていくためには誰も信じてはいけない。きっと誰かに心を開いた途端足元をすくわれて、何もかも剥ぎ取られてしまうんだ。私は自分自身にそう言い聞かせて生きていた。誰かが近寄ってくるたびに勝手に防衛本能が働いて、相手を跳ね除けてきた。そんな生き方をしていた結果、人々は私から遠ざかっていった。
 本音を言うと、温かい人の心に触れたいと思うこともあった。けれど私は恐れていた。凍てついた心が誰かの温かい心に触れることで、急激な温度差に耐え切れず、溶けて消えてしまうかもしれないことが怖かった。だから私は常に氷の心に鋭利なつららを持ち続け、それで他人を、そして自分をも傷付けてきた。世の中を知れば知るほど世間の冷たい風によって私の心はますます凍り付いていった。
 そんな時に神崎に出会った。私の冷えきった心を、神崎は熱い吐息で解凍してくれたのだ。私は溶けなかった。凍っていたのは表面だけで、内側にはまだ温度が残っていた。自分自身さえ知り得なかった事実を神崎は教えてくれたのだ。まさか、他人に対してこんな気持ちになるなんて。私は今、とても戸惑っている。

 今夜は神崎に会えない。なんでも夜通し仕事らしい。前まではいつも当たり前だった一人の夜が、今ではこんなにも寂しい。
 私はこんなに男に依存する女だっただろうか。男はみんな汚い生き物だと思っていた。そんな奴等からはお金を巻き上げてしまえばいいと思っていた。今ではもう、それが嘘のようだ。
 眠れない。
 神崎の体温がない冷たいベッドが私の眠りを妨げる。そしてこんな風にいろいろ考え出してしまうと、眠る努力もできない。窓の外を見ると、空では月が笑いながら私を見下ろしている。微笑みなのか、嘲笑なのか、それは判らない。
 横たわったまま二度と起きないはずだったハルシオンの瓶を手に取り、蓋を開けた。長いあいだ閉じ込められていた錠剤が、まるで溺れた子供がやっと水面に顔を出した時のように、息苦しそうに呼吸をしながら空気を取り入れている。数粒を手の平に出し、口に放り込んだ。これで眠れるはず。目が覚めれば、もう朝になっているはず。私はもういろいろ考えることをやめて、再び目を瞑った。


* * *


『ねぇ、満月ちゃん。長谷川くんのこと気になってるでしょ』
『え! どうして?』
『だっていつも彼を見てるじゃない。ねぇ、どうなの?』
『別に、たまたまじゃないの?』
『中学生にもなれば気になる男の子の一人や二人いるって。ね、正直になろうよぉ』
『うーん。どうかなあ』
『わぁ! やぱりそうなんだ!』
『ちょっと、誰にも言わないでよ? 彼ね、やたらと私に話しかけてくるのよ。そうやって彼を知っていくうちに、段々とね』
『そっか。よーし、私、応援しちゃうよ!』

*


『陽美、今日の放課後、長谷川くんから告白されてたね』
『わ、なんで知ってるのよ』
『偶然見たの。放課後の教室なんて、長谷川もベタなことするね』
『でも! ちゃんと「考えさせて」って言ったよ。満月ちゃんの好きな人、とれないよぉ』
『陽美が気に入れば付き合えば? 私のためにだなんて、そんな遠慮は必要ないから』
『でも……』
『だから! 必要ないってば!』
『……うん』

*


『満月ちゃん。私ね、長谷川くんと付き合うことになったよ』
『そう』
『あの、彼すごく強引で、私、熱意に負けちゃったよ』
『別に。いいんじゃないの?』
『あの、怒ってる?』
『付き合いたいなら付き合えばって言ったでしょ?』
『うん。ごめんね』
『謝らないでよ。自分が惨めになるから』
『……ごめんね』


* * *



 目が覚めると、陽は既に私の部屋に射し込んでいて、私の顔を焼いていた。最近嫌な夢ばかり見ているような気がする。
 私が男の子に対してまだ人並み程度に恋心を抱いていた頃、私が気に入った男の子はみんな陽美のことを好きになった。その頃はまだ、ある程度『仲の良い姉妹』だったが、歪みは徐々に目に見えるようになってきていた。
 陽美に近づくため、双子の姉である私に近づいてきた男が何人もいる。『将を射んと欲すればまず馬を射よ』という言葉があるが、彼らにとって私は陽美を乗せた馬だったわけだ。私から陽美のことを聞き出した男達は、自分の恋が成就すると、私には二度と話しかけなくなった。当時、気に入っている男の子にアプローチをされた私は、それは陽美を射止めるための作戦であることも知らずに喜んだ。そして全てを知った後に私は一人で、誰にも気付かれない場所で泣いたのだった。そうやって私は、陽美を憎みはじめ、男という生き物を軽蔑しはじめた。
 大丈夫。神崎は、神崎だけは、大丈夫。陽美に邪魔をされることはない。二人に接点はないんだから。
 私は少しだけ開いていたカーテンを閉めきり、隙間から射し込む陽射しを避けた。


