A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













久々に出席した茶会はたいへん楽しいもので、気分も落ち着いた。兄が立ち会っている。わたしはお弟子さん達に何も教えず、ただお手前をするだけでいい。楽だ。さらさらとお茶をたてる音が、わたしの好きな音だ。今日は寒くもなく暖かくもないが、わたしの頬はいささか紅潮していた。

あれから、兄にたずねたことがあった。わたしの過去の写真をどうしてみせてくれないの。見せられないならそれに対して、理由があるの。わたしは本当にお兄さまの妹なの。わたしはここの家の住人なの。わたしは実は他人なんじゃないの。兄ははじめあっけにとられたが、わたしの真剣な顔を見て、ふうとため息をついた。

わたしをからかうような顔で、こっちへ来いと手招きをする。わたしはそれに黙り込んでついていく。覚悟をこの時決めたのだった。わたしたちふたりは倉庫に着いた。兄は、ごそごそと奥の方に入って行き、一冊のアルバムをだしてきた。それを開くと、幼いわたしと小学生くらいの兄が写っていた。面影がありありとのこっており、確認できた。

「で、誰と誰が他人なんだっけ」

兄の自身に満ちた顔を見たら、なんだか泣けてきてしまった。そして、お医者様から言われた事を話した。

「無理させるのをやめようと思ってしていた事が、余計に無理を強いていたんだな。ごめんな」

兄はそうしてわたしに詫びた。わたしはわんわんと泣いた。兄は切なそうにわたしを片腕で抱き締めて、ぽんぽんと肩をたたいた。兄の腕っぷしは、強いけれど優しくて、また涙が出た。不安な気持ちはそれによって浄化され、証拠物品はわたしを安息へと導く。天井の低い倉庫は暗くてしめっぽい匂いがしていた。


外に出ると雨が降っていた。雨の匂いをわたしは吸い込み、はあとため息をひとつついた。佐緒里が、兄が書斎に来いと呼んでいる事をわたしに伝えにきたので、わたしはそこへ向かった。稽古を終えた兄は、さっさと歩いて書斎に行き、処理せねばならない書類等を片付ける仕事に入った。わたしもその仕事を手伝う。兄は淡々と仕事をこなしていく。兄がどんどん仕切ってくれるので、わたしは何の迷いもなく仕事に打ち込める。しんと静まった書斎にある音は、雨の音と書類をめくる音だけで、ひとりでいるのかと思うくらいだった。

兄は顔に似合わず色々な本を読む。というのも少し失礼かも知れないが、兄のこのおちゃらけた様子からは想像できないくらいに、あの頭の中には沢山の知識がつめこまれていることだろう。書斎は、仕事をするだけの場所でなく、恐ろしいくらいの量の本が本棚に並んでいる書庫でもあった。物語とか自伝とかそういう物の他にも、和菓子についての資料とか、他にも様々な史料などが並び、入ると印刷物独特の匂いがする、ここはまるで小さめの図書館の様。わたしはここが好きだった。

書斎での仕事が終わってから、わたしと兄はここでよく一緒に本を読んだ。ここにあるほとんどの本は、兄がこれまで生きてくる中で読了していったものばかりだ。よくもここまで出来たなあとも思う。 だけどテレビゲームもないし音楽コンポもない(ここは、そういったハイテクな機械はほとんどなく、生活する上で必要な冷蔵庫だとか電話だとか洗濯機とかそういうもののみ置かれている)し、こんな家で暇を潰すには読書をする他ない気もする。

すると佐緒里は、わたしたちふたりに温かい緑茶を持って来てくれる。一緒に、佐緒里がよく作る小さな可愛らしいお菓子も持って来てくれる。兄もわたしも佐緒里のお菓子のファン。兄は佐緒里が来てくれると大喜びし、

「今日のお菓子はなんだ?」

と言う。佐緒里はくすくすと笑って、兄にお皿を差し出す。仕事を終える時間は8時くらいで、それからごはんも食べずに10時頃まで本を読むから、佐緒里のお菓子はほとんど夕食のかわり。兄は甘い物が大好きで、佐緒里の作った物を美味しい美味しいと誉めたたえ(過言ではない)ながら食べるものだから、佐緒里はしだいに照れたようなくすぐったげな笑顔になっていき、いい気持ちになって、誉め過ぎですわ、と言う。わたしはふたりのそのやりとりが好きだった。たまに、佐緒里と兄が恋人同士になって結婚しちゃえばいいのに、なんて思ったりもして。だって、ふたりが結婚したらわたしは佐緒里を姉と呼んでもいい立場になるではないか。だけどそれは無理だと言う事はもう既にわかっている事だ。佐緒里には運命のヒトがもうすでに現れているから。

そういえば、兄に恋人はいないのだろうか。いや、いないはずはない。だって、お弟子さんの間でもあんなに人気なんだもの。だけど兄から恋人の話は全く聞いた事がない。以前、兄に一度聞いてみたことがあったけれども笑ってお茶を濁し、いつもの調子で軽口を叩いてその話を終わらせてしまう。軽く流されてしまったけど聞かれたくないことなのかなあとも思い、そら以来一度もその話は聞いていない。気になっていないといったら嘘になるけれど。色々考えながらページをめくる。兄の恋人の事を考えてしまったのは、今読んでいる小説の主人公の恋人が登場したからという事と、ふたりのあのやりとりを見たからというふたつの条件が重なったから。


雨は増々強くなって行き、がたがたと扉が震える音が聞こえた。兄はもう部屋を退出している。まぶたが重くなり、腰をあげてわたしも寝室へと向かった。なんだか書斎で音がしたが、風のざわめきであろう。