ルミネッセンス情熱

<4>


谷中






 親からの仕送りのお金を引き出す為に自転車で銀行に行った。腕時計を見るとデジタルの表示が6時半を差していた。僕は厚く雄大な雲がそこはかとなくオレンジに染まってゆくのを眺めながら、よそ見運転で自転車のペダルを漕いだ。咥えた煙草はもう短くて、フィルター付近まで近づいた火種が僕の唇を焼くような錯覚がある。
 芝や背丈の高い草は風にそよいで心地よく吹く夕方の水辺の風は土手の道を漕ぐとも漕がぬともつかずに進む僕の頬を張った。一旦自転車から降りて、土手の草を滑り川辺に降りた。足元の草を千切り茎を軸に指でくるくると回した後で空に放り、風の棚に載せる。
 草の上に腰を下ろした僕が蓮実の姿を見つけたのは土手の傾斜に背もたれて雲の形をイメージで操っていた最中のことだった。瞳に見慣れた逆像が写り、彼女の膝丈のスカートの襞が風を受けるのを無言で見ていた。
 「何か見えた?」
 彼女はその黒く肩まで長さのある真っ直ぐな髪の毛を手のひらで押さえる仕草で、風が頭髪をかき乱すのを防いでいる。
 僕は「見えない」と答えて「見たいものは」と続けた。蓮実が隣に腰を下ろす。
 「何してたの?こんなところで会うとは偶然だね」僕は話しかけた。
 「日課なのよ。ここらへん散歩するのが」
 「へぇ」
 半袖のデニムシャツのポケットから100円ライターを出して煙草に火を点ける。
 「菊地君は雲の形をコントロールしようとしてそれが上手くいかなくて、ふて腐れていたんでしょ」
 蓮実はこちらに顔を向け、そう言った。
 「分かるの?そういうこと」
 「分かるわよ。そういうことぐらい」
 彼女は事も無げにそう答える。
 「あ、分かった。前みたいに鳥寄せして聞いたんだ、あいつは雲のコントロールを試みているぜ、って」
 僕は冗談でそう言う。
 「半ば当たりね」
 少しの時間が経ち、今の今まで赤く夕方の明るさで僕たちを包んでいた空が急にがくんと調子を落とすようにして夕闇へと姿を変えた。
 それは「昨日まであんなに元気だったのに」という末期患者の病状のようだった。
 僕は彼女の顔を見る。頬骨からシュッと細った顎にかけてのライン、小鼻から柔らかそうな上唇の間の窪みが作る影、下唇と誘うような少し開いた口。瞬く度に大きく音をたてそうな長く印象的な睫毛とその主たる瞳のなんと魅惑的なことか。その大きくて良く見えそうな瞳で覗き込まれた時の良心の呵責を促す効果、例え何も罪を犯していなくとも苦しくなる。いや、本物の犯罪者だって自首するのじゃないだろうか。彼女の瞳には僕が今までどんな人間にも見たことのない「強さ」を感じる。そして肌を刺すように体感する。「視線」というものを。
 宵の口の薄明かり、子供らを晩御飯に誘う街灯と窓から漏れる室内灯の明かり。僕はただ彼女の顔の美しい造形を眺めていた。そして、細い肢体から強烈に受ける性のイメージに沸き起こる劣情が自身を支配することも感じていた。
 「ひとは一瞬だけ輝く」
 蓮実は呟くように川面の揺れる煌きを眺めて言った。
 「栄光とかそういう意味?『ああ、栄冠は君に輝く』とか?」
 とある引用が全てを表すように?僕は尋ねる。
 「ううん、そんなドラマティックなことじゃないの。もっと単純に光を発するの、蛍光塗料を塗るようにお手軽でそこには栄光を裏で支えた研鑚も努力もないように、人柄ではなくただ光を発するの。全然素敵なことじゃない。今ある分かり易い基準、人格者とか金持ちとかそういったものが庇護の外にある」
 用意された長ゼリフのようだった。凛として語る彼女は美しい。僕は目を臥せて再び尋ねる。
 「それはどんな光?」
 「一瞬大きく光ってしゅっと消える。手品の道具で大げさに燃える紙があるでしょ、あれに近いかな」
 「何だか馬鹿みたいな光だな」
 「そうね、まったく」
 ふたりで小さく笑う。僕は靴の底で吸いかけの煙草を踏み、新しい煙草に火を点けた。遠くの陸橋では電車の音が等間隔でにわかに静寂と会話を欠く。急行列車が過ぎ去るのを待ってから僕は言った。
 「誰にでも?」
 「ある程度何かを迎えようとする人間ならば誰でも」
 「酷く漠然としているんだな」
 「そういうものなのよ」
 煙草の煙を吐き出して続ける。
 「それは大概突然やってくる?」
 「大概ね」
 僕が理解したか理解しないか分からない返答の後に、彼女は立ちあがりスカートの尻についた草を払った。青い夏の生命感に満ちた空気の中、空色と雲色のブロックチェックのスカートを蓮実は揺らした。心まで柔らかく。

