A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵の同じ。

平家物語の冒頭ばかりを思い出してはくり返しくり返し口の中でコエにせずとも唱えてみた。どうにかなってしまえばいい。かたむいた壁なんて。栄えたらきっと必ず衰える時が来る。流行だって必ず去って行く。そこまで考えてわたしは、頭を抱えた。

大谷さんに聞いた。兄はここ何日か寝ていないらしい。そしてわたしは兄とは同じ所に住んでいながら1ヶ月も会っていない。兄はお風呂すら入る時間がなく働いている。

前の泥棒に盗まれた書類の件がやっと落ち着いたのにまた事件が起こったのだ。うちのグループの中の企業の不正が四つも立て続けに明らかになった。生産地や賞味期限の偽り。

兄はかり出されて、大勢のマスコミの前で頭を下げた。そこの副社長の判断でやったことだと言われている。だけど、そんなことができるわけがない。もっと上の連中が関わっているに違いない。そして、副社長を買収し責任をとらせたのであろう。上の連中と言ったら重役だ。わたしも知っている顔だ。もしかしたら、兄も関わっているのかもしれない。と、そこで思考をストップさせた。このままじゃダメだ。疑心暗鬼になってしまっている。とにかく、あの事件のせいで茶道の教室をやめるヒトが目立つ。どうすればいい。わたしは考えている。

悩んでいると、佐緒里がわたしにお茶を持って来てくれた。わたしはそれをひとくち啜った。ほどよい熱さで、口に入るとじんわり苦くて、わたしのノドをゆっくりと通って行く。わたしは深いため息をついた。佐緒里は眉をひそめた。

「真緒さまもお疲れでしょう。どうか、今日はおやすみなさいませ」

つかれてかちかちの身体とココロに、佐緒里のコエはやさしく、つい眠ってしまいそうになる。いけない。わたしはまだ寝てはいけない。佐緒里は心配そうな顔でわたしを見つめている。もう11時になる。その時初めておもてが暗くなっているのを知った。夜の匂いがするのも忘れて仕事をしていた。驚いた。電気をずっとつけっぱなしていたせいかもしれないが。

「あの、差し出がましい事かと思ったのですが」

佐緒里の表情は浮かない。わたしには、佐緒里の黒髪と白い肌がやけに目についた。

「真緒さまと秀明さまは喧嘩でもなさったのですか?」

わたしはきょとんとした。どうしてそんな事を思ったのか理由を聞くと、兄が最近わたしを避けているように見えるらしい。そんな事は気のせいだわ、とわたしは笑い飛ばした。だって、兄はわたしを世界でいちばん可愛がってくれているのだから。わたしは、そばに置かれたウサギのぬいぐるみをちらりと確かめるように見た。

「なら、どうして真緒さまにお会いしようとなさらないのかしら」

わたしが最後に兄と会ったのは、動物園に行ったあの日。その日以来。あの日に不正が明らかになり、マスコミに追われ警察に追われ、事情聴取だの家宅捜査だので忙しかった。こんなに会わなかった日はなかったので、わたしは何だか不安になってしまった。すると佐緒里はハッとわたしの様子に気がつき、

「無神経なことを。どうかお許し下さい」

と頭を下げて詫びた。いいわ、気にしないで。佐緒里は顔をあげた。わたしは障子を明けて空を見た。死んだ生き物の魂が集結した夜空は光り輝いている。わたしもきっとあそこに行ける日が来て、その時はきっと空を飛べるんだろうなあと空想の世界に浸った。疲れているせいか、まわらなくてもいいところまで意識がいってしまう。だめだ、睡眠をとろう。わたしは床についた。

お兄さまはどうしているのだろう。佐緒里の言う通り、わたしを避けているのだろうか。だとしたらどうして。笑顔は宝物だと思う。だってわたしは今、笑えない。わたしはウサギのぬいぐるみを布団の中で抱き締めた。