ルミネッセンス情熱

<2>


谷中






[1]
 そもそも僕と蓮実はこの大学に入ってから知り合った。
 選択制の履修科目のほかに基本となるクラスがあって、40名ばかりが教室に集められた。袖擦り合うのも多少の縁とばかりに円状に座る我々は時計回りとは逆の順に自己紹介をさせられた。着々と出番が近づくなか、僕の隣で「趣味は女です」と堂々と言い放ったのが何を隠そう原口その人である。みなが一斉に笑う円の中で僕は少しも笑えなかった、むしろ、こういう言い方は見下すみたいで僕自身嫌なのだけど、可哀想とすら思ってしまったのだ。(後にそれは冗談でなく本気だったと知るのだが)僕は面食らいその後で呆れた。つまり「ひいた」のだ。
 自分がどの様なことを紹介したのかは別段添える必要はないと思う。まぁ、察しの通りつまらない通り一遍のことを並べただけだ。円が一周しようかという頃、彼女、檜山蓮実の印象的な自己紹介が始まった。彼女はゆっくりと確かめるように「蛍や燐光のように」とだけ言った。静まり返るその場からどよめきに似た声があがるまでの数秒は僕には真に無音に思えた。そんな彼女はまわりにある種、特殊な、不思議な子といった印象を与えたものだった。敬遠程度で済んだのはひとえに彼女の持つ類稀なルックスによるものだったと思う。
 檜山蓮実に興味を持っても僕は接触を試みるといったタイプではない。一人の男が僕の肩を叩き
 「オレ原口、仲良くしようぜ。仲良くなれそうじゃない?オレら。お前もあの子に興味あるだろ?オレ声掛けてみようか?」
 早口で言った。そして彼が接触を試みようとするタイプの典型である。

 「悪いけど、あたしそういうの興味ないんだ。ごめんね」
 親睦会と銘打った酒の席の誘いを彼女はそう言って断った。しかし原口は同じクラスの中でも扱い易くしかも群れを好むタイプの女の子を使ってそれでも半ば強引に蓮実を飲み会へ引っ張り出した。原口の手腕というのは豪語するだけあって流石だといえる。僕は彼女に同情しつつも胸の内で喜び、原口に感心した。
 元来、僕はそういった酒を飲み騒ぐといった行為も集いも好まなかったし得意ともしなかった。なのでちびちびとビールを飲んで黙っているだけだった。僕はグラスを口に持っていく動作の度に蓮実を、彼女の座る場所のほうへ目を遣りそれと気づかれないように姿を眺めることに終始する。原口は一息でグラスの中身を空けるマイクパフォーマンスにも似た遊びをけしかけるので夢中だった。皆が夢中だった。僕はそれを遠巻きに眺めていた。世界はとても平和だ。中東は荒れても僕の住む世界はとても平和だった。馬鹿馬鹿しい程に。
 無為に2時間騒ぎ、次の店に移動する。かたまって歩く、酔っぱらいの公衆道徳を知らない団体が出来あがったが僕には人一倍の羞恥心が備わっていた。そのせいかどうか取りあえず僕はその集団からは少し離れて歩いた。同じような考えの人間もいた。僕は握った手の中に汗を掻き、それとなくにじり寄り話しかける。
 「檜山さん、こういうの平気?」
 「平気って言う意味が良く分からないけど、わたしは好まない。でもそれを馬鹿みたいって言う選民意識も嫌い」
 彼女は割と平坦に答えたのだけど、僕にはそれが僕を咎めたように聞こえた。すっかりきっかけを無くした僕は歩きながら揺れる地面のアスファルトの目地を「アミダくじ」に見たてていた。
 「ねぇ、続き…何?」
 僕は顔を上げて思い出したように尋ねた。
 「え?」彼女はあっけにとられた顔をして「何の続き?」と訊き返す。
 「『蛍や燐光のように』何なの?」僕は今度ははっきりと訊いた。
 すると、突然笑い出して
 「そんなこと訊く人初めて」
 と言った。彼女が笑ったりするなんて予想もしなかったが、僕は得をした気分になった。