 蓮実と川辺で別れてから自分の部屋に帰ると程なく電話が鳴った。千春からである。
 扉をノックする音がして僕は鍵を開け彼女を迎え入れた。千春はオレンジ色のアウトドア風の大きいナップザックを背負っていて、それを床に下ろすと靴を脱いだ。冷蔵庫から冷えたコロナビールの瓶を2本出して台所でライムを8等分したものを口に差し、残りのライムをラップして再び冷蔵庫に仕舞った。千春に1本渡すと僕はもう1本の瓶の口を親指でライムごと押さえてから手首の回転で瓶を一瞬逆さにする。ほんの少し中のビールが垂れた。液中に沈み泳ぐライムを炭酸の気泡が祝福するように包む。台所のステンレスのシンクに背もたれたまま、僕はビールを一息で半分飲み、喉の激しい乾きを潤した。
 「どうしたの?」
 心配したわけではなく僕は甘えた声を出して彼女に正面から抱きついた。手探りでテーブルを探し当てその上にコロナの瓶を置き、空いた手で彼女の胸をTシャツの上から弄る。
 「ちょっとっ、話が」
 千春は焦りながらも何事か切り出そうとしていた。僕はといえば川辺で蓮実と会って彼女の肢体を想像してからというものそれっきり突発的に欲情していた。だので、彼女の話は後で聞こうとばかりに唇を塞ぐ。フォトプリントの白いTシャツを捲くり上げて下着をずらし、紺色の細身のストレッチパンツを脱がせて淡い色の下着に手をかけた。彼女は顔を横に背けて視線を逸らす。僕は快感のあまり恥ずかしがっているのだと洞察の結果判断した。
 「声出すの我慢しなくていいよ」
 僕は耳元で彼女にそう囁いた。千春を全裸にはせず、僕はそのまま、部屋の電気をつけたまま、明るい蛍光灯の真下で何も答えない彼女に押し入る。眉間に皺を寄せて声を押し殺す彼女の顔と性器の結合する様をまじまじと交互に見比べた。僕は異様に、それは変質者か彼女をレイプする犯人のような気分で、興奮し、最後まで歓喜の声を上げない彼女の白くすべすべした腹の上に放出した。
 「それで何、話って?何か相談ごと?」
 ティシュペーパーの箱を千春のほうに押しやって行為に及ぶ前の話題の続きを促した。
 「ううん、もういい。もう終わったから」
 服の乱れを正しながら彼女は顔を上げずにそう言った。
 「そう、なら良いけど。何かあれば遠慮なく言ってよ。それよりさ、今日すごい興奮しなかった?なんかオレ無理矢理してるみたいな気分になっちゃったよ。すげぇ感じなかった?」
 嬉々として感想を述べる僕と対照的に彼女は「そう、良かったね」と淡々と言った。
 鞄を拾い上げ、「帰る」とだけ千春は言って玄関で靴を履く。彼女が出て行きガタンと閉まった扉を暫く呆然と見つめて、女の子にもただ何も考えずに解消したい性欲があるんだなぁ、と思った。そして、蓮実の美しい造形を思い出して、彼女の性欲というものを想像した。勿論、僕が蓮実に押し入りその瞬間彼女は歓喜の声を上げた、という内容だった。
 実現すると良い。

