ルミネッセンス情熱

<1>


谷中






[00]
 僕は思い出す。
 これから失くしていくだろうものをもう既に失くしてしまったものの遠くから呼びかけに注意深くなったところで失くすことは避けられない。僕を包む広大な空間にある世界を動かす力、根源たる原動力が一体何であるかずっと考えていたのだけど状態を描写することをやめ、もっとシンプルに出来るだけ簡素になってみればそれは『恐怖』であるのだと気づく。
 原動機付き自転車が寒さにその心臓を停止せんとし、僕はあわててキックスターターをまるで救命士が電気ショックを与えるように垂直に蹴り込む。再び息を吹き返しそうな様子が見られ、やがてまた消沈する。そんなことを数度繰り返しては蹴り込んだ数の倍の舌打ちを打ち、やれやれ、とあきれてみせた。通りがかりの近所の主婦が「あらあら、どうしたの?大丈夫?」と気掛かってくれた。僕は精一杯の愛想で答えた。
 「ええ、大丈夫です。ただちょっと寒くて」
 「そうなのよねぇ。本当に最近寒くなっちゃって、雨戸も夜露が凍っちゃうのよ。大変よねぇ」
 スーパーマーケットのポリエチレンの袋を提げた主婦は首を左右に振り同程度の愛想で返してくれた。
 僕は、本当に寒かった、とかつて感じた、今感じる上っ面の寒さとは比ぶべくもない骨まで凍るという比喩がぴったりの寒さを思い起こしてかかりにくいエンジンに対して最後の警告を出した。カブのマフラーはウンとも言わなかった。

   一口に遡ること8年前。10年が一昔なのだとして約一昔前と言っていいのだろうか。それだけの時間が経ったとしても僕は思い出すことが出来る。風のない日、笹舟を小川に浮かべた後のようにゆっくりと日が暮れてゆく104講義室の西に向けた大きな窓から差し込む光や、それに浮き彫られた空気中を顕微鏡を覗いて見れる微生物の生命感で舞う埃の粒子。残る者は僕と彼女だけ。恐ろしく静かで空気は生暖かく僕は確かに天上からの視線を感じた。僕は今でこそ思う、僕は大きな考え違いをしていたのだ、と。
 記憶は褪せ捏造されていく、不思議なことに。僕の望むと望まざるとに関わらずだ。例え僕が当時の再現を図ったとしてもそれは適わないのだろう。それが時間の無情であり、変わるということだからだ。彼女の着ていたコートの丸く大きなにびいろボタンが喉下から下腹部まで並ぶ様と赤いマフラー、良く履いたこげ茶色の膝まであるブーツ、そういう断片を次々と繋ぎ合わせていくのだけど結局は僅かに足らないピースがある。僕はもう彼女のことさえ良く憶えていない。
 流れた月日は一体僕に何をもたらしたのかそれは分からない、奪っていっただけじゃないかとも思う。僕がイメージするのは彼女と過ごした断片的な空気の欠片であって、そこから記憶を召喚してみれば割と細かな細部まできちんとした「思い出」という形に包装することは出来る。ただ、あの時感じたこととは程遠い余所行きのラッピングが施されてしまっていることには間違いがないのだろう。
 一番思い出すのは果たして何だろう?僕は彼女の横にばかりいたので蓮実のビューラーを使わずともカールした長い睫毛を憶えている。物思いに耽り伏せたときパチンと世界の隅で気泡の弾ける音が聞こえるような、そんな睫毛だった。それと真っ直ぐ垂れた黒い髪、そうやってひとつひとつ呼び起こしていくとまるで全体としてそれは実際の体験ではなくて、そもそも僕の原風景だったような気さえする。それ程象徴的だ。

