A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる

















金魚は死にそうになり酸欠でもがく。赤い影はゆらめき、水の中で力つきた鯉のあざやかな血のように見える。わたしはこの金魚の赤は好かない。わたしが好きなのは、朱色よりも紅色に近い赤だ。だから着物も、さし色にもいつもその色を選ぶ。この金魚は好きじゃない。金魚は飾り物のような着物をまとっている。誰がこの金魚をこんなところにおいたの。早く別のところへうつして。すててしまってもいい。

佐緒里はわたしの服を脱がせ、新しい着物を持ってきて着つける。この時間がわたしはとても好き。学校に行かずにこの家で働いている、わたしより少し年上の佐緒里。学校に行かずにこの家で会長補佐(ただし、ほとんど名目だけだ。会長である兄の手伝い、簡単な事をしているだけ)として働いているわたし。佐緒里はわたしにいちばん近い使用人だ。佐緒里とわたしはいちばん仲がいい。友達と言って良い程だ。だけどわたしは佐緒里を『佐緒里』と呼び捨てにし、佐緒里はわたしを『真緒さま』と呼ぶ。

「ねえ佐緒里、お兄さまは今どちらにいらっしゃるか知ってる?ああ、もう。今日は一緒にいなければいけない日だって、お兄さまもご存じのはずなのに、どちらに行かれたのかしら」
「さあ、わたしは存じませんねえ」

佐緒里はわたしの帯を力を入れて巻きながら、そう言ったあとまた付け足す。

秀明さまも、真緒さまも、お疲れさまです。今日はわたしが、美味しいお菓子を作っておきましょう」

「わあ、うれしい。わたし、佐緒里のお菓子に目がないの」

ここは日本でも3本の指に入る老舗の和菓子屋(だけども最近は財閥化して色々な企業を手掛けている)、そして茶道の家元でもある。わたしの家は古い和風建築の屋敷だ。何人も使用人がいる。早くにわたしたち兄妹は両親をなくした。今。ここのグループの会長をつとめるのは兄だ。兄は今年で26になる。わたしは、18になる。毎日のようにお茶のお稽古にくる、兄と各師範のお弟子さんたちをわたしは迎え、そして立ち会う。

わたしは一時、頭を強く打って長く入院していた。記憶障害が起こり、ここにいる自分が誰だか、心配そうにベッドを覗き込んだ男性が誰だか、ココがどこだかすらわからない状態になった。過去の事は未だ思い出せずにいるけれど、兄から教えてもらった情報は全て把握した。年齢は18、名前は真緒、会長補佐。その頃からたびたび、脈打つような頭の痛みがやってくる。そう言う時は、兄が肩をもんで助けてくれる。

「また、痛いのか」

わたしが頭の痛みにたえる為、頭を両手で抱えると、丁度よいタイミングで兄があらわれた。どちらにいらしゃったのよ、とわたしは軽くにらんだ。兄はわたしの肩をぐっぐともみながら、笑った。兄はすっきりとさわやかに笑う。その笑顔には兄の人柄がにじみ出ていると思う。

「便所だ。便所」

兄は笑って何度もそう言いながら、わたしの首のあたりをほぐしてくれた。兄の手は相変わらずに大きく、父親を想わせる。年が離れているせいだろうか。そして、父親という存在を覚えていないせいだろうか。そこに憧れがあるのだろうか。ありがとうございます。楽になったわ。わたしは兄にお礼を言うと、兄は考え込むような仕種をした。

「頭痛がひどいようなら、病院にまた行けばいい。薬をもらったらどうだ。あ、だけど鎮痛剤は沢山とると依存症になるらしいからな。俺の妹が薬物依存なんてもってのほかだぞ」

兄はおちゃらけた様子で、わたしをこづいた。わたしは兄のななめ後ろにぴたりとくっつき、今日の仕事へとむかう。

記憶喪失になってから(なるまえからかもしれない。なにせ、覚えていないもので)、兄には迷惑ばかりをかけている。しばしば、急に謝らなければならない気がしてきて、ごめんなさい、と言うと兄はその度こう答える。

