リリック

(2)

岩井市 英知






 彼女は言った。
 「お茶にしませんか?」
 僕は「えぇ」とだけ返事して、それから西に大きく取った窓の出窓のようになったところに古い双眼鏡を置いた。木目がはっきりと刻まれたその出っ張りは、塗られたニスが一層木目を強調して、まるでヨーロッパ製の古い調度品のような、猫足テーブルのような、風合だけはそういった感じであった。この、ニスというのは不思議な薬だ。何の変哲も格式もないただ寂しいだけの木材に命を吹き込む。あるいは仮面を被せるだけなのかも分からないが、それにしたって大きな甕一杯に湯気の昇るニスを櫂でかき混ぜるのは毒リンゴを差し出すような老婆ではないだろう。誰が作るのか知らないが、不思議なことには変わりはないのだ。
 僕は猫足ではない椅子から立ちあがり、くるりと振り向いた。捲くっていたシャツの袖を下ろしながらゆっくりと部屋の中央よりも少し出入り口のドア寄りに位置した丸テーブルへと近づいて行った。これまたテーブルも同じく塗抹されている。椅子に掛けながら僕はテーブルの上を見た。
 「ム?」
 「どうしました?」
 僕の発した奇怪な声に彼女は驚いた。
 「このランチョンマットはどうしたんだい?」
 「どうした…って、買ったんですよ」
 「そうか。僕はまた君が縫ったのかと思った」
 「まぁ、ハンドメイドみたいな感じではありますけど。どうして?」
 「いや、何となくでさ。この…一生懸命みたいに見えるところが良いなぁと思ったんだよ」
 「ああ、フレンチカントリーて言うんですよ、そういうの。フランスの片田舎の感じがするでしょう?流行っているんですよ、特に、20代の女性には」
 「へぇ。でもフランスはほとんどが田舎だよね、むしろ都市部が少ないぐらいでさ。それにしても何故ランチョンマットを花瓶の下に敷いたりするんだね?」
 「コーディネイトですよ」
 彼女はそう言うと、簡素な、湯沸し器と浅く狭いシンクだけのキッチンから「きゅうきゅう」と咳き込むように鳴るケトルを持ってやって来た。プラスチックの取っ手までが熱い。小さく悲鳴を上げて、怖々と運ぶ彼女の姿を僕は目を細めて眺めていた。そしてシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出すとマッチを擦って火をつけた。白い煙が立ち込める。遅れて僅かに硫黄の匂い。開いていた窓から流れて来た空気に乗って蠢くように舞う煙は、実体がないにも関わらず何時見てもあいも変わらず、逞しい量感を持つ。細胞分裂さながら瞬く間に増えては直ぐに消え去る。生命のように儚く。
 カップとソーサーが互いに呼応し合うかのような調和で佇んでいた。小さな白塗りの皿に上に掻き混ぜる際に使用したスプーンを横たわらせた後も、液体は回転を止めなかった。水面の波紋はカップの縁に沿うように流動し続け、その様子はまるで自転車の車輪のスポークを思わせた。息せき切って漕いだペダルは足をどけた後も回転し続ける。車輪も、陽光を透かしたスポークの煌きも。午後3時のティータイム、あの長い坂を下る。
 飴色に透き通る紅茶の水面を眺めていただけの僕に彼女は尋ねた。
 「葉が出ちゃいました?」
 「いいや、熱いからさ」
 「猫舌なんですか?」
 「そうだよ。少しだけ冷めるのを待っているんだ」
 「冷たいほうが好きですか?」
 「冷たいのも好きだよ」
 「じゃあ、今度から冷たい飲み物にしましょうか。そろそろ暑くなりましたし、今日なんてまるで夏みたいですからね。つい癖で湯を沸かしてしまったけど、そうだ。今度はアイスティーに仕立てましょう。そうね、そうだわ」
 彼女は発案から賛同まで一通りを一人でこなし、その上で拍手を打つ。立ち続けていた湯気も切れ、僕はとろりとカップの端から流れ出す鼈甲飴の溶けたものみたいなそれを唇の中へと誘い込んだ。とろりと生温い。そしてその温度が好きだった。渋みも甘味も全てがふわりと気化して部屋中に香る。開け放した押し窓からは心地良い風が吹き込み、生成りの煤けたカーテンを揺らした。