 僕は講義を聞き終え、千春の後姿に声を掛けた。彼女は最初に出会った頃よりも幾分髪が伸び、根元が地毛で黒くなった金髪を撫でつけて前髪を横に流した髪型をしている。髪止めも健在だ。黒と白のギンガムチェックのシャツのボタンを一番上まで閉めて古着風のデニムスカートを履き、友達と歩きながら会話している最中だった。
 「何?」
 振り向いてそう言った彼女の、黒いセルフレームの色の薄いサングラスの奥の眼差しの冷たさに、僕はぞっとして不意に言葉を失ってしまった。僕は唖然とした。
 「用がないなら行くよ」
 千春はそう続け背を向けて歩き出す。隣を歩く地味ないでたちの女友達の「誰?」という問いには彼女は「ああ、セフレ」とだけ軽く答える。そんなやり取りが耳に流れ込む。

 食堂のテーブルに頬杖を突いて、ぼうっとしていた。講義には出る気がしない。体中の気力という気力が底を尽いた感じである、恐らく枯れ井戸とはこんな状態であろう。僕は知らなかった。僕と千春はセックス・フレンドだったんだ。友達ってそういう意味だったのか、落雷を受けたような衝撃が去ると今度は左隣が何やら涼しくて僕は「悲しい」とも「寂しい」とも違う意味で顔をしかめた。くしゃくしゃに寄せたそれぞれのパーツの、元は目だったであろう部分から「くぅう」という息の抜けた声と一緒に水を垂らした。頬杖の体勢を崩せず、がやがやと歓談や談笑の蔓延る食堂で僕は一人きり苦し紛れに煙草を吸い続けた。
 僕はその日の全ての講義を休み日の高いうちから部屋に篭った。ベッドに投げ出した足の、靴下の先を見つめるともなく見つめて、それから宙を見つめ、千春が僕と対峙した時に向けた表情を思いだしてそれから以前彼女が僕の腕を取って微笑みながら押しつけた胸の柔らかさと弾力を反芻してはムズムズする股間を押さえた。僕は誰に向けるともなく「セックスしてぇ」と呟いた。まだ陽は高い。
*
 食事も講義も常に行動を共にする人間がかつて存在した僕はひとりでいることに不慣れになってしまっていた。
 昔は違かったのだけど、と心の内で思う。誰かと話したかった。千春に話し掛けることは何度か挑戦したが、彼女は特別僕を拒絶しはしない。ただ、決定的に何かを損なった。それが何か僕は分からなくて彼女の前に立つとしどろもどろに何事か「ああ」とか「うう」とかしか発することが出来はしなかった。そうすると彼女は「暇じゃないから」と言って立ち去った。要は千春は僕にはもう興味がない、ということか。

