斬捨て御免




朝倉 海人






 横たわっている死体が目に入った。
 右手には血と油がベットリとついた古い日本刀を持っている。刃こぼれが所々に見受けられお世辞にも良い刀だとは言い難いが、日本刀というものはそもそも道具にすぎない。この時代のように武士を形容するという神秘的な物になったのは、ここ最近の身分制が固まってからである。
 視線を少し落とし横たわっている死体に注目してみると、その血を流して道の中央に倒れている男は農民風情であった。武士が農民を斬った。ただそれだけのことである。
 ――斬捨て御免
 今で言ってしまえばそれだけの話であるが、武士が刀を抜くということはそれほど単純な話でもなかった。刀を抜くということは、武士は命を賭けるということである。家を取り潰されるかもしれず、死罪になるかもしれない、それら全てを賭けても名誉を守るために抜刀する。斬捨て御免とはそういうものである。
 山下右衛門が、その場で立ちすくんで震えているのもそれが理由であった。見えない恐怖が迫っている。これから自分は果たしてどうなるのであろうか。右衛門は我に返ると辺りを見回した。藩の役目で隣町へ行き、その帰り道である。夕方、西の空が僅かに赤く染まろうとしている時であった。周囲に建物らしきものはなく、道はまるで田んぼのあぜ道のような感じのよく整備されたとは言い辛い代物で、街路樹と言えるような木々も無く、前後には遠くに家が見えているいうような感じである。
 幸い人影は見えないような気がする。ただ、間もなく月だけが照らす闇の世界になるので安心はできなかった。このままこの農民を放置しておいても誰も咎めないかもしれない。しかしこの農民にも家族がいるだろう。その家族が騒げばこのような小さな集落である。どうなるかわからない。
 右衛門はその死体を背中に担ぎ、その道から外れ少し行った所にある小高い丘に捨てようと決心した。背中に背負えば血が着物につくが、今日は幸いにも稽古に備え着替えを持っていた。右衛門は自分の運の良さにほくそ笑み背中にその農民を担いだ。

 丘のような山のような小高い場所は、地元の農民の間では信仰の対象となっていた。標高はそれほど高くなく二時間もあれば余裕を持って頂上にたどり着くだろう高さであった。その小高い丘のような山のような場所は緑溢れる木々に覆われていた。信仰の対象となっていることもあって、あまり人は立ち寄らない所であり、隠すには絶好の場所であった。
 山下右衛門は、背中に見知らぬ農民の死体を担いでいる。「そもそも自分は何故この農民を斬ったのであろうか?」という後悔は徐々に薄れていき、「私が悪いのではないこの農民が悪いのだ」という想いが広がっていた。そうさせていたのは、自分が運が良い人間であると思ったからに他ならない。
 「しかし、そもそも私が罪の意識を感じることはないのではないか?」右衛門はいつしかそのように思い始めていた。なるほど人の心とは何とも読みにくいものである。あれほど震えていた武士はそこにはおらず、今にもその背中に背負ったモノを捨て去りそうな男がそこにいた。
 しかしこの背中の荷物は重い。何か徐々に重くなっていくような気さえするのである。死体は生きている人間よりも重く感いじるとは言うもののこれは少しばかり違う感じもする。徐々に重くなっていくのは右衛門が疲れていくからであろうか。いや、それとも他の理由が背中に存在しているのだろうか。
 右衛門には先ほどのような威勢が徐々に消えていた。不安がそこにはあった。「もしやこの農民が重くなっていっているのではないか……?」俄かには信じがたいそのような思いが生まれていたのである。

 右衛門は間もなく小高い丘という所で立ち止まり、死体を背中からおろした。農民をしっかりと見てみる。どこも変わった様子はないようである。やはりどこかにある恐怖心がそう感じさせているのだろう。他人の心どころか自分の心でさえもわからないものである。
 「ガサッ」
 右衛門は条件反射のようにその音のした方を振り向いた。腰ぐらいの背丈がある茂みの所に人影が見えた。それは長い沈黙であったかもしれない。いや瞬間だったのだろう。その人影の光る目と右衛門の目が合った。人影ににじり寄る右衛門に何か考えがあるわけでなかった。しかし、この場を見られたことは事実である。右衛門にとって生かしておく訳にはいかない存在にその人影はなったのである。
 「申し」
 その人影から声がする。
 「申し、お侍様。お困りのようですね。何でしたら私がお助けいたしましょうか?」
 その人影は農民のような男であった。右衛門はようやく相手の顔がわかる距離まで近づくと、腰の物に手をかけた。警戒しているのであろう。
 「お侍様、そのような物騒な構えはお止めくだされ。私はあなた様のお味方でございます」
 「味方?お前がか?何も知らぬくせによくもぬけぬけと物を申すな。悪いがお前は見てはならぬものを見てしまった。その命を貰わねばならぬ」
 「お侍様、ここで私を殺してしまっては背負ってこの山の奥に捨てることも大変になりましょう。どうでしょう、もしお侍様が私のお願いをお聞きくだされば、お侍様の罪を私が被りましょう」
 その農民は笑顔でそう言うと、頭を軽く下げ右衛門の返答を待っているようだった。右衛門は刀に手をかけるのをやめ、その農民に問い掛けた。
 「その願いとは何だ?その願いが無理難題であれば、お前を斬る。主導権は私が握っていることを忘れるな」
 「勿論でございます」
 ここで農民は一呼吸ついた。右衛門を焦らす事が目的なのか、それともそのような考えなど何も無くたまたまそのような形になってしまったのか、それは右衛門にもわからなかったが農民の言葉を待った。その言葉が何か希望の光のように思えたのだ。やはり運の良い男である。
 「穴を掘って欲しいのです」
 農民はそう言った。「穴?」と右衛門は聞きなおした。
 「そうです。今から穴を掘って頂きたいのです」
 「それぐらいでいいのなら、掘るが……」
 「では、ここから少し山に入った所に行きましょうか。あ、その横になられている方もお連れしてくださいね」

 一時間ほど経っただろうか。山下右衛門は穴を掘っていた。農民が持っていた鍬を使い力いっぱいに掘り進んでいる。半径一メートルくらいの大きさで深さは今のところ五十センチくらいだろうか。中々進まない。月灯りの全てがこの山の中まで届くことはなく、圧倒的な闇がそこに広がっていた。鍬が地面に刺さる音、土を掘り返す音そして右衛門の息遣いがこだまする。
 しばらくすると、金属に当たったような甲高い耳に響くほどの音がした。右衛門は地面に少しばかり顔を出している物を手で掘り返した。地面に出して見ると、それは葛篭のような形をしていた。よく見ると鍵はついていないようである。右衛門は興味をそそられたようで、それをゆっくりと開いた。そして開けきり、その葛篭の奥底を覗き込んでみると何やら画面のようなものが見えるのである。そこには右衛門と殺された農民がいた。しかし一つ違ったのは、右衛門は殺された農民になっていた。目の前に自分の姿があった。何もかもがスローモーションのように右衛門は農民の体を使って、一生懸命声をあげていた。それはどこかで聞いたことのある叫び声だった。農民になった右衛門は自分に斬られた。左鎖骨から右腰の辺りにかけての一太刀で農民になった右衛門は絶命していた。真っ暗になった。
 再び目の前に自分がいた。もう農民になった右衛門が自分に斬られるのは何回目であろうか。何度も死んで何度も復活していた。なるほど、右衛門が斬り殺した農民というのは実は自分だったのだ。どうりで斬り殺した理由がわからないわけである。
 「では、私は罪を被って参ります」
 その農民でさえ自分に思えた。