A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













女性の名前は松浦サラさんといった。サラさんのお嬢さんの名前はミヤビちゃんといった。クルクルと巻かれたふわふわの猫っ毛の持ち主であるミヤビちゃんは、サラさんにそっくりで美人な子だった。サラさんに、この1年間あったことを話した。サラさんは重苦しい顔をひとつもせずに、笑った。

「じゃあなおさら。会えて良かったわ」

サラさんはわたしを家に連れて行ってくれた。そして、あたたかいコーヒーをいれてくれた。サラさんがミヤビちゃんのために作ったと言うクッキーも添えてくれた。わたしはそのもてなしのおかげで、胸がほんわりとあたたかくなった。わたしが今まで一緒に居て落ち着いたのは佐緒里で、サラさんは佐緒里のタイプとは全く違えど、このヒトと一緒に居ても落ち着けた。

「でも確かに。あたしの知ってる綾香ちゃんと真緒ちゃんは別人だね。綾香ちゃんは自分のコトを『あたし』って言ってたけど、あなたは『わたし』の方を使ってるもんね」

サラさんはにっこりと笑った。そうだったんだ、とわたしは頷いた。ミヤビちゃんは、おやつを残してすっくと立って、たたっと子供の部屋に走って行った。サラさんはそれをまったく気にせず、コーヒーをひとくち啜ってわたしに質問を投げかけた。わたしはクッキーをひとつ頂いた。

「どうやって、ココに戻ってきたの?」

それはわたしに聞かれてもわからないことだった。わたしの意志ではあったけれども、無意識にココだと思って駅を降りて、そしてひかれるままに歩いたから。わたしがそれを伝えると、サラさんは大きな目を少しだけ細めて眉をひっそりとさせた。わたしはじっとサラさんを見つめた。何を考えているのだろう。どうしてか、このヒトの仕種と言うのは好感的だ。

「シンヤくんに、連絡してもいいかしら。あ、シンヤくんが誰だかわからないか」
「あ、いえ。わかります」

わたしの中に、あの名前が思い浮かんだ。持田シンヤ。わたしにコエをかけてきたあの男の子。背が高くて、茶色い髪をした、耳にひとつピアスがあいていた、あの男の子だ。サラさんが、持田シンヤの連絡先を電話帳で調べ始めたのをわたしが止めて、自分の財布をひろげて、あの時持田シンヤがメモをしたフキンをとりだした。ずっとこれはココにいれっぱなしになっていたのだ。持田シンヤという名前と電話番号が男の子の字で、乱雑に書かれてあった。

サラさんにわたしはそれを手渡すと、サラさんは自分の携帯を取り出してそのメモにある番号をプッシュしだしたその時、わたしの鼻孔がサラさんのものだと思われる甘い香水の匂いにくすぐられて、わたしはぼんやりとした気分でそのプッシュする指先を見ていた。すぐに持田シンヤは電話に出たようだった。

もしもし?わたし。松浦サラと申しますけれども。
そう。綾香ちゃんと同じ職場だった。覚えてくれてるかしら?
貴方、前に綾香ちゃんに会ったらしいわね?
今、あたしんちにいるんだけど。そう。綾香ちゃんが。
シンヤくんはあたしんちわかるかしら。
えーと、商店街を東に行って交差点を曲がった所のアパートなんだけど。
『サンガーデン』っていう名前よ。B館の102号室。
わからなかったら、あたしのこの番号に電話してくれればいいから。
じゃあ、待ってるわね。

サラさんはそれだけ言うと、プツっと電話をきってテーブルに置いた。わたしの身体は堅くなってしまった。あの男の子が来ると言う事で、緊張しているのかも知れない、と思った。黄色い光が窓の外から白いレースのカーテンごしに中に流れ込んでいる事を確認すると、わたしはサラさんに聞いた。

「持田シンヤ…くんと、わたしはどんな関係だったのですか?」

はしたないかもしれないけれども正直、これが気になった。彼に関しては。どうしてあんなに危機迫る調子でわたしにコエをかけたのか、どうしてわたしと話をしたがったのか、とても気になっていた。そしてわたしはどうして彼の連絡先をうけとったのか。サラさんは一息後、言った。