 見慣れた後姿を見かけて僕は反射的に叫んだ。
 「原口!」
 振り返り見慣れた顔の見慣れた不遜な態度についつい涙を禁じえない。実際に泣きはしないが、耐えるのも精一杯であった。
 「何だよ菊地、久しぶりだな。お、どうしたんだ?」
 自分に対して何も変わらないということがあまりに嬉しくて彼の肩を叩く。講義室の前に広がる空間の天上の高さは天に届く程ではないにしても高かった。教室の入り口の扉の横にある、赤ペンキ塗りのスタンド型の灰皿に並んだ木製のベンチに座り、次の講義が始まるまでの時間原口と話した。煙草の灰を落とし原口は言った。
 「菊地、おまえバカな。くそバカ。見たときねぇよ」
 一連の千春に関する事を僕は話した。彼が馬のように笑ったのを見て、僕は言った。
 「あんまり、バカバカ言うなよ。こっちだって落ち込んでいるんだから」
 「おまえに落ち込む権利はねぇだろ」
 原口はぴしゃりと言う。僕は和やかに慰めとして笑って貰おうと目論んでいたのだが、それは僕の目算通りにはいかなかった。彼が笑っていると僕は勘違いしていたが、その実、彼は怒っていた。語調の強さで分かった。
 「千春は何て言った?セックス・フレンドって言ったって?」
 「そうだよ。オレはそういうつもりなんてなかったんだけどさ、結果的に傷つけることになっちゃったのかな。大事にしてたつもりだったから、オレだってショックだったよ。だってさっ」
 「いい加減にしろよ」
 全部の愚痴を言い切らないうちに彼は僕の言葉を遮った。僕は「え?」と口をぽかんと開けて間抜けな声を発する。原口は煙草の灰を灰皿に落として短くなったマールボロを灰皿に突っ込んだ。鼻から煙を吐いて、酷く不機嫌そうにゆっくりと喋り出した。
 「おまえ、勘違いしてるよ。セックス・フレンドっていうのはセックス・オア・フレンドだよ。どっちかしか選べないんだよ。あの子とヤりたいけど良いお友達で、なんてのはルール違反なんだよ。セックスも出来る友達のことじゃないんだよ。それはただの呼び名じゃないぜ、生き方の指針だ。セックス・ドラッグ・ロックンロールみたいなもんだぜ。両者は別つ運命にあるものだ、両方は取れない。デッド・オア・アライブ、セックスか友達か。おまえは選ばなかった、敗者だ、だせぇ。だからバカ」
 僕ははっきり驚いた。驚愕したと言ってもいい。原口というこの男はただの女好きとは違った。僕は彼の何も見ていなかったのだ。恐らく千春のこともしかりだ。
 「まだ、間に合うのかね」
 僕は尋ねる。
 「ああ、おまえが望む限りだ。それが人生のいいところだぜ」
 原口はにやりとして大きな声で笑った。高らかに。
 「おまえ、ロックだな」
 煙草に火を点けて僕は言う。
 「おうよ、今度軽音部のライブ来いよ。熱いぜ」
 「やだよロック。ロック、臭い」
 「うっさい、やーいバカ。罵倒してやる」
 「バカで結構だね。もっと言え」
 「言葉責め?Mか?」
 僕たちは一斉に笑い、新しい煙草に火を点ける。
 「ああ、信じられないね。オマエ、目の前でだぜ、股広げているようなものがあれば、することはひとつ。千春も可哀想になぁ、こんなインポ野郎じゃなくてオレにしとけばいいのに。オレだったらやっちゃうね、もうスゴイよ。喜ばせること請け合い」
 そう言った原口に僕は尋ねる。
 「おまえは選ぶわけだ、それを」
 「おう。オレは信念を持ってセックスを選ぶ。オレの挿入は鉄の意志。友達なんぞに未練はない」
 原口は早口で自分の思ったことだけを言うと、満足そうに笑みを浮かべその後で何事かをにやにやと締まりのない顔つきで考えていた。しかし、スタイルとは誤解を生むものだ。
 鐘の音を聞きつけた僕は立ちあがり「始まるよ」と言った。
 彼は階段の先を指差し、「行けよ、メーン」と叫んだ。
 僕は階段を走り降り、「イエス、シュア」と叫んだ。

 ところが矢先、何かが阻んだ。

[3]
 冬になり、僕はクリーニングから返ってきたコートが包まれたビニールをびりびりと破く。ダウンジャケットを羽織り外の空気が硬く圧し掛かる中、原口の家まで歩いて行った。ぎゅうぎゅうと締めつける寒さ、孤独、僕を修行僧のように耐えがたい人恋しさを我慢させた。ガチガチと歯が鳴ってうまく煙草が吸えない。ニットキャップを目深に被っていたのだけど、露出した部分に吹きかかる風が痛かった。突き刺すように。
 呼び鈴を鳴らし、数秒待つ。返事がないのが気になってドアをノックする。
 「おうい、原口いないの?」
 ポケットの中から携帯電話を取り出して彼の電話を鳴らした。電話の向こうの女は答える。
 「お掛けになった番号は現在使われておりません」
 僕はただ何をするでもなく彼の部屋の前に立ち尽くした。隣の住人が階段を上がってきて、部屋に入る時怪訝な顔つきで原口がいなくなったことを教えてくれた。
 自分の家に帰る道をゆっくりとこの後のあてもなく歩く。空気が教えていたように早い雪が降ってきた。黒のダウンジャケットの肩に白い斑点をつくり、すぐに水滴になって滑り落ちる様を見ていた。顔がほころんでしまうのを押さえる暇もなく、ぼやぼやしているうちに降る雪は地面を埋めていく。
 そうして僕は誰にも何も言えなくなった。僕には口をきく人間がいないのだ。
 ”口をきく人間がいない”
 改めてそう口に出して言ってみた。するとそれはこの社会の歪が生んだ落とし子か、もしくは寂しい老人のことのようだった。アニメやゲームの影響が云々。何れにしても僕自身のことのようには思えない。果たして本当に起きていることなのだろうか。コミュニケーション・ツールが此れほど発達し、僕とて皆のように携帯電話を持つにも関わらず誰ひとり当てがない。携帯電話を手に取りメモリーを繰っても電話をかけられる人間がいないのだ。第一、数える程しか電話番号が登録されていない。僕はこれまで何をしていたのかと考えた。こんな事ならば、原口のように友達や知り合いを沢山つくっておけば良かった。そうすれば一人ぐらいは相手をしてくれるかも知れない、一人ぐらいはセックスしてくれる女の子がいるかも知れない。僕の性的欲求もまた、我慢の限界へ達していたのだ。

