くじら遊び

<前編>

神田 良輔







 やあ、久しぶり。
 こうして手紙を書くなんて何年ぶりだろうね。なんだか改まった感じですごく照れるよ。
 手紙は――仕事がらね――書きなれてるんだけど、おまえにわざわざ手紙を書くなんて思わなかった。電話で話したほうがいい相手と手紙で話したほうがいい相手がいるとしたら、おまえなんて当然、電話のほうだよな。だいいち、手紙なんかちゃんと読んでくれるか心配だ。ちゃんと読んでくれてるか?だったらいいんだけど。

 ええと、まあこの手紙は謝罪の手紙だ。
 まずはこの間の件を謝る。
 ごめん。

 俺を許してくれるか?

 あの日の俺はほんとうに切羽つまってた。自分のからだが自分のものじゃないように思えたんだ。
 自尊心がなくなってた、ということだと思う。とにかくなにをしていいかわからなかったし、なにをしてはいけないのかもわからなかった。ただ、自分が助かりたかっただけだった、こんな言い方アメリカ人みたいだけどな。
 今になって気がついた。俺はおまえの前でこそ、自尊心がなくなった自分を演じるべきだった。ドラマの真似事みたいに、泣きそうな顔をして、おまえに抱き着いて、どうしよう、って言えばよかったんだ。オレたちはよくそんな自分のための演技ができたんだ。もしオレがそうしてれば、おまえだって天使みたいに俺のからだを撫でながら「大丈夫」って言ってくれたと思う。うん、間違いないことだったろう。おまえはそういうふうに応えることには慣れている、反応が鈍い女じゃ、けっしてない。それでその場は俺は感極まりながら、おまえのからだを求めることができたんだ。ロマンティックだよな。そうできないわけでもなかったんだ、思いつかなかったことが悔しいよ。ただ、思いつかなかったんだ。

 あの日は、とくに用事もなかった。いつもみたいに、おまえに会いに行っただけだ。夜ならおまえは家にいるんだ。だから電話もかけなかった。ただ会いに行くためにおまえの家まで行っただけだった。
 おまえに会いにいこう、としか考えなかったんだ。

 あの日、俺はなにか喋ったか?
 謝るどころか、たしか一言も喋らなかったんだよな。イスに座りながら俺を振りかえったおまえを、俺はいきなり殴りつけたんだ。間違えなく、強く握った拳で。

 大抵俺は理性的にふるまうことができる。大抵のやつらがそうであるように、いや、俺は大抵のやつより冷静でいられると思ってた。
 おまえとケンカしたこともなかったよな?たしか。
 俺の高校は男子校だった。そこでは中途半端に理性をもってることが余計なことだった。先にぶっ飛ばしたほうが、ケンカを売ったほうが勝ちだ、っていうような世界だったんだ。でも俺はそれがイヤだった。そうしないでふるまいたかった。そしてまあ、上手くいった。男子校の権力争いに対して、理性的にそれなりに上手くふるまうことができたんだよ。それはなかなかのやつじゃ出来ないような、理性的な行動だと思わないか?

 結局俺はあの日、おまえを殴りに行ったんだ。殴った後、そのままおまえの家を出ていったんだからな、金を奪っていけば、立派な強盗だ。訴えてくれなくて、本当にありがたいよ。
 ごめん、本当に悪いと思ってる。
 本当に俺は、どうしようもなかったんだ。おまえの顔を見に行って、おまえの顔を見たら殴りたくなって、殴った後で一人になりたくなった、それだけだったんだ。
 ごめん。

 おまえにどう謝ろうかとずっと考えてた。
 でも謝るより先に、俺の話を聞いてもらうほうが、俺にとっては先なんだ。本当に悪いと思う。話し終えずには、おまえの気持ちを考えてやる余裕もない。むちゃくちゃだけど、正直に言うとそういうことなんだ。おまえの気持ちを考えるよりも、俺の話のほうが、俺にとっては大事なんだ。
 これを聞いてくれたあとで、俺を許してくれたなら、俺はおまえに――借りを返すと意味では、保険金のすべてを払ったって足りないような借りをうけることになる。
 たのむ、貸してくれ。
 話を聞いてくれ。


 話というのは、セックスの話なんだ。
 ああ、そうか――この意味でもおまえを傷つけるかもしれないんだな。俺はここでもおまえの気持ちを考えてやれない頭の足りないファッキン・ピッグになるわけだ。それはまた巨大な借りを一回り膨らませることになる。気がつかなかった。
 ごめん。どうか許せ。
 これから続くたわいもないエロ話を、どうか、聞いてくれ。そうしないことには解決しそうにない。


 俺は今年で28になるし、もう自分のことなんかで悩むことはないと思ってた。でも、そうじゃなかった。セックスについて人は死ぬまで悩む、なんて話を俺は肌で感じたよ。それは人間である以上つきまとってくる話なんだろうな。

