A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













シンヤ(彼は、シンヤ、と呼んでくれればいいと言った)とわたしはあの商店街を通って住宅街の方へ歩いた。日が傾いてきている。わたしは彼に引かれるままに足を運ばせた。その乾燥した手に引かれながら、あの遠くで燃えている鉄球は、これからどこに不時着するのだろうか、そしてそれは爆発してはしまわないか、わたしは所謂幻想的な事を考えて、すぐにそれをゴミバコに捨てる感覚でポイっとした。

わからないけれど、懐かしい感覚に今わたしは襲われている。少し暗くなったこの道は、何度も歩いたような覚えがある。それをシンヤに言ったら、

「ここはいつも、俺のバイト先から帰る時に一緒に歩いたんだよ」

とにっこりと笑んだ。わたしはそれにつられて微笑みを返した。このヒトの笑顔は安心する。きゃあきゃあと言いながら母親と手を繋いで帰っている幼稚園児が目についた。ゆうやけこやけでひがくれて、と小さな遊具がおもちゃばこのようにつまった可愛らしい幼稚園から音楽が聞こえてきた。そこからもう少し行くと、閑静な住宅街になっていて、その中でも一段とぼろっとした粗末なアパートにたどり着き、1階の103と書かれたドアの前に来て、シンヤはそこの鍵を開けた。そしてスマートにわたしをエスコートした。

中に入ると、ぼろぼろの外見とは裏腹に、生活感がある程度に綺麗に片付いた部屋だった。

「さっき、サラさんに聞いたけど。わたしはココで貴方と一緒に暮らしていたの?」

シンヤは力なく笑って頷いた。その理由はわたしにはわからなかった。だけど直感的に、好きな部屋だなって思った。わたしは通された部屋で、座布団に正座をした。正座をした時、あの純和風の家を思いだした。シンヤは熱いお茶をいれてくれた。ありがとう、と言ってわたしはそれを受け取って一口啜った。ほろ苦い味がした。シンヤはひとつちゃぶ台を挟んで、わたしの前に座った。わたしはぽつぽつと話し始めた。

家は財閥的なところだったという事、兄がそこの会長だったと言う事、そこで自分の世話をしてくれていた佐緒里と言う女性の存在、兄は実は自分の母の弟で自分におっては叔父だったという事、わけあってわたしはあの家をでなくてはならなかった事、無意識のうちに身体がこの街まで来た事など。兄に犯されていた事は喋らなかった。シンヤは静かに頷きながらそれを聞いていた。なくしていた自分の半身を吸収するような熱心さで。

シンヤも話し始めた。自分は今の親の養子である事、親とは離れて一人暮らしをしている事、その為にアルバイトをしてお金をためている事、学校へはほぼ勉強の為だけに行っている事、それからたびたび自分が昔住んでいた施設に顔を出しに行く事、わたしもシンヤのように集中して聞いた。シンヤの表情が、変わって行く様が楽しかった。シンヤは一生懸命働いている。わたしはその男らしさというか、そういうものに触れた気がした。施設では秀行くんという子をとくに可愛がっているらしい。その名前を聞いた時、わたしは言った。

「その名前、知ってるわ。わたし。その子と会った事があるでしょう?」

シンヤはハッとわたしの顔を見返した。

「うん。君は秀行の事をすごく可愛がっていたよ」

そう、頭を縦におろした。確かに知っている名前だ。顔だって思い浮かんだ。秀行くんと出会ったのは、そう、多分、いえ、きっと、公園だった。こうして昔住んでいたところで、昔わたしにいちばん近い存在だったらしいシンヤと話す事で、わたしの記憶が更に戻りやすくなっているのは確かだった。真緒と名付けられたわたしが、綾香に戻るのではなく、真緒であるわたしが、綾香と合体するようなかんじ。

ふっと目をやって、目についたのはひとつのこれもまたぼろぼろになった6穴の日記帳だった。わたしがそれに釘付けになっていたら、シンヤはさっとそれを拾い上げてわたしに渡した。

「これ、綾香が書いてた日記」

わたしは、好奇心と言うよりもまた別の何かに気持ちを掻き立てられて、それを手にとってページをひらいた。破いた形跡のあるところが、何ケ所もあった。これはまたどうしてであろうか。わたしは図書館が好きだったらしい。近くの花屋さんにもよく通っていた。そしてそこから引っ越して、シンヤと暮らす事になった時、わたしは家賃をちゃんと払わねばと思ったらしい。そして9月5日のところで、サラさんが登場していた。9月12日のところを見ると、『夜の露店で、シンヤとお揃いのネックレスを買った』と書いてあった。もしかして、このネックレス、と思いわたしはシンヤにたずねた。
 
シンヤはどこからか、わたしがしているそれと全く同じデザインの十字架のネックレスを取り出してきた。お揃いだったんだ。そして、これはわたし、綾香にとって、とても大事なものだった。わたしは記憶と自分の名前をなくして、真緒と言う人間になってもただ切にそれを大事にしようとしていた、そんな自分を愛しいとさえ思って、自分で自分を抱き締め、泣くのを我慢した。そんなにもわたしの身体は、このシンヤという男を愛していたのか、と思った。