 僕はことあるごとに親睦を試みてゆく。まず思慮に長けている人間の少なさと静寂を好むのに十分な大学の立地のおかげで一緒に過ごす時間が少しは増えた。僕以外のほとんどの男は数多くの女の子と性交することを第一として暮し、蓮実以外の女の子は素敵な男の子との素敵な恋愛を思い描き暮した。ちょうど僕のニーズと蓮実のニーズが釣り合ったと僕は考えた。何故なら僕にとってその他大勢の書割の暮す世界はまさにそんな時代だったのだから。一番の不幸は恋人のいないことで、最大の快楽は不特定多数とのセックスだったのだ。僕と蓮実は違った。彼女は美しく、それは丹精な顔立ちやなんかに支えられたものに留まった話ではないように思える。お互いの求めるものは言うなれば肉食獣の求めるそれとは違う草食性の動物の持ち得る魂の輝きのようなものなのだろう。
 「ご飯食べた?」
 蓮実はそう尋ねた。僕は「まだ」と答える。
 「近くにパスタがおいしい店があるんだけど、食べにいかない?バジリコと松の実のスパゲティ、シェフのお奨めよ」
 彼女は返事を待たずに歩き出す。僕は誘導に従い返事をするまでもなく歩き出し大学の正門へと続く並木の木陰を彼女と肩を並べて進んだ。うむ、やはり小麦に限る。

 僕は一人暮しで、6畳のワンルームに住んでいた。学生街ならば全国何処にでもあるようなアパートの一室が僕の城である。初めて親元を離れ資金を仕送りして貰って生活していた。白塗りの外壁は程ほどに薄汚れいかにも学生向きのそれは狭いけれども僕のあらかたの要求は満たした。それほど多くを望むわけでもないし、暮し難いオシャレなデザイナー建築も好まない僕にはエアコンがついていればそれで良かった。小さなテレビそれとビデオ、冷蔵庫や炊飯器、食器まわり、オーディオステレオなどなど。そういうものを買い集めてゆくのはとても楽しく僕は主に外食よりは自炊して簡単な料理を作り、更にそれをちょっとした趣味とした。必然的に調味料や器具も揃ってゆきそれらを眺めるのもまた楽しかったのだ。何かがあるべき姿に向かう様は美しく、僕を充足する。
 自転車で10分ぐらいの距離には原口が住んでいて、よく飯を食べに来た。彼は僕のベッドで寝転びながら漫画雑誌を読んでいる。漫画雑誌と一緒に買ってきた炭酸飲料をがぶがぶと喉を鳴らして飲みながら、
 「何を食わしてくれんの?まだ出来ないの?」
 などと無責任に言う。
 「もうちょっと待ってろよ。もとよりお前にたいした物を食わすつもりはないけどね」
 「オレは肉がいいなぁ。肉はパワーだぜ」
 呟きつつ雑誌に目を遣りおもむろに吹き出す。ギャグ漫画だったようだ。皿に盛りつけた野菜炒めを丸い小さなテーブルの上に置く。白くつやの有る焚きたてのごはんを口一杯にほお張りピーマンだけ除けた野菜炒めも同時にほお張った。彼は大きなアクションで顎を動かし口の中のものを飲み込まないうちに咀嚼音とともに話し出した。
 「…うまいよ。菊地結構料理上手なのな、オレは全然しねぇけど。お前は食わないの?」
 「ああ、中途半端な時間に食べちゃったからね。あんまり空かねぇんだよ」
 「蓮実ちゃん?」
 「え?あぁ」
 僕は誤魔化すつもりはなかったのだが、なんとなく誤魔化す形になってしまい後ろめたいものもないはずなのに僕は言葉に詰った。僕は自分で作る以外にも蓮実と頻繁に外食をしたのだ。やましくない。
 「菊地、蓮実のことどう思ってるか知らないけど、あいつ男いるよ。直接訊いたんだけどさ、本人はそう言っていたよ。泣くことになんねぇか?純情だし。そうそう、オレこの間サークルの飲み会行ったんだけど蓮実ちゃんと仲良い女の子とヤったのよ、そしたら割と陰口叩くのよあの子の。所詮自称仲良しだから女同士なんてそんなものなんだろうけどさ、評判は良くないみたいね。男からしたらそういうの関係ないけどね可愛きゃいいから。まぁ、やらしい体つきしてるしなぁ実際。陰口も叩かれる要素はあるよなぁ…ごちそうさん、うまかった」
 食事しながらのうえに話に脈絡がないもので酷く要点がつかみにくかったのだけど、なんとなく彼なりに僕を気に掛けているらしい部分も伺えてその心遣いはありがたかった。さりげない「誰々とヤった」といういつも飛び出る自慢も盛り込まれていたが。ほんの少し気分を良くして、
 「飲んでいくか?」
