熱い金魚




美咲






 アタシは運命的に恋をしたんだけど、あの人は違ったみたいで今日も帰って来ない。アタシはマンションの前で待ちぼうけ。酔っ払いにからまれるかと思って身を小さくするけど、何事もなく通り過ぎていく。あんなオッサンにさえも無視されるアタシって一体。
 だけど待ってるのは好きだから平気。だって会ってからあの人が言うとげとげした言葉を聞かずにすむもの。今日は昔みたいに好きだよって言ってくれるかもしれないって想像できるから、ずっと帰って来なかったらいいのにって思うぐらい。星も無い曇った空を見上げたりしながらアタシは金魚と待ちぼうけ。今日はあの人のプレゼントに金魚買ってきたの。赤い金魚を2匹。
 生き物はキライって言ってたけどアタシが飼うからいいの。エサもアタシがやるし水も替えるし。それを口実にして、また部屋に遊びに来られる。
 「また待ってたのか。」
 「おかえり。」
 「やめろよ部屋の前で待たれるのキライなんだよ。」
 そういいながら部屋の中に入れてくれる。部屋の電気もつけないまま強く抱かれる。タバコの匂いが鼻につく。
 「ちょっと待って。金魚鉢が。」
 「金魚?」
 「うん。かわいいでしょ。おっきいのがあなたで、小さいのがアタシなの。」
 あの人は返事もしないでアタシを抱く。金魚がみてる前で。アタシは気にしないでこの儀式が終わるのを待っている。目を閉じていれば大丈夫だから。またすぐに気持ち良くなって終わるから大丈夫。もうちょっとだよ。大丈夫だよ。アタシの腕を押さえる女の人の手。こじあけられた口。小さいアタシは悪い歯を削られている。そんなイメージ。
 冷たい汗がアタシの顔に落ちたら、あの人は静かになって眠る。アタシは目を開けてビデオデッキのわずかな光に透ける金魚の尻尾を見ていた。
−−−揺れている。

 だけど白いおなかが2つ浮かんでたときには、正直キモチ悪って思った。あんなにキレイな赤だったのに、こんなおなかしてたんだ。金魚たちはただの物体になっていた。アタシのせいだ。アタシが利用したから。あの人がアタシの身体を時々利用するみたいに、アタシもこのコたちを利用した。だからアタシと同じようにこのコたちも捨てられちゃった。
 アタシは両手で少し白いふわふわしたカビの生えてしまった金魚たちをすくう。土のあるところを探して埋める。あの人が別の女の人のことを好きになってしまったことも、アタシを好きなだけ利用して捨てちゃったことも、これで全部終わる。
 あの人の部屋は最上階にあって、遠くの海とか見えてキレイだから好きだった。待ちぼうけがいつも平気だったのは、ずっと向こうまでいっぱい小さな灯りが点滅して、私じゃない誰かが恋をしたり傷ついたり唄ったり笑ったり泣いたりしてるんだと思って全然淋しくなかったから。
 胸の高さほどもあるコンクリの手すりに腰掛けて、あの人を待つ。アリンコみたいに小さくても、少しヨロヨロと歩く軌跡で、あの人だって解かる。アタシは足で壁を蹴って、あの人の上に降る。

 生まれかわったアタシは金魚になってた。内心ヤッターって思った。神様は罰するつもりだったのかもしんないけど、身体はアタシの大好きな赤色だったし、よく世話をしてくれる女の子に飼われて、毎日エサを食べてのんびり泳いでればそれでよかったから。
 女の子はアタシにクッキーって名前をつけた。毎日、水をかえて清潔にしてくれたし、いろんな話をしてくれた。女の子が何を言っているのかは、水のせいで声がくぐもってよくは聞こえなかったけど、クッキーっていう名前だけは何度も言うので聞き取れた。アタシの尾びれが水面を揺らすと、その名前はいつも「くぉっくぃぅぃ」と不思議な響き方をして大好きだった。
 揺らめく水のフィルターを通した景色はキレイで、見飽きなかった。というかアタシには時間の概念が無かった。時々思い出したように、夏の声がした。風鈴、セミ、ラジオ体操、花火、遠くに見える鋭いナイフみたいな光。
 重なるように、遠くで男の人の声がした。どうやら、女の子のパパらしかった。金魚鉢を覗き込んだのは忘れもしない、あの人の顔だった。魚眼レンズ越しでもはっきりとわかる。あの人は軽く水槽を叩いてアタシのことを確かにかわいいと言った。昔と同じ優しい声だった。
 ああ、バカみたい。バカみたいに息が苦しい。ここにはもう居られない。一秒だってアタシは許さないし許されない。がむしゃらに泳いだ。泳ぐたびに全身からヒリヒリとした痛みが走った。うろこが一枚ずつ、はがれていくのを感じた。身体は血できっと今までより赤い。アタシの血。気がつくと少し笑っていた。
 勢いをつけて飛んだ。金魚鉢の外は何もなくて視界には何も映らなかったし何も聴こえなくなった。生まれて初めて、お日さまの光を感じた。熱くて熱くて、ひからびてまたアタシは死んでゆくのだと思った。アタシのこと、これでも少しは好きだったのにね。ごめんね。

 生まれ変わったアタシはまた生きていた。神様はきっとまたあの人に会わせてアタシをつらくするのだろう。だけどアタシは幸せだった。何かホワンとした毛布のようなものにくるまれて愛されていた。
 何もなかったように金魚鉢の抜け殻だけが、夏の向こう側で光っていた。ひからびたままで居られたらヨカッタのに。どうしてそんな残酷なことをするの。それは1番残酷な、アタシに対する仕打ちかもしれない。優しい手で撫ぜられるたびに、記憶のカケラが剥ぎ取られてゆく。