「恋人同士だったのよ。一緒に暮らしてたの」

恋人同士だった、一緒に暮らしていた、というフレーズが頭の中で何度も響いた。想像もつかない。わたしが自分の事を『わたし』ではなく『あたし』と呼んでいた頃、持田シンヤをわたしはどういう瞳で見つめ、どういう風に彼を好きになって、彼もどういう風にわたしを好きになって、またどういう気持ちで一緒に生活をしていたのだろうか。わたしには想像も出来ない。あの時わたしにコエをかけて、佐緒里に怒られながらもわたしにメモをわたして話をしたがった、理由がわかった気がした。彼はまだわたし、『綾香』を愛しているのだと思った。

「きっと、あたしよりシンヤくんの方が色々わかると思うわ」

どんどんどんどん、わたしの中で疑問は増える。持田シンヤと一緒に暮らしていたというのなら、わたしの両親は一体どうなっているのか。結婚していた?でも、サラさんはわたしたちの事を恋人同士だったと言ったから、そんなことはないのであろう。わたしの母親だというのはあの写真の、派手な女のヒトだ。お兄さま(いえ、彼はわたしにとって叔父という立場だった。だけど言い慣れないから、この呼び名は変えずにいこうと思う)の姉である、わたしの母は今どこで生きているのだろうか。それも、持田シンヤに聞いたらわかるのだろうか。わたしは混沌と広がる疑問が自分の頭を征服する感覚を覚えながら、じっと持田シンヤの到着を待った。


持田シンヤは20分後くらいにここに到着した。ピンポンというチャイムが無神経になって、サラさんは彼を出迎えた。

「こんにちは。お久しぶりです」
「ええ。久しぶりね」
「あの、早速であれなんですけど、綾香は?」
「あっちにいるわ。どうぞあがって」

聞き覚えのある低いコエがわたしの耳に入って来た。わたしの前に姿を現した彼は、はあはあと息切れをしていた。急いできたのであろう。わたしは彼を想った。

持田シンヤは心底切ない顔をして、その整った顔を歪めた。

持田シンヤはじいっとわたしを見つめた。前にも感じたことのある、甘い疼きがわたしの身体を支配した。彼の瞳にわたしは確実にうつっていて、そして彼は自分の姿がわたしの黒い目にうつっているのを確かめようとしている事がわかった。彼の瞳は、わたしの真っ黒な目とは違って少し茶色おびていた。わたしはくらりと頭が揺れて、途方に暮れるのを感じた。

彼は何も喋らずにそこに座っている。サラさんは気をきかせてくれたのか、黙って別の部屋にうつった。多分、ミヤビちゃんのいる部屋であろう。わたしと彼の間にしっとりとした沈黙の時間が流れる。早くこの沈黙を破ってくれないとどうにかなってしまいそう、とわたしは無意識に想った。わたしはこのわたしの過去を知っている男の子を前にして、どうすればいいのかわからなくなって目をさっとそらして窓の外を見た。その時、やっと彼は口を開いた。

「綾香、俺、」

わたしはその言葉を遮るようにして、今わたしがどういう状況なのかを説明せねばならないと思ってそれを言った。

「ごめんなさい。わたし、あなたのことがわからないの」

え、という表情をした。持田シンヤは、どういうことなのかわたしにたずねた。

記憶喪失なの。わたしは1年前に偶然にも叔父に崖の下で発見されて、この1年間、わたしは叔父の所で育てられていたの。この1年の記憶はあるわ。だけど、これより前の記憶が全くないのよ。だからわたし、あなたのこともわからないの。今、頭がずきずきしている。これは、記憶が戻る前兆だって、お医者さまはいったけれど。

彼は、悲しそうにわたしを見て、わたしの首元に手を伸ばした。かさかさと乾燥した彼の手がわたしのそこに触れた時、体中がかっとあつくなるのをわたしは見逃せなかった。彼は、わたしの首にかけられていた十字架のネックレスを確認した。

「記憶、君は取り戻したいのか」
「わからない。ただわたしは、帰る家が欲しいの」

持田シンヤ とわたしは、手を繋いでここを出た。サラさんにはまた会いに来ますと言って。サラさんは今夜はどうするのだと聞いてきたが、シンヤが自分の家に泊めると伝えた。