 と、棚から出した秘蔵の新しいウイスキーを僕は開けた。
 「いいねぇ」
 彼は憎めない子供みたいな顔をした。
 原口を送り出す為にアパートの階段を降りて建物が面した道に出る。人通りはなく、うっすらと光る街灯が僕たちを照らした。彼は自転車置き場に止めたビーチクルーザーの錠前を外しビニールチューブに包まれた鎖をくるくると丸めて鞄にしまう。初夏とはいえ深夜はまだまだ肌寒く、彼はサーフブランドのTシャツの上にラルフローレンのシャツを羽織った。
 「また明日な。まぁ起きられたらの話だけど」
 僕が言うと「違ぇねぇや」と言って自転車を漕ぎ出した。
*
 月曜日には一限目に一般教養の講義が入っていて早起きせねばならなかった。その為朝の弱い僕は講義を寝過ごしてすっぽかすことがままあったのだ。前の晩から起き続けていた日は眠くはあったがとりあえず講義に出席することが出来るのであとあと単位が足らなくなることを思えば少しでも我慢するより他にないのだろう。原口のように良く知りもしない友達や知り合いがたくさんいる人間ならば誰かしら代理で出席欠席を誤魔化してくれるのだろうが、僕にはそういう当てもないし例えあったとしても頼むつもりはさらさらなかった。僕は割と真面目にどんな講義も聞いた。恐ろしくつまらないものやおもしろい話のものも様々だったけれど共通していえるのは僕は自分が選択したどんな講義も興味が持てないということだった。いや、恐らく選択したもの以外の講義にだって興味は持てなかったと思う。何「学」だって、僕は興味がない。話としては面白いものだってそれに人生を費やす気には到底なれない。
 大半どころかむしろ8割ぐらいの生徒が眠りこける講義が終わり、僕は欠伸をしながら出て行くところを後ろから声を掛けられた気がして立ち止まった。
 「ねぇ、菊地くん」
 やけにトーンの高い子供っぽい可愛らしい声だった。一応確認の為に僕は振り返り誰もいないのを確かめて、また首をもとに戻す。
 「おーい、ここだよ」
 再び声のする方を向くと、背の高い植物が植え込まれた花壇の石垣の奥に声の主は立っていた。背が高く花を咲かさない植物と同化してしまって彼女の姿は目を凝らさないと発見出来なかったのだ。おまけに緑色のTシャツを着ている。
 「なんでそんなところに隠れてるの?」
 僕は純粋な疑問をぶつけた。
 「別に隠れてないよ。ただ、ちょっと驚くかなぁ、って思って」
 彼女は子供が先生に向かう時のような答え方をする。そして「あたし、わかる?」と僕に尋ねた。
 僕は答えに詰り、
 「ごめん、悪いけど。何処かで会った?」と言った。
 「がーん。やっぱりね、だと思ったよ。ちょっとショックだったりして。あたし、波多野千春。同じクラスなんだけどね、自己紹介もしたしね。やっぱし菊地くんは他人に興味がないのかしら」
 「そんなことないよ、ちょっと忘れてただけだよ。ごめんね。だって、話すの初めてだし」
 「別にいいよ、良くないけど。今の講義でテスト告知した?」
 「してないよ」
 僕は答えた。彼女は背負ったアウトドアの派手な色のリュックから緑色の変な軟体の気持ち悪い人形を取り出して、「これ、あげる。菊地くんのバッグは地味だからこれつけなよ」と言う。僕は「いらないよ、こんな変なの」と言ったのだが、彼女は「ムー!」と幼さの残る顔の頬を膨らませて奇怪な音声を発した。僕は驚いて「何、今の?」と訊いた。
 「威嚇」
 それだけ答えて彼女は僕の手を握り、そして歩きだした。僕は戸惑い「え、何?何処行くの?」と慌てる。
 「喉乾いたからジュース奢って貰うの。菊地くん、失礼だから」彼女はこともなげに。
 「やっぱり、別に良くはなかったんだ。怒ったの?」僕が言う。
 「そうよ」
 先導する彼女はこちらを振り返り言った。握られた手の中で僕に感触として伝わるのは彼女の中指の指輪のごつごつとした冷たさと、汗、そして早く打つ鼓動だった。午前の切れ味の良い太陽の明かりが、彼女の明るく色素を抜いたショートカットの頭髪を押さえ纏めた沢山のヘアピンに反射し、髪の毛は陽光に透けて金色にきらきらと輝いた。光の粉を蒔いたようだった。魔法の粉だ、魅了する。

