A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













明るい光は縁側に座ったわたし達を照らす。わたし達は暖かさに身をまかせながら、熱いお茶を傍らに置いて、楽しくお喋りをしていた。わたしは、いつも仕事をしているわけではない。茶道教室の方は、そういった師範が沢山いるから、わたしが出るのは稀だ。大切なお客さまがいらっしゃるお茶の席にはわたしも同席するが。

佐緒里とわたしはいつもふたりくっついていた。佐緒里はわたしよりふたつ年上である。佐緒里には恋人がいて、わたしはよくその恋人の話を聞いた。佐緒里とその恋人は幼い頃からの友達で、途中にふたりは恋人同士になり今に至る。わたしが佐緒里にその話を聞きたがるのは、ふたりが愛しあっていることを実証するその関係の長さにまず惹かれたからだと思う。佐緒里は運命のヒトにとても早くに巡り会い、そしてそのヒトが運命のヒトであることに気付いた。とても素敵。ふたりが引き合う磁石のようにくっついて、ふたりだけの色々な歴史があり、ふたりだけにしかわからないコトバがあるのか、と思うとわたしは気持ちが明るくなった。

佐緒里はこの話を話すのを恥ずかしがったが、にこにこと日溜まり(兄は太陽、だけど佐緒里は日溜まり。わたしのなかではこうなっている)に似たほほえみを浮かべてわたしに話してくれた。わたしは学校に行かずに家庭教師で教育をうけてきたから、学校の休み時間がどうであるかなんていうのは、到底マスメディアを通じてしかわたしの中に入ってこないので、実際はどうなのかなんて知らないけれど、友達と恋の話でもりあがって、きゃあきゃあと騒ぐのは、その休み時間の風景に値するものなのかもしれない。

「それで、真緒さまはいかがですの?」


わたしに、スキなヒトは、いるのか。


わたしに好きなヒトはいたか。胸の奥の方できゅうっとしめつけられるような感覚を覚えた。心拍数があがり、身体が火照る。頭の、中の中に入り込んだ所で、聞き覚えのあるなつかしい男のコエがする。壮大な山々にこだまするようにわたしの名前は何度も呼ばれた。コエはせつなく響いた。わたしはどうしようもなくなって唇を噛んだ。真緒、という名詞はつかわれなかったように思う。だけれど、わたしはその男の発した言葉がわたしの名前であると直感した。願った、に近いかもわからない。不思議な空気に捕われ、わたしは佐緒里の問いかけに答える事も忘れて、自我の世界にもぐりこんだ。これはわたしの耳が記憶している事なのかも知れない。でももしかすると、ただの妄想かも知れない。

それにフタをするようにズキッとまた頭が痛みだした。わたしは頭を押さえた。佐緒里はなぜか責任を感じ、わたしに何度も謝った。ごめんなさい。大丈夫ですか。ああ、ごめんなさい。佐緒里は一生懸命背中をさすった。この痛みは、海色と表現すべきか空色と表現すべきか迷う遠くにある大空を見て、型にはめて後者の表現にするヒトを好かない詩人の、誰にもわかってもらえない涙のようだった。その涙に海色が写って、あなたの空になったらいいね、とわたしは空想の中の詩人にといかける。詩人はわたしを見ずに、そして振り返らずに、イスにしていた岩から立ち上がり歩き出した。それと同時にわたしのその頭痛も止んだ。

「ごめん。佐緒里に心配かけちゃって」

わたしは体勢をとりなおした。

「わたし、愛してたヒトがいた。ココロが言ってる。誰かはわからないけれど、ココロがそうやって言ってる」

佐緒里はふわりと微笑んだ。もう冬に入ろうとしているというのに、佐緒里からは春のうららかな香りがただよってくる。わたしは佐緒里のその空気に安心し、うとうとと眠くなったので眠った。佐緒里が膝枕をして、ずっとわたしの髪を撫でてくれていた。佐緒里は優しい。わたしは佐緒里が大好きだ。



