A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













わたしはウサギの首にかかっていた十字架のネックレスをしっかりと首に垂らし、財布とわたしが持っていたと言う家族の写真を、佐緒里が用意してくれた洋服と下着の入っている鞄にそっとつめた。そして、逃げ出した。月がわたしのみちしるべとなってくれていた。佐緒里と大谷さんには、また連絡をいれることになるだろう。星がよく輝く時間に、久しぶりに着る洋服(タートルネックのセーターにコート、黒い色落ち加工のパンツ。つばの広い帽子。佐緒里がこの日の為に選んできてくれていたらしい)で、わたしは外に飛び出した。

とにかくわたしは猛スピードで走って最寄りの駅を目指した。そこでわたしは愕然とした現実につきあたってしまった。だめだ。とっくに最終列車は行ってしまっている。あと2時間は待たないと、始発列車はこない。わたしは24時間営業のファミリーレストランに入ってココアでも頼み、仮眠することにした。その間にも不安が胸をざわつかせる。まだわたしが逃げた事を知られてはいないだろうか。大谷さんも佐緒里も無事であろうか。

そう考えながら、わたしはくたびれた写真を出した。わたしはまだ幼くて、父親だと想われるヒトにだっこされ、母親らしき若い派手な顔の女性はめいっぱいにシアワセを感じながら笑っている。父親の方には何も想わなかったが、なぜかこの女性を見た時は、あ、お母さんだ、とすぐに理解して頷き、愛しさや懐かしさまで蘇り、それはわたしの胸中を支配した。ただ、この母を見て、長生きはしないタイプだろうと確信に似た気持ちで思った。

そうこうしているうちに、出されたココアにも気付かず、わたしはこくりこくりと夢の世界に吸い込まれた。店内の温度が心地よくて、わたしの眠気に火がついたのだ。胸にある不安感が影響したのか、良くない夢を見てしまったものの、眠る事はできたので結局はよかったのだろう。腕時計の針の音で目をさましたわたしは、始発に間に合う時間通りでほっと胸を撫で下ろした。手元に置いてあったココアはすっかり冷え込んでいたが、わたしは流し込むようにそれをのみ、それからすぐに来たオレンジ色の電車に流れ込んだ。

ヒトは速すぎるせいかあまりいない。スーツケースを持ったヒトたちが、何人かちょこちょこと間隔をとって居て、旅行にでも来ていたのかなあと想像した。窓越しに見る外の景色はまだ暗い。

そういえば、わたしには行くアテがない。わたしは目が渇いてしまったので、そのまま閉じた。じんと痛むけれど、水分ですぐに満たされた。行くアテがないわたしは、どうすればいいんだろう。誰にも聞けないから、わたしは自分で考えねばならない。ただそれに不安はない。身体ひとつあったらお金や住む家がなかったとしても、ゴミでもあされば何か食べれるし、どこでだって眠る事はできるんだから。わたしはどくどくと高鳴る鼓動と共に、眠らずに電車に乗り続けた。

その時のわたしにとって、時間なんていうものはどうでもいいことでしかなかった。だって、窓の外を見れば夜明けが近くに来ているのもわかるし、これからなるであろう朝焼けだって確認することができるのだから。夜明けの、あの独特な風は、何しろ電車の中に居るものだから感じる事はできないけれど。

わたしは何も考えずに鏡をとりだして自分の顔を見た。おそろしいほどにこの写真の母にそっくりなことに気付いた。黒目がちな目に、白い肌に、この唇もこの鼻も。長生きはしないタイプだろうな、とわたしは自分を皮肉ってあざ笑った。

その時、じっくりとわたしの顔を照らす光の強さに目を細めつつそちらを向くと、朝焼けと言うめまいを誘うそれが顔をだしはじめ、街一体を一色に焼き込んでいた。夕焼けは明るさを奪い、闇と静寂を連れてくる。朝焼けは闇から光を発して滲ませ伝える。ポジティヴなのはどちらかというと後者だ。だけど、激しく動いた時間に眠りと言う安らぎを与えてくれる夜が来るのは夕焼けあってこそなので、そう考えるとどちらも前向きな気持ちで営まれている自然現象なのだという結論に達する。意識次第でどれだけでも変わる事ができる。不安を胸に巣食わせながらも、希望はあるのだ。

「貴方さま自身の幸福を願いなさい」

大谷さんが別れ際に行った事をふっと思いだした。わたしのシアワセを願ってくれる大谷さんと佐緒里のふたりには、最後までわたしの脱走は知らないふりをしてくれと頼んだ。わたしを善意で逃がしてくれたことが、兄の耳に伝わってしまったら、ふたりはきっと大変な罰をうけるのではないかということを予想したからだ。そしてきっとわたしは貴方達を忘れはしない。




ある駅で、わたしはココでないといけない気がして下車した。首に通された縄で、まるでグイグイと引かれるように。すうっと深呼吸をした。無意識に、ココの空気を吸った事があると思った。真緒としてでなく、もうひとつ前のわたしがココの地に立っていたのは確かだろう。わたしははずむように駅を通り過ぎた。今日は休みの日だからか、沢山のヒトが買い物やらで出ていた。人込みがわたしを商店街へと流した。

「綾香ちゃん!?」

わたしはその名前に反応して振り返った。小さな女の子を連れた茶色の髪の女のヒトがわたしを見てとてつもなく吃驚した顔をしていた。そしてその顔はすぐに喜びの表情に変わった。

「綾香ちゃん!本当に綾香ちゃんじゃないの!死んだって嘘だったのね。ひどいわ、もうどこにいたのよう。あたし、すごく会いたかったのよ」

この女性の慣れた態度といい、わたしの知らないわたしはきっとこの女性と仲が良かったのだろう。そしてまた、わたしも親しくなれるような気がして、このヒトは信じられそうだと根拠のない想いもわいてきた。この場所はわたしを知っている地だという気がしたのは、ただの空想ではなかったらしい。ずきんずきん。頭痛が久々に起こったのは、色々な事に触れ過ぎて思いだしそうだからなのだと思う。