 それからというもの、実は千春と僕は選択した講義がほとんど一緒であることが分かり、お互い特別誰かと行動せねばならない予定があるわけではなかったので必然的に行動を共にすることが多くなった。彼女は僕より15センチは低い160センチに満たないぐらいの中肉の体躯だが、特筆すべきは胸が大きくやはり僕もそこに目がいってしまう。普段からTシャツとか古着のトレーナーとかそういう体のラインを浮き出させない恰好を好む千春であったが、元来男とは服の上からでも胸の大きさが分かるといった特殊能力を持つものである。僕ならずともクラスの皆が周知であったろう。ほっそりした少し丈の短いカラージーンズを履くその足で僕を蹴る振りをし、「何処見てんの」と笑顔でおどけた。モックシューズのつま先が当たり僕は本気で痛がった。
 学食の長いテーブルに備え付けられた椅子を引き、紙パックのジュースにストローを刺すと千春は口をすぼめた。
 「来週にあるテスト、どうしようかな」と彼女は切り出す。
 「範囲が広いからね」と僕。「ノート取ってるよ」続けて。
 「うそっ、コピーさせて。いい?駄目って言ったらヤらしてあげない」
 「あのさ、そういう事言うのやめなさい。そんなこと言ってヤらしてくれたことなんてないでしょうが」
 僕はジュースの缶のプルタブを起こし、いつもそんな冗談ばかり言う彼女を嗜める意味で言った。
 「うん。ヤらせません」
 千春は反省の色もなく言う。
 「構いません。コピーもさせません」
 僕は仕方なく合わせた。まるで出来の悪い妹だ、故に意地悪な罰を与えるが。
 夕方に5限目の講義が終わり、空は夏の様相で僅かに赤くそして低かった。僕と千春は自転車置き場で別れ際話す。
 「菊地くん、明日は暇かね?」
 彼女は半袖のパッチワークのシャツのポケットからメンソールの煙草を取り出して火を点け、何故か教授口調で話し出した。
 「ええ、まあ、暇ではありますが」
 自転車のスポークの間からチェーンを抜き、そう答える。
 「うちへノートを持って遊びに来たまえよ」
 「構いませんが、ただ行くっていうのはどうでしょうかねぇ?」僕は意地悪そうな顔をして言った。
 「分かった、飯でも作ったげよう。手作りだよ、凄いよ、なかなか食べられないよ」
 彼女から教授口調が消えて僕は可笑しい。
 「わーい。すごいや、嬉しいなぁ」
 大げさかつ棒読みのオーバーなリアクションで諸手をかざし投げやりに喜びを表現した。
 千春は僕に小さなメモ帳の切れ端を渡し、そこに描かれた地図を説明した。自転車のサドルに跨り、咥えた煙草を地面に落としスニーカーの底で踏み潰すと「ムカつくわね」と半笑いで僕と逆の方向へ走り出した。女の子の漕ぐ自転車にしてはかなりのスピードで姿が小さくなっていった。そして僕も帰路へと漕ぎ出す。

 昼頃、長袖のチェックの薄いシャツを羽織り僕は部屋を出て鍵を閉めた。空は厚い雲に覆われていたが降り出す気配はない。ショルダーバッグを背面にまわし、自転車をゆっくりと漕ぎ出す。千春の家は僕のアパートから普通に走って20分程の距離である。割と大きい車通りの激しい道路では歩道を走り私鉄の駅が程近い通りでは自転車を降りて押した。並んだ店の中にアメリカントイやプレミアムのついたおもちゃを扱う雑貨屋がある。ふと「何か見てみよう」と思った僕は自転車に鍵をして中を覗いた。僕自信はそういうこまごまとした趣味はないのだが、所狭しと陳列された商品を手に取って眺めるとそれぞれ味があってファンでなくとも面白味がある。中段には透明のケースの中に僕がこの間千春から貰った気持ち悪い緑色の人形のキーホルダーがたくさん入っていた。ぐちゃぐちゃに緑のそいつが絡まっていて更に気持ち悪い。その上の段には昔のテレビアニメのロボットが死体置き場のように並んでいた。アメリカンコミックのヒーローも悪役も仲良く、プレミアペッツも仲良く、カプセルに入って出てくる着色消しゴム人形まで売っている。子供の頃に駄菓子屋の前に並んでいて100円硬貨を挿入してハンドルを回す『ガチャガチャ』と呼んでいたあれだ。「そんなもんの中身まで売っているのか」と感心した。ディズニーのアニメに出てくる小人とは少し違う小人がいて、それが結構可愛いかったので小さい人形を買った。レジに出てきた数字が僕の予想と違って割と値が張ったのだが「そんなもんなのかな」と思って無理やり納得する。でも結構面白かった。