 「気持ちのいい午後だね」
 僕はテーブルを囲んで正面に座る彼女に言った。そして続けた。
 「僕はこの青い、緑の香りがとても好きなんだ」
 西の窓からは向こう一面木々の頭が見える。普通の建物で言うと地上5階に相当するこの部屋からはかなり遠くまでが見えた。一面の緑が。
 「あちらに見える一面の森の中を散策したら、さぞ気持ち良いことでしょうね」
 彼女はのんびりとした声で、茶器を両手の平で包むようにして、窓の外へと視線を向けて言った。体は椅子に座る僕の方を向いていたが、首だけを窓の方へ向け、少し目を細めて。
 「森林浴かい」
 「ええ。きっと大好きな緑の香りもここから嗅ぐよりももっと自己主張を強く、命の息吹を感じることと思いますよ。上を見上げると葉と葉の隙間から零れる光りが星のように眩くて、薄暗い行く道の足元を照らして、まるで導くように、きっとそんな風なはずです。そうしたら森の奥の誰かの設置したハンモックに揺られて昼寝するといいわ。きっと森の奥に居てもこの塔の鳴らす時計の鐘は聞こえるだろうから、3つ4つ打ったら帰ってくればいいんですもの」
 「素敵だろうねぇ。でも、ハンモックなんかあるのかい?」
 「さぁ?どうでしょう、ないんですかね?」
 「深い森だからね、そんなに人が出入りしているとは考え難いなぁ。それに気を付けないと森林浴でなくて遭難になってしまいそうな森だよ。そんな呑気なものがあるかどうかは分からないよね」
 僕はテーブルの上の箱から取り出した新しい煙草に火をつけて、すっかり薄ら冷たい紅茶を啜った。氷を入れたようにも冷えていないが淹れたてでもない、そんなぼんやりとした温度の冷めた紅茶というのも悪くはない。肺を循環して来る煙を唇から吹き出す。またも部屋には白濁の気体が舞った。ゆっくりと解ける。
 「そうだ。迷いそうになったらわたしがここから双眼鏡で発見してあげますよ。何か合図でもしてくれれば、見つけてあげます。だから大丈夫ですよ」
 「合図と言ったってねぇ、発煙筒なんて持ち歩いていないし」
 「何でも良いんですよ。例えば狼煙と言ったって発煙筒でなくとも」
 「ふふ、まぁ、考えておくよ」
 余りに冗談の様相を呈さないので、それが可笑しくて思わず笑いが零れた。彼女は少しも冗談めかさずどうしても冗談としか思えないようなことを言った。まさか僕が森の中でロビンソン・クルーソーみたいにほとんど裸に近い状態にかろうじてボロを纏い薪で救助信号を出すところを本気で想像してはいまいと思うが、彼女ならば仮にそんな痩せ細り髭ぼうぼうの僕だって見つけ出してはくれそうだ。S・O・S、の後のひどく暖かい紅茶の香り。安堵の予感。
 「この間ですね」
 「うん?」
 突然の切り出しに少し戸惑う。何しろ取り留めのない空想の中にいたので。
 「久しぶりに夢を見たんですよ」
 「へぇ」
 「見ます?夢」
 「ほとんど毎晩見るね」
 「それで、出て来たんですよ」
 僕は「何が?」と尋ねようとしたところで、彼女が僕のことを指していることに気がついた。うまいこと口には出さず済む。代わりに「うん」と相槌を打った。
 「それだけなんですけど」
 「それはどんな内容なの?」
 「内容…というか、今のこの状況とさほど変わらないんですけどね」
 「それは、あれだ。日常がトレースされるようなタイプのあれだ」
 「とも少し違っていて…、何ていうか、例えばお茶を淹れているだけだったりしても、何か、雰囲気が」
 「日常的でないの?」
 「はっきりは分からないんですけど」
 僕は少し考えて、それから尋ねた。
 「良い夢?」
 「えぇ、多分」
 「そうか、良かった」
 「良いんですか?」
 「悪い夢よりはいいさ」
 「まぁ、そうですね」
 「悪い夢は出来るだけ見ないほうがいいに決まっているよ」
