A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













佐緒里は泣くわたしをなだめながら、車に乗せた。車に乗っている間もずっと、佐緒里はわたしの背中を撫でていてくれた。兄の骨ばった手もわたしを確かに落ち着けるが、花の香りのする佐緒里の細い指も負けずにわたしをそうさせた。佐緒里はわたしの友達と言うよりも、姉と言った方がいい事に今気付いた。わたしは肩を震わせて泣いた。過去を知らずに、今を作る為に生きるのならどうして、わたしは生きる術を知っていたのだ。赤ん坊のように、まずは泣くことから始め、立ち上がり、周りのヒトが使っている言葉を覚え、そんなふうにわたしは目覚めたかった。考える力を持たずに、目覚めたかった。

だけどそれよりも恐い事があった。もしかして、わたしの過去の写真はないのではなかろうか、兄はわたしの好きだった音楽を知らないのではなかろうか、など、そういうものだった。やっぱり、『ホントウ』ではないのではなかろうか。わたしの気の持ち様でどうにでもなる事は知っていたけど、わたしは不安で不安でしかたがなくて、我慢せずに泣いた。その時だけは赤ん坊のようだった。

「何か、甘い物でも食べましょう」

佐緒里の提案で、街角のあるカフェの横で車を降りた。佐緒里は運転手にまた電話をするからと言った後、わたしの手を優しくひいて降ろしてくれた。

「何を食べましょうか。チーズケーキにしましょうか」

佐緒里はカプチーノを、わたしはチーズケーキとオレンジジュースを頼んだ。わいわいがやがやとしたカフェは、活気に満ちていた。近所のおばあさん達が連れ添って来て、お茶を飲みながらお喋りしたり、恋人同士でやってきてふたりで内緒話をして笑いあったり。わたしはそれをしゃくりあげながら見ていた。空がとても青いので、オープンカフェの方は眩しく光って見えた。

佐緒里はニコニコ笑いながら、色々な事を話してくれた。使用人の間でブームになっている遊びや、うわさ話、使用人の中でいちばんモテていたという男の子が実は他の女の子数人に手をつけていて、それがバレていちばんモテない男の子になった話。佐緒里は面白おかしくそれを話したので、わたしのウサギになっている目もしだいに戻り、いつの間にか笑って話に入り込んでいた。

その時だった。向こうの方で、かん高い悲鳴と共に、がちゃんとガラスが割れる音がした。ごめんなさい、と謝るコエの持ち主はそれを拾う手伝いもせずにわたしの方へ走ってきた。ひどく取り乱していた。

「綾香?」

激しく戸惑った調子で、わたしはそのコエの主にぐいと肩をつかまれた。強い力で急にわたしの肩をつかんだのは、背が高くてふんわりとした茶髪にピアスの男のヒトだった。わたしは言葉が出なくてただそのヒトを見つめた。佐緒里がびっくりして言った。

「その手をはなしなさい。その方は綾香などという名前ではありませんよ」

わたしは身体をちぢこめた。男のヒトは、謝った。だけどそのヒトはわたしの何かを確認して、近くにあったフキンに自分の名前と携帯電話の番号を書いた。

「もしよければ、連絡下さいませんか。貴方と話がしてみたいんです」

そのコエはわたしの胸に甘いうずきを生んだ。

「どなたかは存じませんが、貴方、失礼ですよ」
「受け取っておきますわ」

佐緒里をとめて、わたしはそのフキンを受け取り財布に入れた。彼は、わたし達に一礼をし、ガラス処理をしているウエイトレスにもう一度しっかりと謝り、手伝いにあたっていた。

わたしはそのフキンを見た。お世辞にも綺麗とはいえない字で、持田シンヤと書かれていた。