 小奇麗なアパートの前で僕は自転車に鎖をかけた。茶色のレンガ風の建物の3階の角部屋の呼び鈴を鳴らすと千春は細かい花柄のタンクトップ姿で開けたドアの向こうから現れた。
 「早いね。さ、どうぞ」
 そう言う彼女の後につく。
 「おじゃまします」
 僕は赤いスニーカーを脱ぐ。彼女の部屋はやはり僕の部屋と同じような6畳くらいの広さのワンルームなのだが、なんだか在る物が簡素な僕の部屋とは随分違う。玄関にはたくさんのスニーカーやブーツが並びきらないほど並び、ぼろぼろに傷ついたスケートボードが立て掛けられ、奥に進むと更にごちゃごちゃとまるでさっきの雑貨屋顔負けに色んな物が在る。壁一面に未開封のペッツが貼られ、アメリカンコミックの切り抜きや映画のポスター、ステレオの側のターンテーブルの上に高く積み上げられたレコードの山、小さなテレビの周りにはビデオカセットの山が有った。僕は見たことのない物たちに圧倒される。
 「そこ、座っててよ」
 千春の言葉にもうわの空で言われるままに腰を下ろした。
 「ゴメン、まだ出来てないんだ」
 「いいよ。あ、これお土産」と鞄の中から雑貨屋で買った小人の人形の入った紙袋を出して渡した。もそもそと再生紙の袋のテープを剥がし、中の物を取り出した彼女は叫んだ。
 「うひゃぁ、スマーフ!」
 僕は「それ、スマーフって言うの?」と訊き返したのだけれど、千春は興奮してそれどころではなくなっている。あっちこっち意味もなく半歩ずつうろうろと移動していた。
 「これ欲しかったの!何処で買った?すごい、菊地くん良く分かったね。ほら、あっち見て。あそこに同じのあるでしょ?集めてんの」
 指差した棚の上を見ると、確かに同じ小人が並んでいる。僕が買った物の2倍のもの、3倍のもの、3.5倍の物までがきちんと並びそれぞれ微妙に違う表情をしていた。彼女が喜んでくれたので僕は安心した。「いらない」と言われたらやはりショックであるから。
 灰皿に煙草の灰を落とし、冷たく冷えたビールを飲みながら買ってきた人形と千春の人形を手で弄んで時間を潰した。会話させてみたり戦わせてみたりしていたが、時折、料理をする彼女の後姿に目を引かれ気付かれないように凝視する。千春は幼さの残る顔立ちに合わせたスタイルではなく一種「色香」をも漂わせた体である。タンクトップ姿が物語る通り、情欲を掻き立てるのに十分だ。僕は暑く感じて着ていた長袖のシャツを脱ぎ、Tシャツだけになった。「出来た」と声がする。
 出てきた料理を彼女と食べる。僕は「いただきます」と肉じゃがに箸をつけた。口の中に豚肉とじゃが芋を入れ数度噛み飲み込む。
 「おいしい、ね」
 僕は意外に思った。実は彼女は料理がうんと下手だと思っていたのだけど違ったのだ。
 「だしょ。まぁ、レパートリーは少ないんだけどそれなりに出来るんですのよ。ホホ」
 彼女はそう言い、今度は主婦口調だ、と僕は思った。
 「宅は肉じゃがばかりでござぁますが、菊地さんとこの奥サマはどんなものがお得意?」
 なおも主婦口調で質問された。
 「彼女いないもの、だから自分で作るんだよ」
 「あちゃぁ、可哀想にねぇ。じゃぁ、たまにはあたしが作ったげよう」
 「でもノート見せるんでしょ?」
 僕は間髪入れず尋ねた。
 「当たり前」
 千春は咥え箸でそう言った。

 テーブルの上からは食器が片付けられて中央に灰皿だけが残された。彼女は立ち上がり窓際のベッドまで歩き窓を大きく開けた。僕は新しい煙草に火を点ける。風が重くもったりと吹いた。