 きっと彼女はこう言った。
 「人が輝くのは一瞬なのよ」
 「栄光とかそういう意味?」と僕は尋ねた。当時の僕は一層鈍くて分かりかねた。
 「ううん。そんなドラマティックな素敵な意味じゃないわ。もっと単純に光を発するの、その人柄が輝くのではなくて輝きを発するの、人格者とかアスリートとか金持ちとかそういった条件の庇護の外の話よ。ちっとも感動的でないの、まぁ、ある種クリアされるべき水準はあるのだろうけどね」
 「良く分からないのだよね、僕の理解力はおおよそ本来の大学生レベルじゃないので申し訳ないんだけど何となくとさえ分からないな」
 「いずれ分かるわよ」
 「そういうものかな」
 「そうよ」
 彼女は良く何事か目を伏せていたのだけど、そう話し終えて再び両目を長い眠りにつかせた。蓮実は僕のコートのポケットに手を入れて、もぞもぞと動かした。片手の5本の指で何かサインのような合図のようなそんな意思が感じれられる動かし方だった。
 「それは大概突然やってくる?」
 僕は先ほどの話の続きを尋ねる。彼女は目を開け、大きな瞳をぐりっと見開いて「?」という表情を浮かべた。
そして、
 「大概ね。誰にでも分かることじゃないけど」と言った。
 「でも君には分かるんだろう?何で分かるの?」
 「見ているだけで分かるわよ」
 「僕のも分かっちゃってるのかな?」
 「もちろん」
 蓮実は自信の有りそうな顔で答える。
 「僕は輝きそうもないけどな。特に取り柄があるわけでもなし、頭も悪い。人生の選択もさきざき失敗していくんじゃないのかねぇ」
 「言ったでしょ。そういうのは関係ないの」と僕の肩に右のこめかみ部分を接してから一息つきこう続けた。
 「あなたの場合は」また目を伏せる。
 「冷たいから」目を開ける。
 僕は驚いて、慌てて言った。
「何ソレ?関係ないんじゃないの。大体『輝く』というからには何かしらの熱量を持つわけだろう?おかしいよ」
 蓮実は可笑しそうに小さく笑い「冗談よ」と言う。僕が安心して胸を撫で下ろす仕草をしていたところで、彼女は「否定はしないんだ」と呟いた。彼女は立ち上がり、膝丈のチェック柄のスカートのお尻についた草と汚れを払った。そしてくるりと45度体を開いて僕の目を見た。
 「冷光現象なのよ、熱はないの」

   果たして僕が手に入れたものが何であったか、果たして僕は今生の世の何を理解したか、そして欠けた接点は行く先暗く深いところから僕に何を投げかけているのか、何を示唆したか。今、僕はフィクションを書こうと思う。恐らくあなたはこう思うだろう。「読んだことがある」と。確かに確かに、それももっともな話だ。出来ればこう思って欲しい。「青春小説はそれが青春を描く限り似るのだ」と。そして読後もっとはっきり「解き放たれた」と言って貰っても構わない。
 失くしたものとそのピーク、それがこの物語だ。

 
[0]
 高らかにあげた笑い声が衝立のない広間にこだました。上り階段でも降り階段でもどちらでも同じことだが階段というものは大概螺旋状に作られていて、ひとつの捻りの半分が終わるともう残り半分の捻りに到達するまでにちょっとした空間が用意されていることが多い。それは踊り場と呼ばれたり別の名称で呼ばれたり面積によってまちまちだが、僕の立つところは広間といってさしつかえないような面積であるように思う。天井は高く、それに比例して声の響きかたもさながらコンサートホールのようである。先に空気中に放出された声を追いかけるように響く声、そしてまた後発の声を追いかける声。さらにそれらを追いかける最後に響く声が尾を引いて消えた。
 「菊地、バカだな。おまえはバカだ、ああ、本当にバカだ」
 ひとしきり笑った後で、煮立った湯の中から水泡が立ち昇るように思い出し笑いを混ぜながら彼はやっとのことで言い終わった。非常に苦しそうだ。僕は苦々しく感じながらも顔に愛想笑いを張りつけて。
 「あまりそうバカバカ言わんでくれよ。落ち込んでるんだから」
 とりあえずはそう返した。彼はなおも続ける。
 「バーカ、落ち込むことかい。勲章ものだぜ、そのバカ。胸張っていいや。なぁ、バカ」
 「原口にとったら信じられないかも知れないけどさ」
 「ああ、信じられないね。オマエ、そりゃ。千春も可哀想になぁ、こんなインポ野郎じゃなくてオレにしとけばいいのに。オレだったらやっちゃうね、もうスゴイよ」
 原口という同級生の男は早口で自分の思ったことだけを言うと、満足そうに笑みを浮かべその後で何事 かをにやにやと締まりのない顔つきで考えていた。あまり好きな考え方ではないけれど僕と原口の横を参考書を抱えて通り抜け教室に入っていった地味なふたりの女の子を見て、カラーリングもブロウもしない髪や袖のゴムの伸びたトレーナー、時代に逆行した白く中途半端に短い靴下に比べればそれは千春はご馳走だったさと彼女のなりを思い浮かべた。原口は教室の入り口の扉の横にある赤ペンキ塗りのスタンド型の灰皿に煙草の灰を落とし、くすんだ色に脱色された長い髪を梳る。僕は指の間に挟んでいた吸いかけの煙草を無理に揉み消して
 「始まるよ」
 と原口に言った。
 そして、講義とは違ったが確かにそれは始まったのだ。