カズノコ定食



田村 綜






 列車のドアが開いた。
「こりゃ、乗れないなぁ」
 背の高い方の男が言った。
「次の列車待つか」
 背の低い方の男が言った。
 少女が駆けてくる。二人の男の目の前のドアから、すし詰めの車内に背を押し込もうとするが、人の壁は少女をドアの外に押し返す。
 出発のベルがなる。ドアの閉じる間際、どうにか体は内側にねじこめたが、鞄をつかんだ腕が外に残る。はさまった腕を引き抜こうとするが、もとより体ひとついれたのが精一杯で、とても身動きなどとれない車内では、まるでままならない。
 見かねた背の高い方の男がドアをこじあける。そして背の低い方の男が、少女の腕を内側に押し込む。そしてどうやら少女の身体は完全に車内におさまった。
「ありがとうございます」
 少女は早口で礼をのべると、二人の男は微笑を返す。
 再びドアがしまる。ガラス越しに、二人の男が口を動かしたが、声は聞こえない。
「ありがとうございます」
 少女はもう一度、今度ははっきりとした口調で感情を込めて、言った。ガラスの向こうで、男たちは微笑する。そして、背の高い方が手を挙げようとしたとき。
 閃光が視界を焼く。くらんだ目が視覚をとりもどすと、二人の男は焼けこげた焦げカスに変わっている。
 少女は呆然と凍り付く。車内の人間はだれも口をきかない。列車は動きはじめる。少女はやがて肩をふるわせはじめる。泣いている。
「しかたがないさ」
 少女のすぐ後ろに密着して立っている僕は、何か言わなければならないような気になって、ほとんど意味をなさないことを口走った。少女は振り向かず、ずっと泣いている。

 何が最初だったのかもう忘れてしまった。いつのまにか、世の中にわけのわからないことが増えていた。
 なんでもないビルが突然爆発する。おかしな霧が発生して町中の人が血を吐いて死ぬ。目が覚めたら隣の家が住人ごと砂になっていた。電源も入れていないラジオが突然笑い出す。蛇口をひねるとコールタールが出てくる。 ビンのなかの七味唐辛子がいつのまにかホルマリン漬けのオタマジャクシになっている。カップラーメンをあけるとミミズがからまってうごめいている。手をつないで歩いていた女の子が、ふと振り返るとつないだ手の肘から先がなくなって、切り口から髪の毛が垂れ下がっている。
 高度の科学力を持った宇宙人が特殊な装置で因果律を狂わせていると誰かが言っていた。神が死に世界が崩れかけていると誰かが言っていた。この世界は元々誰かの夢で、その誰かが目を覚まそうとしているのだと誰かが言っていた。それはそうじゃない、実はこうだと他の誰彼となく言っていた。誰もが何かを言っていた。誰もなにもわからない。

 この特別臨時列車は甲府に向かっている。甲府には僕の叔母が住んでいる。
 これから僕はそこで暮らすことになっていた。二、三度行ったことがある。座敷童子が住んでいそうな古くさい木造二階建てだ。叔母はそこで一人で住んでいる。夫は死んでしまった。叔母は活発な夫の陰に隠れたおとなしい印象の女性だったが、一人になって今はどうしているだろう。この叔母が、僕にのこされたただ一人の親戚だ。
 みんな死んでしまった。いや、死んだのかどうかはわからない。今の世の中はあまりにも奇想天外で、何一つ断定出来ることなんかないのだ。
 たとえば、僕の両親の場合。
 その朝リビングルームは静まりかえっていた。母さんが寝坊をするということはない。父さんはたいがい僕が目を覚ますまえに出勤する。リビングルームは昨夜のままで、手をつけたあとがない。僕は大学が一限からあったので、トーストを作って食べてから家を出た。帰っても、トーストのカスが残った皿がそのままになっている。両親の寝室をのぞいても誰もいない。ただベッドのシーツは乱れている。めくると握り拳くらいの大きさの胎児が二体死んでいた。
 両親が夜の間に、抜けだし、かわりに胎児の死体をベッドにならべておいたのだろうか。それとも、胎児にまで若返ってしまいそのまま息絶えたのだろうか。僕にはわからない。わかるのは、それから一ヶ月たった今でも両親は戻っていないという目に見える事実と、それらを理屈でつなぎ合わせて背景を想像することはもう完全に役に立たなくなってしまったということだけだ。今のこの世界では、どんな突拍子のないことでも起こりうる。
 両親がいなくなると、僕は学校へ行く必要がなくなったので、毎日ひとりぼっちで家に居た。そこへ、叔母から同居の誘いの手紙が来たというわけだ。