* * *



 神崎の指が下着の中に滑り込んでくる。熱い体は、神崎の指を冷たく感じさせる。
「昨夜は会えなかったからな。随分と寂しかっただろ」
「べ、別に、そんなことない」
 神崎はふうんと言って、私から手を離した。その手は何かを取り出そうとして枕元の缶箱を探っている。
「素直じゃねぇな、ミヅキは」
 神崎は手の平を広げて私に見せた。そこには半透明のブルーのカプセルが乗っている。
「何よそれ」
 神崎はにやりと笑って私の両足を開き、カプセルをつまんだ指を私の中に入れてきた。体がびくんと反応する。意地悪な彼の指は軽く中を掻き回して、入口にカプセルを置き去りにしたまま指を抜いた。私がその異物感に顔を歪めると、神崎はゆっくりと私の中に入ってきて、入口に留まっていたカプセルを一番奥へ押し入れた。思わず小さな悲鳴を上がる。体内で温められたカプセルはすぐに柔らかくなり、神崎が激しく突くとあっという間に潰れた。中の薬はじわりと溶けだして、摩擦によって粘膜に擦りつけられ、吸収される。効果は思いの外早く表れる。
「ちょっと、何入れたのよ。なんだか、熱い……」
「さぁな」
 体の芯がじんじんする。痛みにも似た快感が私の体を支配している。

 パシャッ

 シャッターの音と一瞬の眩い光が、今にも飛んでしまいそうな私の意識を現実に引き戻した。半開きの目を見開くと、神崎は小さなカメラを手に持ち、レンズを私に向けていた。
「ちょ、なに、やめてよ」
「いいから動くな」
 私達が繋がっている部分を、汗ばんだ肌を、神崎は撮り続けた。ファインダー越しに感じる神崎の視線。そんなに凝視されたら、きっと私の体は焦げてしまう。熱い。あまりの熱さに焦点が火傷をしていないか不安になったが、獣のように腰を振る神崎を見上げたらすぐに忘れた。
「こんな姿、俺以外の誰にも見せるなよ」
 だらしなく足を広げて男を受け入れている私を見下ろして、神崎は言った。その束縛が心地良かった。私は、このまま神崎の独占欲が鎖になって私を縛り上げ、身動きが取れなくなるまでがんじがらめにされることを望んだ。ほどけないほど絡まり合う鎖にいつしか神崎自身も巻き込まれて、二人はとうとう離れられなくなるのだ。
 神崎の広い胸で視界が塞がる。それ以外は何も見えなくて不安になる私は、まるで迷子になった子供みたいに、ただ目の前にある神崎の体にしがみつく。体が密着し、二人の体温が混ざり合って初めて私はやっと安心できる。一瞬のような、それでいて永遠のような、これからもそんな時間をただ神崎と過ごしていきたいと強く願った。


* * *



 今夜も眠れない。予定があるから会えないなんていう神崎の所為だ。全ての責任を神崎に擦り付けることで、私はほんの少しだけ救われた気持ちになった。今夜も陽美は遅い。また遊び回っているのだろうか。一人の夜はとても静かだ。静寂が耳鳴りに変わる瞬間が判る。静かなのに騒がしい。こんな夜は久しぶりだ。
 転がっているハルシオンの瓶から錠剤がこぼれている。蓋を締めることなくそのまま放置している。何粒飲んでも、睡魔は私を夢の世界に連れて行ってくれない。

 玄関のドアが重そうな音を響かせて開いた。陽美が帰ってきたようだ。ベッドから這い出してカーディガンを羽織る。外からは短いクラクションが、その後に遠ざかっていく車のエンジン音が聞こえた。
「おかえり。いいご身分だね。一体何人の恋人がいるのよ」
 私は部屋のドアを少し開けて、隙間からダイニングにいる陽美に声をかけた。
「あ、起きてたの? やだぁ、そんなんじゃないよ。一緒に仕事してる人と打ち合わせしてたんだよ。まあ飲んできたんだけどね」
「ふうん」
 陽美は、酔っ払っているのか、照れているのか、頬を赤くしてへらへら笑っている。
「ほら、いつもプレゼントをくれるカメラマンの人。あの人だよ。今日ももらっちゃった」
 そう言って陽美は長い髪を片方だけ耳にかけた。小さな耳には宝石が何粒も埋め込まれたピアスがきらきらと光っている。
「よくまあそんなにもらえるよね」
「でも、好意は嬉しいんだけど、最近じゃ顔をあわせるたび言い寄ってくるの。ちょっとうんざり」
 陽美は雑誌を広げて私の前に突き出した。陽美の特集が組まれていて、私生活の写真やインタヴューなどが掲載されていた。腕はいいんだけどねぇと陽美は溜息をつきながら呟いている。確かにどの写真も陽美の魅力を最大限に引き出していて、まるでどう撮ったら陽美が一番良く写るかを熟知しているような写真ばかりだった。
 何気なくページをめくっていると、特集の最後のページにある名前を見つけて手が止まった。

『撮影・神崎啓介』

 !!
 カンザキ ケイスケ?

 心臓が高鳴る。陽美に高価な贈り物をして、しつこく言い寄ってくる男。彼の名前は『神崎啓介』?
 神崎に温めてもらった心が急速に凍り付いていくのを私は感じた。
「満月ちゃん、どうかしたの?」
 神崎が、陽美を? やっぱりこうなるの?
 私は背後で顔をしかめている陽美を無視して、紙を隔てた向こう側で流行のファッションと春の光に包まれたもう一人の陽美の笑顔をただ呆然と見つめていた。