 大学の構内を歩く。本当ならばもう試験期間も終わり、自主的に休みに入っても良い時期であるため、ほとんど人がいない。それでも僕は大学へと顔を出した。それというのも、千春と過ごす時間を授業を休むことで当てていたからだ。圧倒的に出席の日数が足らないし、教授のご機嫌も損ねていた。だので、僕は情けをかけて貰うべくこうやって大学へ来ては教授の元へ足しげく通った。その甲斐もあって課題を出して貰いそれを提出することで代替してもらう交渉がうまくいったのだ。そして、それの他にも理由があった。
 交渉により僕の延命措置がとられ、僕は一安心して食堂の側のベンチでジュースを飲み煙草を吸った。飲み物や煙草の自動販売機が並ぶ一角、定位置である。前を通りすぎる華やかな女の子の二人組を眺めたり、中の良さそうなカップルを眺めて目を細める。僕の座るベンチと対角線上に位置する柱にもたれて携帯電話を何事か弄るひとりの女の子を見ていた。低位置からの定点観測である。腰の絞られた赤茶色の皮のジャケットに青いマフラーをしていて、僕はスカートから伸びたその綺麗な足を舐めるように見ていた。肩に触れる長さの金髪を左手で掻き揚げ、その仕草の一連の流れでサングラスを少し持ち上げ鼻の上に掛け直した。建物の出入り口である右手を見つめてはまた手元の携帯電話に目を落とす。僕は彼女を頭の先から足元まで、その金色の髪からこげ茶色のブーツの先まで、何度も何度も見ていた。溜息を吐く。感慨が思わず口をついてしまった。
 「はぁ、可愛いなぁ」
 僕は声に出すつもりは全くなかったのだけど、意せずして笑みが出てしまう。腰を折ってスカートの襞の皺を直す仕草もなんとも色っぽくて、遠くから和やかな顔つきで眺めていた。僕は吸いかけの煙草を銀色の、待合室などによくある円筒形の、灰皿に落とした。水に火種が触れジュッと音がしたのを確認してから立ち上がる。建物の中は暖房が利いている為、脱いだダウンジャケットと鞄を脇に抱え込みベンチと彼女の背の奥の柱とを結ぶ対角線をなぞるように歩き出した。ゆっくりゆっくり心を落ちつかせる様に、彼女の前に行ってから言うセリフを事前に復唱しながら彼女に近づく。遠くからでは良く見えなかったその胸の膨らみやスカートが肌に落とした影を見ていた。視界が開けるのを待っていた。画像が拡大していくのを。近づく僕に気付いた彼女は視線を上げた。もう僕には彼女が微笑んでくれるすぐ先の未来すら見える。
 「あの…えー、あのですね、前にさ、セックスした時さ、君が言ってたことなのだけど、いや…」
 事前に決めていたのにうまく言えない。唇がもつれる。頬の筋肉がつりそうだ。
 「セックスで、セックスがだね、じゃない、今日は可愛い恰好だね、そのスカートは前に、だよね」
 女の子と話す時はまず服装を誉めるのだ。そうすればその後の会話もスムーズにいく筈だ。彼女は僕に心を開いた筈だ。僕には分かる。
 「本題に入るとだね、セックスが、今はどうしてるの?してるの?セックスがっ」
 大事なことを言い掛けたところで邪魔が入った。体の大きな男が割って入る。
 「千春、待った?」
 何が千春だ、気安いぞ、こいつ。僕はちらとその男の顔を見る。僕よりも身長が10センチはありそうだ。
 「遅いよ、行こう」
 彼女は馬鹿でかい体に反比例して頭の足らなそうなその男の、比例して太い腕に胸を押しつける形で彼の腕を引いた。彼共々、僕に背を向ける。
 「待って、まだ、話がっ。だから…アレがさ、あの時のアレが、待ってよ、待ってってば、話、終わってないからっ」
 小走りするように僕は彼女の背中を追う。
