蜘蛛




朝倉 海人






 水野さんには、雪を降らす力があるらしい。
 いや、僕はその話を全面的に信じているわけでもない。だけれども何となく気になる話ではないか。雪を降らせる力――僕はその見たことも聞いたこともない力に少しばかり興味を持ったようだ。
 教室では一日中その話題で持ちきりだった。雪を降らす力というのが具体的にどのような力なのか、他人伝いで聞いただけでは中々想像できないがどうやらその言葉そのままであるようで、晴れているところでも手のひらから雪が降ってくるらしい。しかし彼女が雪を降らしているところを見た人はいないらしく色々な推測が飛び交っていた。例えば、ある友人は、「水野は霊能力で降らせるのだ」とか、またある友人は、「一度、見てみたい!」だとか。とにかく僕らの周りが活気付いていたのに間違いは無かった。
 そんな力があるのならば、僕はいつか仲良くなって水野さんにその力を見せてもらいたかった。それが本当の雪なのか、いやその雪に興味があるのではないのかもしれない。もしかすると、僕が持ち得ない何かを持っているということに興味があるのかもしれない。考えただけでもワクワクするじゃないか。

 ある日、家の電話が鳴った。あいにく僕以外の家族はいなかったので、いつもは電話に出ない僕が出た。「もしもし?」と、不慣れな感じで相手の声を待った。
 「もしもし? 船井君? 私、水野だけど」
 水野さんからの電話だった。確かに同じクラスであるし、家も比較的近いというのはあるけれど、そんなに親しいわけではない僕に電話をかけてきたことに少し驚いた。僕は、「どうしたの?」と、そんな戸惑いを隠しながらこの機会に彼女に雪を降らす力のことについて聞いてみようと企んだ。
 「明日の野外学習の集合場所ってどこだっけ?」
 というのが、水野さんの用件らしい。僕はそのことについては適当な返事をし、自分の興味のあることを早く聞こうと考えていた。すると、水野さんの方からその話を始めたのだ。
 「船井君、私のこと噂で何か聞いてる?」
 僕は待ってましたとばかりに、「水野さんには雪を降らす力があるっていう話は聞いたことはあるよ」と話題をふってみた。彼女は少し溜め息まじりに、「そう……」と言い、僅かの沈黙の後に話を続けるのだ。
 「それって、本当なのよ」
 「本当っていうと、水野さんには雪を降らす力があるんだ?」
 僕は内心彼女の発言を馬鹿にしていた。人間が天候に関係なく雪を降らすことができるわけがないじゃないか、と。僕はその内心を綺麗にオブラートに包み、「じゃあ、降らせてみてよ」と誰しもが思うことを言うのだ。考えてみてくれ、この世の中に雪を自在に降らせることができる人間がいたら、それは大ニュースではないか。今すぐにでもサハラ砂漠に行って砂漠を防ぐのに一役買ってもらいたい、そういう意地悪な気持ちが僕の中で駆け巡っていた。
 「残念だけど、この力は滅多に他人に見せられないの」
 やはりだ。そんな力など実のところないに決まっているのだ。思春期によくある自意識過剰からくる妄想なのだ。しかし、これほど手の込んだ嘘をクラス中に広めることができるとは、水野さんと言う人も僕が思い描いていたよりずっと度胸があるらしい。
 「だって、そんな力が私にあるなんてわかったら、皆から気味悪がられるじゃない」
 なるほど、確かにクラスでもその話題で持ちきりになってから、彼女の扱いが微妙になっていた。自分の友達が雪を降らすことができるというのは、非科学的な上に言う自分たちまで変な目で見られる危険性がある。その点彼女の意見は同意が出来るものだ。しかし、それだけの理由で逃げられては、僕のこの膨れ上がった興味を抑えることは出来ない。
 「でも、どういうふうに雪を降らせるのかということぐらい教えてほしいなぁ」
 僕はそういうふうに彼女に迫るのだ。今は僕しか話を聞いていない。誰にも聞かれないのだ。ほら、早くいいなよ、どうせ言えやしないんだろう。僕も思えば馬鹿だった。こんな話を間に受けていたのだから。よくよく考えればそんなことありえるはずがない。雪を降らせる能力だって? 馬鹿らしい。
 「そんなに聞きたい?」
 「もちろん、是非聞きたいよ。なんて言ったって、そんな能力今まで見たことないからね」
 多少皮肉っぽくも僕の正直なところの気持ちを彼女に伝えた。水野さんは少し間を置いて、「わかった。じゃあ、どうせなら会って話しましょ」と言うのだった。僕はこの又とない機会を逃すまいと彼女と会うために待ち合わせ場所を入念に聞き、電話を切ると共に着替えて家を飛び出した。雪を降らせる能力を暴いてやると意気込んでの出発だった。