 そう言ってから僕はカップの中身を飲み干した。
 「そうだ」
 彼女はしばし黄昏ていたが、驚いて、僕の顔を見た。
 「発煙筒の代わりのものがあったよ」
 僕は南の窓の傍の古いチェストへと歩き出した。取っ手の金具は錆び、引き出すとキィと泣いた。取っ手が振れて硬貨を床に落としたような金属音もする。木製のシガーボックスがあって、そこからセロハンに包装された葉巻を取りだした。赤い楕円形の小さなシールが巻くように貼ってある。
 「葉巻なんか吸うんですか?」
 「まぁね。遊びだけどね」
 「遊び?」
 「僕には本当には葉巻を嗜むことは出来ないさ。けれど、良い匂いがすることだし」
 「高いんですよね?」
 「これは安いよ。そもそも初めは貰ったんだ。それだから試しに吸うようになってね、それの残りというわけさ。もったいないからね」
 1本1本がセロハンで包装された葉巻の、取り出したそれの封を切り、予めパンチされた吸い口を検分するように穴を眺めた。盛りあがりの中心に窪みがある。フラットにカットするものと違い、初心者向けなのだろう。テーブルの上の普通よりもうんと長いマッチで葉全体を燻す。先を炙るようにすると火がついて、それから一際大きく炎が立ち、消えた。頬を膨らませては窪ませて、呼吸器の運動を繰り返し、ゆっくりとくゆらせる。とても香ばしい。
 「これで40分くらいは煙が立ち昇ることになる。その間に発見してくれよ」
 「果たしてこんな頼りない煙で発見出来るかしら?」
 「でも優雅だろう?忙しなく品もない発煙筒の煙よりはずっと良いさ。僕は救助を待つ間ゆっくりと木漏れ日の中で生きた瑞々しい葉の香りとこの香りに囲まれて優雅に過ごすさ。退屈もしない」
 「じゃぁ、森へ行く時にはそれをポケットに忍ばせていてくださいね。わたしも一生懸命探すから」
 「ありがたい」
 その時、大きく地鳴りのように建物全体が蠢き、地響きが止むと鐘が鳴った。耳の芯まで重い音が、物悲しさが胸を押し潰す。僕と彼女は一斉に天井を見上げるようにして、一頻りその揺れを目視してから視線を元に戻す。最上階のこの部屋の上には時計塔の心臓とも言える機構が備わり、僕らのいる部屋は真下に位置するものだから一際その鐘の音も物悲しい。
 鐘は4つ打って、それからぴたりと止んだ。けたたましさの後は耳を裂くような静寂があって、開け放した窓の外では塔に巣食う名前の分からない鳥が先程の騒ぎで一斉に飛び立ち、そして戻らないまま旋回していたが、やがて何処かへ向かった。
 僕は彼女の姿を視界の端から捉えるようにゆっくりと見た。横顔を鼻筋から頬にかけて勢力を弱めた落ちかけの西日が照らし、白い5分丈袖のブラウスも窓ガラスの透かし模様の下地になった。何か、名前を知らない色に染めてゆく。火の消えた葉巻の先を小型のナイフで落として、テーブルの上に置いた。彼女は窓の外を眺めたままで居た。テーブルに腰を寄り掛かるようにして後ろ手を付いて支えている。カーテンが大きく棚引いて、遅れて心地良い風が吹き込み、彼女の前髪を揺らす様を見ていた。静寂は刺すように痛い。が、その痛みは悶え苦しむような種類のものではなく、あるいは名前のつかない淡い何かの気持ちの副産物として必ず訪れるような種類の痛みだったかも知れなかった。僕は彼女の視線の先にあるものを一緒に追った。
 「もう一杯飲みませんか?」
 幕を下ろすような急な遮断の仕方で、彼女はそう言った。凝視していた先からも視線を外し、こちらを見て。
 「そうだね。鐘は鳴ったけど、たまには構わないだろう。貰うよ」
 彼女は振り返り際微笑んだ。新しい煙草の先に火をつけて、吐き出した中空に踊り舞う煙を見ながら、混濁した様々な香りの篭る部屋で、椅子に反り返るように伸びるとカーテンがもったりとはためくのが見える。その動きは面倒臭いと言った感じだ。目を瞑る。鼻腔をくすぐる香り。
 ケトルの口はひっきりなしに蒸気を吐き出して、苦しそうに鳴いていた。





■おわり■