「前の真緒に戻ろうだとか、記憶をとりもどそうとか、そういう無理はしなくていい。新しく生きればいいんだよ」

兄は底なしに明るい喋り方をしている。わたしに気にさせまいとしているのだということ、それが兄の思いやりだということをわたしは知っていた。兄はいつも笑っている、笑顔の似合うヒトだった。兄の笑顔は、色にたとえるならあらいたてのシーツのような白。



この家は和服しか着ない。なぜかは知らない。わたしのタンスには、世間の若い女の子が来ているような露出度の高い物や、ぴらぴらがほどこされているスカートなんかはまるでない。着物しかない。けれど、下着はショーツを使う。ちなみに、着物なのでブラジャーは必要ない。全く意味がわからないけれど、そういうことになっている。わたしは普段着でいちばんの気に入りはくすんだ桜色小桜模様の小紋。兄は、渋い抹茶色の着物を好んでいるみたい。だから、兄の近くにいくと光合成でもなんでもやってのけるような兄の空気に包まれる。

今日も、兄は渋緑の着物を着ている。そこに黒の羽織を着ている。外出するとき、わたしたち兄妹はとても目立った。黒く長いリムジンからおりるのは、若い緑色の着物の青年と、赤い花柄のわたし。良い気分でもないし、悪い気分でもない。そして、わたしたちはたびたび、仕事で外出した帰りに寄り道をする。今日もこうして外に車を待たせ、小さな雑貨屋さんに来た。あたたかい色の蛍光灯が、わたしを落ち着かせた。

「ねえお兄さま、見て」

ん?と、兄は眉を上にあげてわたしに応えた。

「リラックスできるキャンドルですって。可愛いわ」

アロマキャンドル。もみじの形をかたどった、それらしい色をしたものだった。

「お前、これが欲しいか?」

わたしがうんとうなずくと、兄はにっこりと笑い、じゃあ買ってやると目で言ってわたしにお金を手渡した。わたしの足はとても軽く、レジにむかった。

「これを使う時は、俺にも教えろよ」

兄はわたしを先導して店から出た。

わたしは買い物がとても好きだ。買い物、という時間の過ごし方が好きだった。兄はいつもわたしに気を使って、なんら店に寄って、つきあってくれる。車に戻ると大谷さんが待っていた。大谷さんは兄の運転手兼秘書をしている。白髪まじりの髪に、切れ長の目。兄は大谷さんを信頼し、大谷さんは兄を尊敬していた。そこによい関係がうまれる。

「今日は早うございましたな。いつもならゆうに2時間は越えますのに」
「大谷の嫌みなど、聞き飽きてこれっぽちも痛くないわ」

兄と大谷さんはそうして笑いあう。ここがわたしの理解できないところだ。なるほどこれが、男同士の友情とか、そういうものだろうか。だとしたら、大谷さんと兄は年齢を越えた友情で結ばれているのだろう。

「それより、もう早く家につかせてくれ。俺は真緒とアロマキャンドルをためすのだ。なあ、真緒」

大谷さんをせかしながら(この時の大谷さんの顔と言ったら、自分の息子のわがままを聞いてやる父親にしか見えなかった)、兄の太陽の匂いのする笑顔が急にわたしにむけられた。突然だったので、わたしは曖昧に、ええ、と笑った。兄のその笑顔は、自然とわたしを笑顔にさせる。他の星から来たヒトが、おかしな力を使うみたいに突然と。だけどけして、不幸ではないの。

わたしたちは家に帰ってからアロマキャンドルを試した。ゆらりゆらりと小さな炎が揺れるのを追う兄の目がかわいらしかった。なるほど良い匂いで、わたしは落ち着いてうとうとと眠くなった。

「いい匂いだな。何の匂いなんだ?」
「カシスですって」

わたしたちはうっとりと、そのキャンドルを見つめた。炎がゆれるたびに、わたしたちの顔を照らす光の角度も変わった。いつか、炎はぼんやりと滲んでいた。

「落ち着くなぁ」

兄がぽつりと呟いた。そして続けた。

「今度は真緒がつき合えよ。仕事でない日に遊びに行こう」
「ええ。喜んで」

ダークブルーの空にはビーズが光っている。