佐緒里が新しくわたしのタンスに眠っていた帯留めを発掘した。ハイカラな明治時代を思わせる可愛らしい小花柄で、わたしと佐緒里は一緒に可愛い可愛いといって喜んだ。まだまだ色々な物が眠っていそうだ。何しろ、わたしには着た記憶のない着物が山ほどあるんだから、買いにいかなくとも新しいモノであるように思える。からっぽなわたしの頭に、だんだんと入って行く。佐緒里は、ハッと思いだしたような仕種をして、自分のそで口を探った。

「そういえば、これも見つけましたよ」

そう言って、佐緒里はわたしに十字架のネックレスを手渡した。この和風の家に似合わぬそれを手にした、まさにその瞬間、激しく頭が痛んで、わたしは絶えられず座りこんだ。目を強く瞑って両手で頭を押さえた。だけどネックレスは下に落としたりはせず、しかとわたしの右手におさまっている。佐緒里は、わたしの身体を支えようとした。だけどわたしは、頭を横に振り、大丈夫、と頷いた。自分で自分に言った。

「これ、わたしのモノだわ」

買った覚えも貰った覚えもないのに、わたしはそう言ってそれを自分のモノにした。佐緒里は心配そうに、わたしを見ている。そして佐緒里は、わたしの背中を撫でた。頭の痛みは留まることなく大きくなり、汗がぶわっとふきだした。呼吸が乱れて、頭ががんがんと脈打つ中、その痛みの音が聞こえるのはわたしだけなのかしらと考えたりもした。玉の汗がわたしの額に出ているのも自分で感じる事ができた。腕に、さあっと鳥肌がたったから。その症状が3、4分続き、おさまった。ふぅ、と痛みに耐えたため息をつくと、佐緒里は安堵の表情をうかべた。

「ごめんなさい。汗をかいてしまったから、温かいタオルでふいてもらえるかしら」

わたしはこのネックレスを首に飾った。あのネックレスは、わたしが触れる前にわたしの脳に触れたんだ、と直感的にそう感じた。どうしてこれを首に装着させたかは不明だ。自分のことながら、説明をつけることができない。とても自然に、あるいは本能的に、これをココにつけた。大切に触れて。佐緒里はそれを見ていた。

「その首飾りはそれほどまでに大切なものなのですか?」
「わからない。わからないけれど、大切にしなくちゃいけない気がするの。ほら、何かの形見のように思えるのよ」

佐緒里はそれ以上追求せず、わたしの着付けを開始させた。



兄とむかいあって食事をとっているときのことだった。いつもとなんらかわらない食卓風景で、和やかに話をしながらわたしたちは笑いあっていた。兄の角張った手はいつもと同じように箸を持つし、厚い唇はいつもと同じように冗談を言うし、ただいつもと明らかに違っていたのは、兄の目だった。彼の目は、白目の範囲がいつもよりひろく、生真面目で神経質そうな性格を滲み出していた。確か前にもあった。兄が知らないヒトに見えることが。

「首飾り、はずせ」

なんで兄がそんな事を言うのかは解らなかった。茶会の前にネックレスや指輪等、装飾品を探すのは常識の事だけど、こういう時まで言われる筋合いはない。だけどわたしは兄には逆らえないので、兄の言う通りにした。

「また、俺が買ってやるよ。可愛いのを」

それがあまりにも自然で、わたしはさっきの狂気じみた兄の目を錯覚だったのかもしれないと思ってしまうくらいだった。すぐにいつもの優しいお兄さまに戻った。わたしは兄に対して抱いた恐怖心がするりと紐解け、大きな安心の意味をもつため息をついた。ここでわたしはもっと疑うべきだったのかもしれない。わたしは袖口にしまった首飾りを、兄のいない所で隠れてつけることにした。


黒い髪をなびかせた。兄がいなくなってから、わたしはしかとそのネックレスをつけた。