 列車がゴトン、ゴトン、と揺れる。揺れるたびに僕の身体は少女の身体におしつけられる。華奢な少女の身体はつぶれてしまいそうだ。もう泣いていない。それどころではない。駅で止まっても、誰も降りない。車内の圧力はずっとかわらない。どこかの大層有名な莫迦がテレビで「これからしばらくのあいだ甲府市では死人が出ないだろう」と何も根拠のないことを自信げに言っていた。みんなそれを真に受けているのか。あの莫迦の自信を真に受けているのか。こんなに人間の力が無力な世の中で、自信をもつというのはそれ自体罪だ。そして、甲府は終点である。それまでずっとこのままだ。少女の首筋が真っ赤になっている。呼吸が苦しいのだろう。僕の身体は相変わらず少女を圧迫し続ける。少女は圧力が増すたびに身体をこわばらせる。
「大丈夫ですか?」
 たずねたが少女はこたえない。僕は少女の真っ赤な首筋を見ている。15、16、それくらいだろうか。やっぱり甲府へ行くのだろうか。甲府へ行けば助かると思っているのだろうか。

「別に驚くことはない」
 僕の友人の田村は言ったものだ。
「世界ははじめから、こういうものだ。我々に理解できる性質のものではない。誤解されているようだが、そもそも、今までだって我々は少しも世界を理解なぞしていなかった。理解した気になっていただけなんだね。結局、過去をいくら積み重ねたところで未来を知る手がかりにはならないってことを最初から受け入れるべきだったんだ。それがいくら恐ろしくたってね。そうしていれば、今起こっていることだって、何一つ不思議ではないんだ。オレの言っている意味が、わかるかね?」
 田村は親の遺産で家に引きこもって妙な本ばかり読んでいる変人で、訪れる人間をつかまえては、へんてこな考えを聞かせたがるという厄介な性格を有していた。
「誤解の元というものは、科学にある。科学というのは、<世界には法則がある>という勝手な妄想を骨格に、実験、現象、そういった現実のデータをつなぎ合わせて肉付けされた人造人間にすぎない。フランケンシュタイン博士の物語みたいにね」
「だいたい、世界に法則があるなんて、誰が言いだしたのかしらないが、そこからして確実な根拠がないんだ」
「ブラックボックスという言葉くらい、いくら不勉強なキミだって知っているだろう? 中がどうなっているか見えない黒い箱だ。世界はこれと同じだね。数学の場合、ブラックボックスは数字を入れると数字が出ることになっている。このとき、入れた数字と出た数字の関連性を発見するのが、いわゆる科学的発想というやつだね。たとえばここにひとつブラックボックスがあったとして、3と2を入れたら6が出るんだ。そして、次に4と7をいれたら28が出る。次に6と9をいれたら54が出る。この結果を、科学的発想というやつに従えば<この箱は数字を二ついれたら、その数字をかけあわせた数字を吐き出す性質をもつ>とか結論するんだろうな。でも、それが正しいかどうかは、本当はわからないんだ。箱は、入れた数字に関係なく、適当な数字を吐き出しているだけなのかもしれない。あるいは、6、28、54、とそういう順番で数字がつまっていて、何をいれてもこの順番で出てきたのかもしれない。かけあわせているように見えたのは、ただの偶然で、本当は法則なんかないのかもしれない。そのあと何度も数字を入れ、そしてやっぱり掛け合わせた答えになる数字を吐き出し続けたとしてもね。実験を繰り返し仮定どおりの結論が出るたびに、確率は減るだろうが、ゼロにはならない。わずかの可能性だろうけれど、今まで法則が当てはまっていたのは、それは全部ただの偶然かもしれない。その可能性は最後まで生き残る」
「世界の法則だって、全部同じだよ。質量保存の法則? 確かに、今までは何度計測しても質量は保存されているように見えたかもしれない。だけれど、計測誤差として切り捨てられたぶれが、実は本当に質量の変動を示していたのかもしれないし、また、明日計り直したとしたら、全然違う数字が出るかも知れない。だいたい、全ての法則っていうのは、法則が先にあって世界がそのとおりに動いているわけじゃなくて、世界の動きを人間が見て、そこから勝手にこじつけたものなんだ。世界が、たとえ今まで何万回、何億回、人間のこじつけどおりに反応したからといって、次の瞬間にも、そして未来永劫、絶対に裏切らないといった保証はされちゃいない。そんな信頼はただの妄想だよ。世界は本当は、法則なんかないいい加減でふざけたものか、あるいは人間なんかには理解出来ないもっと複雑で高度なルールで動いているのかもしれない。いずれにしろ、人間がそれを理解するなんてとんでもない話さ。オレはそれをわかっていたよ。だから、今みたいなこんなふうになっても、それがメチャクチャだなんて思わない。不思議ともなんとも思わない」
「いや、今みたいな状況をさしてね、世界が人間を裏切った、というのは必ずしも正確じゃないな。人間同士でもあるだろう? 片方が<お前をそんな人だとは思わなかった>と裏切られたような気持ちになって、そして相手は相手で<お前が勝手なイメージを持ってたんだろ>とか言ったりすること。これによく似ているね。ようするに、認識が誤っていただけなんだ」
「キミたちはもうちょっと謙虚になるべきなんだ。自分には何も知ることができない。とね。そうすれば、本当に、何もビックリすることなんか起こっていないように思えるはずだよ。この世界で起こっていることのすべては、ただ、それだけのことなんだ。意味なんかない」
 と田村は嘲笑的な薄ら笑いを浮かべて言った。しかし、彼はその数日後に自殺してしまった。
  