 「こっちおいでよ。空が低いよ、降りそう」
 彼女の言葉で僕も立ち上がりベッドに腰掛けた。千春は両膝を立てたままスプリングの硬いベッドの上で両腕は窓を開けた形のままである。僕は手に持った灰皿に灰を落とし彼女の見つめる方角を見た。僕も彼女も何も喋らず、暫くしてトタンを打つような音がぽつぽつと聞こえる。
 「あ、降ってきた」
 僕は言った。やがて音は機関銃の照射のように変化し開け放したままの窓からは雨の匂いが香る。
 「ハハ、見て。あそこの家慌てて洗濯物取り込んでいるよ。あ、落ちた。タオル落としたよ」
 彼女の言葉に僕が「どれ?」と覗き込んだ瞬間、僕の顔が千春の顔と横並びに接近して髪の先が触れ合う程の距離で彼女はゆっくりこちらに顔を向け、僕の目を見つめた。僕も彼女の顔を見ていた。瞳には僕が倒立した姿に逆像が映り、瞼がコマ送りのように閉じる。水を含む艶の有る濡れた唇に吸い込まれるように僕は彼女の唇に自分の唇をつけた。千春の手が僕のTシャツの肩口を鷲掴みにし、胸をぴたりと、引き寄せた僕の体に押しつける。口腔では互いの舌が絡み、行き来する。吐息とつかない声を彼女は発した。僕の心臓はおおよそ不正確に、不整脈さながらに、慣れぬ甘い感触に、バチで乱打するがごとく打つ。ノックなんて生易しいものじゃない。カーテンレールの真下に位置した木枠は振り込んだ雨で濡れていた。彼女の顔色も変色する。
 「窓を閉めないと。結構強くなってきたよ」
 僕は唇を離した直後そう言った。反応のない彼女に代わり僕は窓を閉め、カーテンを引く。実は後悔しもした。優しく緩やかだった空気はすっかり切れ味の良い空気へ存在を変え、そしてキスというのはどんな性的嗜好の人間にとっても軽軽しいものではなかったし、それまで継続したものの意味合いを豹変させるのに十分な行為だからだ。少なくとも僕はそう思う。彼女は俯いたまま正座し、それは反省しているようにも見えた。
 「あのさっ。あたしねぇ、実は彼氏いるんだよね」
 千春は顔を上げ恐らく思いきりを要して切り出した。
 「だろうね」と僕は答えた。そうとも。でなければ一体誰があの肉じゃがを作る腕を鍛えさせたというのだ。彼女は続けた。
 「大学入ってから彼氏と会ってなくてさ、なんて言うか、ムラムラとは違うけど変にイライラしていて、それでね。なんか菊地くんといい雰囲気だったから、ついついフラフラと。ごめんなさい、最初に言うべきだった」
 「いいよ」とは言ってもなおも泣きそうな顔の己を責める彼女が見るに耐えられなくて僕は言う。
 「オレは彼女いないし、はっきり言ってたまってるし、ムラムラと。千春サンとはいい雰囲気だったのでそれでね、ついついフラフラと」
 彼女は笑った。大口を開けて「たまってるんだ?」と言った。
 「そりゃね」
 「じゃぁ、続きする?あたし菊地くんとならいいけど。お世話になってるし、たまってる同士で」
 笑いながら片目だけ開けてにじり寄る。
 「結構ですよ。遠慮します」
 僕はほっとして言った。
 「不服ですか」
 「まあね」
 僕は馬鹿馬鹿しい彼女との会話を気に入っていたのだと知った。
 ノートを写したり要点を教えているうちに雨はあがり、空には晴れ間が広がっていた。通り雨は東の遠くの空へと去ってしまい、おかしくなった重い空気も元通りになる。胸を撫で下ろして改めて彼女のタンクトップ姿を上から見下ろす形で眺めた。膨らみの隙間からちらと白いものが覗いて、谷間の陰影が艶かしい。惜しいかとも思ったが不安定な彼女につけ込むような方法は良くないと、正義漢という選択で自らを、特に自身のとある箇所を落ちつかせた。
 玄関で靴を履き、扉を開けて僕が出て行くその時に声が掛かる。
 「今日はありがとう。ごめんね、迷惑かけて。それで、ひとつ質問。他の人でもああいうことしましたか?」
 千春がひと差し指を立てて訊いた。
 「残念ですが、エラーが出ましたな」
 「チェッ」
 彼女の舌打ちも響いたが、隣の町では豆腐屋のラッパの音がこだました。