 待ち合わせの場所に行くまでのこの時間がこれほど複雑な想いに満ち溢れていることはなかった。雪を降らせるという力がどういうものかという純粋な疑問もあるし、それをどう暴いてやろうかという醜い気持ちもある。
 手のひらから舞うのだろうか。それとも何か違うものなのだろうか。僕はそのことばかりを考えながら、どうやったらその『嘘』を曝け出してやることができるだろうかということに考えは特化していった。空は雲一つない晴れた夕方の景色を映し出している。僕の心もそれに似た何一つ曇りのない明白な想いで溢れている。
 待ち合わせ場所の少し大きな公園に到着すると、水野さんはもう僕を待っていた。その表情ははっきりとは見えなかったものの焦った様子や追い詰められたというような感じは微塵もなかった。無表情に近い様子で僕を見ていた。僕はその視線に少々怖気づいたのか歩くスピードをそれ以前よりも遅くしていた。無意識に、だった。
 もしかしたらその無意識にというのは、僕が水野さんの『力』を実は恐れているのではないか? 僕はその疑問を懸命に打ち消そうと必死にそれはもう一生懸命、別のことを思い浮かべようと努力するのである。しかし、悲しいことに、「違うことを考えよう」と思えば思うほど、水野さんの姿が大きく見えるのである。あぁ、僕は水野さんの『力』に恋をしたかのような熱病を心の奥底に抱いているのだ。これは否定し難い事実だった。
 「やあ」
 と、僕が自分で考えても後悔する情けなさと間が抜けた挨拶をしたのもそれが理由だった。恐らく僕は、その言葉に似合った間抜けな顔をしていたに違いない。僕は次第にこみ上げてくるその恥ずかしさに即座に顔を下に向けた。穴はそこになかった。穴がないことを確認してゆっくりと顔を上げた。水野さんは相変わらず無表情のような顔をそこに置いていた。彼女の普段の顔色など覚えているわけもないから、その表情が彼女特有のものなのか、それとも僕に対する暗黙のメッセージなのか判断しにくかった。僕は彼女が話し出すまで待つことにした。聞きたいことは山ほどあったが、それを話させない何か特別な力(そんなもの僕は認めたくないのだが、現にこうして僕は石化したかのように口が開かない)によって僕は縛られていた。
 「何から、話そうかな」
 彼女はようやく僕に声をかけてきた。僕は安堵の様子を一面に浮かべ、ホッと溜め息をついた。あのまま無音の世界が僕を支配続けていたらと思うと僕はぞっとする。「順序良く教えてよ」と僕は水野さんに言い、彼女が促す方向へ歩みを進めた。「そうね……」と、水野さんは言ったきり少しの間黙った。唇だけが動いている。何かの呪文を唱えているかのようだ。気になって、注視していると、「これはおまじないなのよ」と彼女は僕にそっと囁いた。公園の中央から少し外れたところのベンチに腰掛け、目の前に立っている彼女を見上げた。目を閉じている。あぁ、その目を閉じている彼女は、とてもいとおしく見えるのだ。口から吐き出される白い息、ほんのり赤く染まっている両頬、それら全てに魅了されていることに気付いた僕は、次の瞬間激しく首を左右に振って否定していた。僕はどうしようもなく自己が弱い人間なのだ。今、この自分よりも身長が低い同級生のペースになっている。僕は彼女を自分の足元に屈服させるためにここにやって来たのだ。それがこの体たらくとは我ながら情けないことである。
 「雪を降らせるには、あなたの協力が要るのよ」
 彼女はそんな僕の内的な葛藤を知るはずもなく淡々と自分の『力』のことを語ろうとし始めている。僕はただ彼女の言いなりになるまいと必死に抵抗するだけのとても卑屈な人間なのだ。「どういうことだい? 自分一人で降らせられないの?」僕は当然主張するのである。「ちょっと私の目の前で立っていてくれればいいのよ」と彼女は言う。それぐらいの要求なら、断る理由が僕には見つからなかった。言われるままに、僕は彼女の目の前に立ち、今にも吸い込まれそうなその瞳を見つめた。
 「いつから、こんな力が?」
 僕は何故か小さい声で彼女に尋ねた。生まれた頃からよ、と彼女は答え、自分の一族は先祖代代そういう力を持つのだと僕に説明した。「今までそんな力を持っていたという人を僕は聞いたことない」と今度は力いっぱいに言った。叫ばないと彼女の瞳に吸い込まれそうだったからだ。「こういう力を持っていると他人に知れたら、私たち一家は世界中の人間から奇異な目で見られるからよ」彼女はそう答えた。
 僕は当然その答えには納得いかなかった。「じゃあ、今なんでそんな力を使おうとして、それを僕に見せようというんだい?」「あなたなら私の本当の姿を見ても、変わらずに接してくれると思ったから」彼女のその言葉は、僕には恐怖にしか感じられなかった。「へん。そんな力、どうせまやかしか何かなんだろ? 僕は信じないよ。いや、信じる必要がないね。君が僕のことを何でそこまで買ってくれるのかは知らないけれども、そんな科学的根拠も何もないものを受け入れられるわけがないだろう?」僕は彼女を精神的に突き放そうと必死だった。二人きりで会うのはまずかったと正直、思い始めた。この子はキチガイなのだ。だから自分が雪を降らせられるなんて平気な顔をして言えるのだ。正常な人間がそんなこと言うわけがない。そのキチガイが僕の精神を乗っ取ろうとしているのだ。ここから走って逃げ出したい。彼女が上着のポケットに手を入れた。何か凶器を持っているのかもしれない。僕が信じないということを確認したらそこで僕は消されてしまうのではないだろうか。
 「左手、見てみて」
 彼女はそう言うと、左腕を手のひらを地面に向け僕の方へ伸ばした。僕は言われたとおり、その左手を見ている。
 「ほら、雪……」
 彼女はそう呟くのだが、僕にはいっこうに雪が舞っている姿を見ることが出来ない。こんなものが彼女の『力』だと言うのか? 僕はこんな見かけ騙しの『力』に畏れ、恐怖し、憧れ、恋をしていたのだろうか。
 「子供だましじゃないか!」
 僕は力いっぱい叫んだ。「どこが降ってるんだよ。何にも見えないじゃないか! あはは。そんな子供だましで僕が信じるわけないだろう。ほら、こうやって手を間に入れても僕の手は濡れもしないし冷たさも感じない。君はとても可愛そうな人なんだな」
 僕は笑っていた。