   窓の景色が田園風景に変わる。もう山梨に入ったのだろうか。しかし相変わらず車内は混雑している。少女は息も絶え絶えになって、壁に押しつけられている。僕はもう何かをする気もなくなった。何かを考える気力もなくなった。無心に、少女を圧迫する人の壁の一枚となり、つり革にぶらさがっている。空気が息苦しい。ひどく、暑い。車内の人々はみな沈黙している。ただレールのつなぎ目で車輪のたてる、ガタン、ガタン、という音だけが車内を支配する。
 それでもやがて終点甲府に列車は到着した。
 ドアが開くと、乗客は雪崩のようにホームに流れ込んだ。そうして車内の圧力がすっかり失われると、少女は床に倒れる。顔が汗ばんでいる。そして表情がない。首筋に手を当てると、脈がない。もう死んでいる。
「もったいないね」
 僕の隣で中年男が呟いた。
「死んでるんでしょう? こんなに若いのにね。こんなにかわいいのにね。かわいそうに。でも、仕方がないよね。こんなに良くわからない世の中だものね。死んじゃったほうが、あるいは幸せなのかもしれないよね。こんなにわかくてかわいいんだもの、生きてたほうがきっと大変だったよね」
 中年男は、「仕方ないよね、仕方ないよね」と繰り返している。
「身分証とか、ありますかね」
 僕が少女の鞄を手にとって、その口を開けようとした瞬間、中年男はそれをひったくった。
「いけないね。そんなことしちゃ、いけないね。一体、そんなことを知って、どうするつもりなの」
 そして、開いている窓から、外へ投げ捨てる。
「あとは私にまかせて、お兄ちゃんはもう行ってちょうだい。そのほうがいい。そのほうがいい。お兄ちゃんはほら、まだ若いだろう? 若いなら、いいじゃないか。しかも、かっこいい。かっこいいよ。だからいいでしょう? もう行ってちょうだい」
 中年男は、申し訳なさそうに苦笑する。僕は悟って、その場を後にする。
 ホームに降り、少し離れてから振り返ると、案の定、中年男は少女の死体を背負ってドアから出るところだった。そして中年男は、周囲をやたらと警戒しながら、人気のない方へ消えてゆく。僕は、その先を思って、勃起した。

 歩きながら、これから向かう家に住む、叔母のことを考えた。僕の父親の弟の嫁にあたる。だから、血のつながりはないことになる。その叔母、どうやらある朝目が覚めると、13、4くらいの少女に若返っていたらしい。若いころは評判の美少女だったと聞いたことがあるから、楽しみだ。叔母が「家に来なさい」と書いてよこした手紙の文面が示していた色香のする媚態を思い出す。血のつながりはない。明日からの二人暮らしが、楽しみだ。
 引き続き勃起しながら、僕は歩く。パンツにこすれて射精しそうだ。


 世界が狂ったのか、僕らが狂ったのか、どちらにせよ、何もわからなくなってしまった。何が起こるかわからなくなってしまった。全てが曖昧で、ぼんやりとしている。決まったことなんか何一つない。明日何が起こるのか、誰も知らない。

 田村はどうして自殺なんかしたのだろう? 絶望なんかしたのだろう?
 わからない。僕は毎日が楽しみでたまらない。今だって勃起している。


 世界は、奇想天外、荒唐無稽、摩訶不思議、げに不可思議。カズノコ定食。タイトルに意味はありません。





■おわり■