A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













あの泥棒は、ただの泥棒ではなかった。

別の組織からの企業スパイで、我が家の大事な書類が盗まれた。あの泥棒は捕まって、どれだけ尋問されても何も言わないと言う。その書類は書斎に保管してあった。だけどどうしてそれを盗む事ができたのか。わからない。もしかしたら、ずっと前の雨の日に、書斎で物音がした気がしたのは風のいたずらなんかじゃなくて、あのスパイが入りこんでこの書類を探していたからなのかもしれない。だとしたらわたしの責任だ。わたしがあの時もどっていたら。あの時疑っていたら。

兄は険しい顔をして毎日仕事をしている。わたしも手伝おうとしたが、わたしは無力で、大谷さんにはねのけられた。大谷さんは優秀で、さすがは兄の片腕、頭が切れる。兄は盗まれてしまったものはどうしようもない、と言って新しい計画などを練っている。毎日毎日会議が行われている。兄も大谷さんも、その他の重役、役員の人々も闘っている。

大谷さんは兄が何かを言う前にサッサと気付いて目の前の仕事をどんどんこなす。組み直さなければいけない方針など、どんどん進んで行く。

わたしも、この家の娘だ。グループのことは兄がやるとしても、せめてお作法の稽古についてまで心配させては面目がたたない。わたしはこちらのことはしっかりせねばならない、として、この家で『師匠』と呼ばれる立場のヒトをすべて呼んで、徹底的にプログラムを組んだ。今まであまりお稽古に顔を出した事はありませんが、これからは一般のお客さまのお相手をする師範軍にわたしも加わります。

兄は疲れていつもごはんを食べずに寝てしまう。兄とて、まだ26歳の青年なんだ。疲れるに決まっている。重役は大抵50、60のお年を召した方ばかりだから。日に日に疲れた顔をしていっている気がする。だけどわたしの前では明るく振る舞う、兄が痛々しかった。どうしたら兄に元気になってもらえるだろう。いつもわたしがしてもらってばかりだから、わたしも何か返せるなら返したい。わたしは考えに考えた末、いつかのアロマキャンドルをまた買ってくる事にした。

佐緒里はそのアイディアに賛同し、ついて来てくれた。誰にも内緒で。久しぶりに出た外の空気はまた活発にヒトの出し入れが行われて、猫背のサラリーマンは疲労に満ちた青い顔をして携帯電話で喋っていて、その横には、男の話で夢中になっている茶色や金色、色とりどりの髪の毛の女の子たちがいて、その子たちにコエをかけようかと悩んでいるロンゲの男の子が煙草を忌々し気に、そして甘い気持ちでポイ捨てしそれを踏んでいた。青い海のような情景にわたしはぼうっとした未来を思い浮かべた。青い海でも、日本のゴミに満ちた海水浴場のような雰囲気。決して、熱帯魚なんて望めない。

佐緒里とふたりで着いたのは、オレンジ色っぽい照明が可愛らしい小さな店で、おもちゃばこのようにぎゅうぎゅうにつめこまれた店内を見ていると、しばし家での喧噪を忘れてしまった。佐緒里は頬を紅潮させて、ピンク色の手帳を買った。わたしは、お目当てのアロマキャンドル(ここのは、前に買った和風の形をしていなかった。お風呂で灯しながら入れるらしく、丸いお皿がついている)を見つけてそれを買った。着物姿のわたしたちは完璧にこの店で浮いていたが、だけどかなりわたしもどきどきした。興味深いものが多くて。

ろうの匂いをかぐと、あのカシスの匂いがした。いい匂い。早く兄にプレゼントしたい、その一心でわたしたちはまた灰色の満員電車に飛び込んだ。ヒトの様々な匂いが混ざる満員電車。わたしの嫌いな乗り物だ。だけどそれも我慢しなくちゃ、家には着けない。


黒い毛布をかぶされた屋敷では、また疲れた様子の兄の姿が伺えた。いつ言おう、いつ言おうかな、とわたしはわくわくと空想する。佐緒里が、今です、今!と合図を送った。兄がお風呂に向かう時にわたしはそれを手渡した。兄はきょとんとして、円形の皿つきのそれを見た。

「これね、ほら、アロマキャンドル。お兄さま、この頃お疲れでしょう?だから、リラックスしてもらおうと思って。お風呂で浮かべて使えるんですって。灯りは消して真っ暗な中でね。どうか、お試しになって」

兄はゆったりとした笑顔を浮かべた。コトバはなくても、それは最大級の感謝の気持ちがこめられていた。それがわたしに伝わったので、わたしも思わず笑顔になってしまった。兄がアロマキャンドルを浴室で使うシーンを思い浮かべた。兄に喜んでもらえて嬉しかった。

「お前のおかげで、明日もがんばれるよ」

わたしは、チャイニーズレッドのキャンドルにめまいを覚えた。兄はわたしに微笑みを送り、髪を撫でた。