 その笑い声が公園にこだましている。次第に大きくなっている。それはいつしか僕の声ではなく複数人の混ざり合った和音のような笑い声になっていた。僕は辺りを見回し、声の正体を懸命に捜すのだ。しかし、その作業は虚しかった。どこにも姿はなく、辺りはいつまでもただの公園なのだ。
 よく注意してみてみると、闇の割合が徐々に増えてきたようにも感じる。公園内の遊具が一つ又一つ闇に溶かされていくのだ。僕は水野さんがいたであろう場所を見直した。そこには彼女がもういなかった。
 「雪が見えないらしいよ」
 どこからか声が聞こえる。冷たい声である。
 「そうなの? 可愛そうに。脳機能に異常でもあるんじゃないかしら?」
 「冷たさも感じないんだろ? 交感神経にも問題あるんじゃないか?」
 「こんなキチガイじみたヤツがいたら、皆が迷惑だ。早く、収容所に送るようにしてくれ」
 「長い間、子孫が生まれつづければ、中には異常なヤツも出てくるだろ?」
 「早く処分しないと、ここの街自体の死活問題になるぞ。上に漏れたら大変だ」

 『 報告書
 被験者Pは流行性ウィルスによる感染が認められる。その影響により、思考的、精神的異常言動が多数見受けられる。尚、このウィルスは人体間感染をする恐れがあり、被験者は直ちに殺処分する。
 このウィルスは今まで存在したものの変異種であり、その症状は今までのウィルスのそれとは異なるものであった。発症時期の詳しいことは不明。尚、父親、母親などの血縁者を調べてもこのウィルスは検出されなかったことから、遺伝的なものではないと考えられる。』