 「気持ち悪いんだってば、もう話し掛けないでって言ってるでしょ!」
 千春は金切り声を発して僕を押し退けた。僕は2・3歩よろけるように下がり、彼女の言葉を反芻する。
 ”気持ち悪い”?誰が、何が?”僕”が?何故?タイミングを逸したとはいえ、話せば分かる事柄だというのに何故?確かに僕が至らないところが大きいが、それだって分かり合うことが出来る筈なのに。許し合うことが出来る筈なのに。
 「何でっ?待って、だから、セックスがあっ、あ…」
 僕はそこまで叫んだところで「あ」しか言えなくなった。何故なら、男が僕の髪の毛を鷲掴んだからだ。両手を頭の上に翳し、そいつの太く大きい5本の指を解こうと試みる。男は腕を引き、下半身が力を無くして僕が体を屈めようとしたのを見て取り僕を立たせた。僕は「あああ」と声を泳がせた。
 「こいつ、何?何言ってんの?セックスとか言ってなかった?」
 男が千春に尋ねる。
 「うん。しつこいんだよね」
 「大人しくさせようか?」
 男はぎろりと僕を睨み、ぎりぎりぎりと指に力を込めた。途端、頭皮が剥がれるような痛みが訪れて僕は足をじたばたと前後に動かし、その拘束を振りほどこうとする。僕は男の顔つきを見て冗談ではないことを悟り、「あああああ」と一層大きくしかし頼りない、声ともつかない音声を発した。殴られるのは確実で、こいつは冗談ではこういうことを言わないタイプだ。そして人を殴るのが好きな人間だ。良く分かる。
 僕は恐くなって、「痛い痛い痛い痛い」と連呼した後、「やめて」と哀願した。一緒に目から涙が溢れ出して、ぼとぼとと床のリノリウムにしとどる。音まで聞こえるようだった。ぼと。
 「いいよ。可哀相だって、それに仁が殴ったら死んじゃうよ」
 千春は男の暴力行為を阻止した。すると男は顔と力を緩めた。
 「それもそうだな。多分一発で死ぬな、こんな奴」
 誇らしげな顔。弛緩した表情とその中身、緩い脳みそ。
 「そうよ」
 彼女の一言で場が収まったことで僕は胸を撫で下ろす。芯から安心した。端を見ると男に踏まれたダウンジャケットの糸の縫い目の辺りが破れて中身の羽根が飛び出してしまっていた。床に真っ白い羽根が散乱する。それが暖かい空気に乗り、膝の高さで浮遊する。僕はトレーナーの袖で涙を拭った。千春はハンカチを放り、「拭けば」と言った。踵を返す間際。
 「返さなくていいから、もう付き纏わないで」
 その場から去るふたりが会話を交わす。
 「何でハンカチやるの?」
 「可哀相じゃない。泣かしちゃって」
 男は納得したようだった。
 「オレだってまさかあれくらいで泣くとは思わないもんよ。だってまだ殴ってもいないんだぜ?」
 そういう遣り取りを聞きながら、僕は散らばる羽根を集めてポケットに仕舞った。荷物を集めて煙草に火を点け、財布から出した小銭で自動販売機で暖かい缶コーヒーを買って飲んだ。ベンチに再び座ると貰ったハンカチを広げて、ところどころに染みになった涙の跡の部分がひやりとしたが顔を埋め匂いを嗅いだ。千春の匂いがした。煙草の匂いもした。

 久しぶりに見た千春はとても可愛いかった。ハンカチを洗濯漕に放り、集めた羽根を破れた穴から押し込み針と糸で穴を縫い合わせる。手のひらで軽く空気を抜くように叩き、中の羽根が飛び出ないのを確認してハンガーに吊るした。あんなに優しくて可愛い子を僕は手中にしていたんだなぁ、と、感慨に耽り、その柔らかな体や暖かく包む感触を思い起こし何度も何度も彼女の名前を呼ぶ。目を閉じると浮かぶ裸体。艶かしく粘膜。
 部屋の天井は低く、僕はベッドに寝転びうつ伏せになって局部を押しつけ、腰を前後に動かし悶えた。