 俺は極めてまっとうなセックスの持ち主だと思ってた。実際、俺は俺以上にまともな性欲の持ち主を知らないよ。
 男子校、大学、女子高の教師を経て、中学生相手の塾講師。これが俺の職歴だけど、これでまっとうな性欲の持ち主は俺くらいのものだと思う。
 でも本当に俺はまっとうなセックスばかりしてきたんだ。とりたてて話すことでもない、と俺自身でさえ思っているよ。


 おまえは女だから男の性欲について良く知らないかもしれない。俺だって女の性欲なんてわからないしな。
 男の性欲っていうのは、極めてシステム的にできてる、と俺は思う。
 セックスの「場面」が訪れる。それを俺の欲望が理解する。欲望は俺に単調な動きをさせる。刺激が俺に射精させる。そして終わり。それだけだ。単純すぎるから、セックス・クライムは単純なありきたりの、想像力のかけらもないようなものが数百年繰り返されるんだ。誰だっておんなじで、単純なのには変わりないのさ。
 もし男に個性があるとするなら、セックスの「場面」をどう把握するか、ということに尽きるだろう。まあ確かに、「場面」には同性の俺にも信じられないようなものを、他の男は感じたりするようだからな。それこそ、1人1人個別なセックス・シーンがあるんだろう。セックスが溢れておさえられなくなるシーン、というのがあるのかもしれない。

 俺がまっとうだと思うのは、その「場面」を理性的に設定できるところだ。
 ああ、これはひょっとして、セックス・シーンが来たのかな、ってわかって、ちゃんとその通りに感じられる。これはセックス・シーンじゃないな、するべきときじゃないな、と思ったら、感覚を遮断することができる。まあ、普通のことだけどさ。

 例えば、校長に気をつかいながら接待でピンサロに行ったことがある。前日に買った風俗情報誌の、いちばん大きなところに行ったんだ。酔っ払った校長がアホな話を続けるのをうんざりしながら聞きながら、やっと別の部屋に別れて入った時、やっとあの腐れオヤジから離れることができてほっとした、ということしか考えられなかった。そうしたら、そこには、女の子がいた。
 俺は部屋の壁の厚さを確かめてから、女の子に愚痴を話しつづけたよ。あのジジイはピンサロって言葉を俺の耳元で言いやがったとか、俺にいい店を紹介しろなんてバカなこと言いやがったとか、同僚の女の子にからもうとしたこととか、生徒のネタにしたエロ話はじめるとか、さ。このまま社会人続ける以上こういうことが続くのか、とか、オレは心底あきれてたんだよ。当時24の俺はそういう校長の存在が許せなかったんだな。
 そこにいた女の子は笑いながら、上手に話を聞いてくれたよ。所々相槌を打ってくれて。だから俺も喋り続けられたんだと思うけど。喋って喋って、喋り尽くしたかな、と思ったところで、女の子は笑ったまま、俺に聞いたんだ、「どうする?」って。
 じゃ、しようか、と俺は言った。言ったとたんに俺の欲望は目覚めることができた。こういう店ははじめてで、だいいち初めて会った女の子とろくに会話もなしにセックスみたいなことをする、なんてことはうまく想像ができなかった。俺は彼女の襟に腕を入れて胸に触り、彼女は俺のパンツを脱がせた。俺の欲望はスイッチを入れたみたいに正確に反応した。残り何分、って言われたから、その通りにすませることができた。まあ楽しい経験だったよ。最中には、校長のことなんて、すっかり忘れることができた。

 おまえと付き合ってる時だって、俺は上手くやっていただろう、と思う。俺が誘い、おまえが乗ってくれれば、俺たちはセックスをした。おまえが急にホテルの中に車を入れたときも、驚いたけど、ちゃんとすることができた。急に求めたことだってない。紳士であった――100%とは言えないが――まあ、そうであったと思う。

 なんというか、まともな反応じゃないか?



 ――俺がいかにセックスを排除できたか、を話す。

 俺が大学のとき、アホな女と付き合っていた。誰とでも付き合ってたような女だったが。
 午前中ゼミをうけて、午後の一般教科はそいつと一緒に授業を受けることにした。昼に学食で待ち合わせて。
 午後の1個めの講義は、退屈だった。なんの教科かも覚えちゃいない、ただの退屈な講義だ。
 時間を潰す方法が思いつかなかった。脇にいる女は喋っていておもしろい女でもなかった。読みかけの本ももっていなかった。二度眠って、すぐに起きたりした。講師も退屈だったのか、20分早く終わったのが救いだった。
「ねえ、トイレ行かない?」
 みんなが教室から出ていくころ、女が俺に言った。一瞬、意味がよくわからなかった。
「ヒマだったでしょ、今の授業。だからずっとHなことばっかり考えちゃった。ねえ、一緒にトイレに行こうよ。ずっとトイレですることばっかり考えちゃったよ」
 俺はこの女の顔が――それまでは、どちらかというとアクの少ない、落ちついた顔だと思っていたんだが――ブタみたいに見えたよ。下卑た欲望が顔に表れる、ってこういうことかと思った。
 こういう女はアングロサクソンにでも乗っかってりゃいい。どうしてわざわざ学校のトイレでしなきゃいけないんだ。一緒に男子、それか女子トイレに入ることからしてバカらしい。
 俺は思ったよ、この女とは、2度とセックスするか、ってな。
 俺はなるべく冷静に、その場を断った。

