A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













兄はわたしを殺さなかった。わたしは兄の一方的な愛情と共に、何度も求められ、それを受け止めざるをえなかった。だってわたしは兄に逆らう事が出来ない。これまでわたしを想い、わたしの為に行動してくれた兄を。言い知れぬ虚無感と脱力感はわたしの身体を寝かす事でなくせばいい。

天気のいい夜が続いた。わたしは再び、夕食後には空や月を眺めて昨日との色の違いを、自分の脳に取り込んだ記憶と言う不確かな物で、比べては遊んでいた。雲のない空は嫌いだ。つかむ希望すらなくなるから。

最近はまったく仕事をせず、茶会にも出ず、本ばかり読んでいる。兄がそうしろと言ったからだ。人前に出すのが惜しくなったらしい。そして兄のお酌をする為、兄と夜を共にする為だけに毎日生きていた。

兄は何度も何度もわたしと罪を犯した。兄は毎夜、わたしの寝室に通った。それを使用人たちは見てみぬふりをした。ようやくまたグループも起動に乗り始めたのだ。それも全てまではいかないが統率者が兄だったから(沢山の優秀な従業員がいるから)こそ成り立ったからだ。それを使用人達は知っていた。だから誰も何も言わなかったし、まして週刊誌に情報を売ったりするような者もいなかった。

毎日、それでもわたしは生きなくちゃいけなかった。いっその事、首を絞め兄だけの物にしてしまえばいいと思うけれど、兄はわたしを道具として扱った事は1度もない。女として、女としていつもいつも扱った。落としてしまえばパリンと割れてしまうガラス細工の人形に触れるがごとく、わたしの頬を撫でていた。兄は愛情に満ちあふれた優しい抱き締め方をした。

兄はわたしをこうして愛し始めてから食欲だってもとにもどった。それでいい。それでいいのだ。それで。

兄は言った通り、わたしを、世界でいちばん可愛がってくれている。そしてわたしは願った通り、兄の障害を克服するお手伝いをする事が出来た。

兄が去った後は、いつも脱力感に襲われる。手は震えてしまい、それが伝わって身体に力が入らなくなって、わたしはどうしようもなくなり、ぎゅっと枕に頭を押し付け、乱れた髪を実感することで忘れようとする。その時に決まって溢れるのが涙だった。


いくら自分に言い聞かせたところで、血の繋がりを信じていたわたしには痛かった。兄妹、それ以上に愛しあってもいいのだろうか。いや、それはタブーとされていることだ。

できたらわたしはもっと違う形で、お兄さまに恩返しがしたかった。わたしの涙は枕に滲みて行く。滲みた涙はじんわりと拡がる。わたしはぼうっと十字架のネックレスをかけた、前に兄に買ってもらったウサギを見つめた。その時だった。

「真緒さま」

佐緒里がわたしを呼んだ。わたしはぎくりとしていつもの脱力感と戦いながら振り返る。佐緒里は泣いていた。

「申し訳ありません」

手を床について、睫すら床を這うくらいに頭を下げて、月明かりに照らされ影しか見えない中、佐緒里は謝った。わたしはぎょっとした。顔をあげてよ、とわたしは佐緒里を見た。佐緒里は肩を震わせ、もう一度頭をぐっとさげて立ち上がった。そして、佐緒里は頭を低くしながら、わたしを兄の秘書の大谷さんの部屋に招いた。大谷さんは、わたしに荷物を差し出した。そして言った。

「このままではあまりに貴方さまが可哀想すぎます。わたしの知っている事全てをお教えします」


真緒さまは1年前のある日、崖の下で発見されました。そして警察に言うか言うまいか悩んだ末に、秀明さまのご判断でこちらのお家のご令嬢としてお育てすることに決まったのです。そして秀明さまは、真緒さまのお兄さまではありません。真緒さまの本当のお母さまの弟なんです。だから貴方さまから見て、叔父さまと言う事になります。貴方が持っていた荷物、財布のみでしたが、その中に入っていた家族写真でわかりました。
秀明さまは極端に貴方さまの記憶が戻るのを怖がっておられました。貴方さまがお持ちでいらした財布も写真も、身につけていらっしゃった首飾りもこのじいが保管していたのです。貴方さまには決して見せるなと言われていました。だけどある日首飾りがどんな道でかは存じませんが貴方さまの手に渡った時、秀明さまは激怒なされました。貴方さまの記憶が戻るのを恐れての行動でした。貴方さまの前に一時姿を見せなかったのも、秀明さまの理性の部分の働きでしょう。だけど貴方さまと会って、ぼろぼろに疲れたココロを前に貴方さまを美しいと感じてしまって、貴方さまを抱き締めずにいられなくなってしまった。

秀明さまには前に恋人がいらっしゃいました。その恋人はある日事故でお亡くなりになられたのですが、ふたりはとても愛しあっていながら、いや、いたからこそなのか、肉体的な関係はお持ちでいらっしゃいませんでした。もっと抱き締めてあげていたら、と秀明さまはそれを悔やみました。言葉だけでは伝わらぬものが、この世にはあるというもの。そして真緒さま、貴方さまはその恋人に似すぎているのです。秀明さまがこの家に引き取る事を決めたのは、多分それがきっかけかと思われます。

一時、同じ屋敷内に居ながら、全く真緒さまに会おうとなされなかった時がございましたでしょう?それは多分、ご自分の真緒さまに対する気持ちがどんどん大きくなってしまって、会ったら最後、歯止めがきかなくなってしまうとお思いになったからでございましょう。だから、忘れようとなさったのでしょう。このじいの勝手な推測でございますが。だけど、忘れる事は出来なかった。

そうして、秀明さまは血の繋がりがあるとご存知ながらも、貴方さまを愛してしまったのです。



大谷さんの目からも大粒の涙がぽたりと溢れた。

「申し訳ございません。私の力がないせいでございます。貴方さまを苦しめる事になってしまった」

「わたしは真緒さまの本当のお名前は存じませんが、多分、以前病院帰りに会った少年が呼んだ名前かと思われます。どうか、朝が来る前にここを抜け出し逃げて下さい。できたら1日で行けるだけ遠くにお逃げ下さいませ」



わたしはもう、ここにはいられない。