「ねえ、わたしのお母さまはどこにお住いなの?」

きっとシンヤなら知っているのであろうと思い、わたしは聞いてみた。会ってみたかった。わたしを育ててくれたヒト。

シンヤは言いにくそうに睫を伏せた。

「亡くなったんだ」

話によると、わたしは崖の下に落ちて死んだとされていたらしく、わたしのあの派手な母親はわたしの後を追って身を投げて自殺したのだという事。短命そうだとわたしは思ったけれど、もう母親は既にこの世で息をしてはいない事を知って、わたしはうっとくる吐き気がしてから、目が涙と共に熱くなった。

「涙、出そうなのか?」

シンヤのコエがじんわりとわたしのココロに滲み入った。いいえ、いいえ。涙なんて。そう思いながら、次の瞬間にはわあと泣き出していた。シンヤは大きな手でわたしの事を受け止め、髪を撫でた。慰める言葉なんて一言もかけずに、ただわたしの髪を撫でて、わたしの涙の行き場所を作ってくれていた。わたしの頭の中で次々に浮かんでくる映像はまるで他人事でなく、その時に生じる頭痛も涙と一緒に流れようとしているのがわかった。シンヤの優しさに心から感謝した。

わたしは綾香と言うわたしが忘れてしまったはずの人格の潜在意識でココまで来た。綾香の帰る場所はココなんだ。わたしは頭痛と共に、その日記に書いてあった事をぼんやりとだけど思いだし始めていた。それ以前のことも。その時々に感じたシンヤに対しての愛しい気持ちだとか、そういうものも蘇ってくる。自分の意志とは全く関係なく、とにかく泉が湧き出るがごとく。痺れるような痛みに絶えながら、わたしはシンヤに髪を抱かれていた。わたしは真緒でもあるけど、綾香でもあるのだ。混乱はしなくてもいい。

「少し、思いだしたの。貴方と過ごしていた日の事」


シンヤは、ここに泊まれと言った。自分は別の所で寝るから、とわたしを安心させてから。シンヤの手作りのカレーライスは甘く、ごはんに滲みていた。わたしはそれを味わってから、お茶を一杯だけ飲んだ。ふぅ、と軽いため息をつくと自分の今の身体の状態に気付いて驚いた。今日だけで色々な事があって、わたしはもう目がぐらぐらりとまわる程に疲れていた。

シンヤはそれを察し、ベッドメイクをしてくれた。わたしはすぐにそこにもぐりこんだ。力をすうと抜いて、すぐに眠りについた。

嫌な事まで思いだしたりしなければいいけど。

夢うつつの中で、そのコトバが聞こえた。シンヤの手はずっとわたしの髪を撫でていた。



*


光に目を潰されるようにしてわたしは目を開けて身体を起こした。シンヤはベッドのそばで毛布にくるまって眠っていた。わたしは、そうっと起き上がってキッチンへ行き、失礼かと思ったけれど朝ごはんを作った。といっても、純和風な家での生活が長かったせいか、その味しか覚えていなくて、白いごはんにお味噌汁、厚巻き卵といった簡単な和食しか作れなかった。でもシンヤは喜んでくれるという確信があった。シンヤはお味噌汁を作っている時に起きてきた。髪の毛にふわりと寝癖がついていて、とてもかわいらしくて、わたしは笑ってしまった。シンヤは照れながら笑った。口元から八重歯がこぼれた。シンヤはごはんをよそったりお味噌汁をよそったりを手伝ってくれて、ふたりで食卓につき、手をあわせた。

「泊めてくれてありがとう。今日は、学校なの?」
「ううん。今日は日曜日だから、学校じゃないよ」

わたしたちは何でもないお喋りを交わしながら、ひとくちひとくち身体に吸収して行った。今日は、どうしよう、どうすればいいんだろう。そういう事を考えながら。もう多分、兄はわたしが逃げ出した事を知っているはず。となると、頼るべきは佐緒里だ。佐緒里なら今どんな状況かわかるはず。まずわたしは佐緒里と連絡をとらなければならない。わたしはさっさっとごはんを食べ終え、シンヤに一言頼む。

「電話を貸していただけるかしら」

シンヤはもぐもぐと口にいれながら、うなずき、電話器を指差した。わたしはありがとうと言ってにっこり微笑みを返す。すぐさま、佐緒里の電話番号をダイヤルする。指先が痺れるような思いで、佐緒里のコエをわたしは求めた。

ぷるるるるぷるるるる、と呼び出し音が2回鳴った時に佐緒里は出た。


佐緒里、わたしだけど。

え、真緒さまでいらっしゃいますか?

ええ。わたし、わたしをご存知の方にお会いできたの。

それは良うございました。ですが…

やっぱり、お兄さまがお気付きになって何かしら動き始めたの?

ええ。既に秀明さまに雇われた探偵が、真緒さまの居所を探しています。

そうなの。

ですからどうか、ひとつの所に留まらず、動いて下さいませ。

わかったわ。佐緒里もどうか無事でいてね。大谷さんにも宜しく伝えて。

承知致しました。私も、真緒さまのご無事を願っております。

ありがとう。今までありがとう。

真緒さま、幸せになってくださいね。

ありがとう。あなたもね。また、連絡するわ。


泣きそうになる衝動をおさえながら、わたしは受話器を静かに置いた。