 いや、彼女に失礼な言い方だな、こうして今になってみると。
 彼女は欲求を解消したかっただけで、そんなことは当時付き合ってた、俺にあたるのは間違ってないことだからだ。俺にはそれを受け入れる度量がなかったというだけで。

 まあ、しかし、ダメなものはダメなんだ。俺は拒むしかなかった。
 俺には、多分、トラウマ的にそういう、軽業みたいなセックスを拒む理由があるんだよ。

 予備校の頃、高校時代からの知り合いが女の子を連れてきたことがあった。俺たちは飲み屋に十人くらいで入った。
 そこでの飲み会はそれまで経験したことがないほど、荒れた。1つしかなかったトイレに、二人づつ交代で入っていった。座敷は俺たちの貸し切りみたいなものになってて、スカートの中に頭突っ込んだままの奴とか真剣な顔でキスしはじめる奴とかいて、もうむちゃくちゃになってた。俺もとなりの初めて会った女の子のパンツの中に、ずっと指を突っ込んでた。
 何人かの女の子は始めのころに雰囲気を察して帰っていった。当時の俺はそういうコトはみっともないことだと思った。耐えられない、という一線をバラしてるように思えて、帰っていった女を軽蔑した。限界を見せるのは、すごく恥ずかしいことだと思えた。隣の女の子も積極的に参加したがってるわけじゃなかったが、帰るほどはっきりと自分をわかってるわけでもなかった、という感じだった。
 俺は男だぜ?なにを考える必要がある?
 その猥雑さは、まあ、楽しかったよ。口の中に指入れても女の子はヘラヘラ笑ってたりしてた。酒もみんなかなり飲んでいた。頭動かすより身体が動くほうが早かった。俺はかなり酔いがまわったころ、トイレでフェラチオしてもらって、射精した。

 その日の翌日はともだちの家で目が覚めた。知らない天井が見えていた。まだ夜は明けてなくて、まわりからいびきがいくつか聞こえていた。俺はしばらく動かないで知らない部屋の天井を見つめていた。煙草が吸いたかったけど、ポケットに手を伸ばすことも面倒でできなかった。ただ俺は天井を見ていた。
 もうこんなことはしたくない、と思った。自分には度の過ぎた振る舞いだった、と思った。
 大勢の人前で醜態をさらしたという後ろめたさ、相手への無配慮さ、そして全体的なくだらなさに吐き気がしそうだった。俺はこういうことを繰り返しながら、どんどん自分を卑しめてるように感じた。ひどく子供じみてる、と自分でも思ったが、それでもいい、と思った。子供の頃を憧れをもって思い出したりもした。
 これが俺の限界なんだ、と思った。
 早く家に帰りたかった。
 

 まあようするに、セックスにはルールがあるし、それを決めないままずるずる延ばしていくのはエゴを規制しないようなものなんだ。わかる人にはわかると思うんだが、エゴは自分の予想外に広がることがある。すべてが自分の支配化にあると思うことが、可能に思える瞬間がある。それは決して幸福なことじゃない。自分がどろどろの液体になって、世界のすべてを自分の身体で産め尽くさないと気がすまない感じだ。それはやっていけないことなんだ、と俺にはわかったんだよ。

 セックスのルールは、
 ・自分を含めた二人で行うこと
 ・完全な密室で行うこと
 ・相手を愛すること
 だ。

 俺のルールだ。
 誰も教えてくれなかったから、自分で作った。



 俺はいまのところ、このルールを破らずに来ることができた。うん、今でも破ってない。
 ルールを破ってない、だから俺は迷うことはないはずだ、とも思う。でも、こうして俺はおまえにくだらないエロ話をして、止まらない。ルールを守ったのに、どうして俺はこんなことを話さなけりゃいけないのか、わからないんだ。
 俺は今、ルールとかそういうもの以上のものを要求する俺を感じてるよ。また哲学の本でも引っ張りだしかねない――あんなもの、役には立たないと思いながらね。
 規範とか道徳とか、そういうものは自分で作らなけりゃならない、と俺は知ってるからな。だから、俺はおまえと一緒に考えたいんだよ。おまえしか信頼できる相手がいないんだ。
 ちゃんと聞いてくれてるか?
 ――話を続けるぞ。