メタモルフォシス

−終焉−


朝倉 海人






(机の上に置かれたノート)
 僕は現在の自分の想いというものをここに書き残しておこうと思う。何故、書こうと思ったのか自分でもよく解らない。書き残すことに何か意味があるとも思えない。しかし、言葉を残すという行為はとても人間的であり、個人的に好きな行為である。僕はもしかしたら、そうした人間らしい行為をしてみたかったのかもしれない。

(右ページ上部の欄外)
 「現在の時間を書くのを忘れていた。現在は三月十四日、午前十一時である。ここは自分の部屋である。僕は自宅の自室でこれを書いている」

 そういえば、昨日から家族を見ていない。母親は、「掃除をしないと」と言って寝室の掃除に向かったようだが、いつの間にか物音がしなくなった。父親は職場から未だに戻ってきてないようである。

(赤色のボールペンで修正)
「今、下を見てきたら、母親と思われる茶褐色のものが寝室でうつ伏せの状態で倒れていた。あれはもしかしたら成功したのかもしれない」

(ここから黒ボールペンに戻っている)
 僕は何をここで書こうか、少し迷っている。まずは経過から書かなければならないだろうか。
 昨日、僕はある偶然により不思議な物体を見つけた。それは駅前にあるトイレの中でのことだ。僕はその日、腹の調子が優れなかった。そこでそのトイレの個室に入ったところ、便器の奥に隠れるように一つの瓶詰めが置かれていた。その中には茶色の粉が入っていた。僕はその粉が何であるかを当然知らなかった。が、その粉が気になったので持ち帰ることにしたのである。個室から出て、その瓶詰めを上着のポケットに入れようとしたところ、一人の男が近づいてきた。男は髭を生やし、髪の毛はボサボサで服装も綺麗とは言えず、どう見てもホームレスのような風貌であった。彼は僕にこう言ってきた。
「それは持ち出してはだめだ」
 そう言った後、年老いた男は瓶詰めを返すように僕に言った。僕は男の注文を断固として聞かなかった。返さない理由があるわけではなかった。しかし、この瓶詰めがその男の物であるという証拠はどこにもない上に、もしかしたらどこか頼りない感じの僕からなら強請れると考えたのかもしれない。どちらにしても僕には受け入れ難いことである。
 確かに僕にとって、この粉は重要なものであるはずがない。しかし、こうも執拗に、「持って行くな」と言われると持って行きたくなるのが人間である。
 僕が渋っているのに気づいて、男は言った。
「その粉は私たちの世界だけで受け継がれてきたものなのだ。それを普通の人たちが使っては大変なことになる。だから、早く返すんだ。その粉は私たちの誇りの積み重ねなのだ。この世界に入るとお前が言うのなら分けてやる。だから、返せ」
 男の繰り返される言葉に辟易した僕は、それを返す素振りを見せて、いきなり走り出した。不意打ちを食らった男は大声で僕を追いかけてきたが、構わずに逃げた。全力で僕は走り男を振り切ろうとしたのだ。どれくらいの時間走り続けたのかわからないが、気がつくと見慣れない街並みにいる自分がいた。僕は走るのを止めた。荒い息づかい、額から汗が滲み出る。苦痛の表情をした僕は走ってきた道を見た。
 振り返った先を見ると、茶褐色の物体が道の真ん中に倒れていた。僕は何故かその光景を美しいと思った。人間の体はいつか朽ちる。肉体が腐るから、人々は火葬や土葬など人前から消すのだろう。僕は自分の肉体が朽ちることが我慢ならなかった。人間とはそういう自然の摂理から超越した存在でなければならない。この瓶詰めの粉は、その僕の思いを叶えさせてくれるかもしれないのである。
 玄関でチャイムが鳴っ(ここでインクが切れたのか、文字が消えている)

(再び行を変えて始まる)
 二人の男が僕の家を訪ねてきた。一人は中年の男で、がっしりとした体格をしている。短い髪が目の鋭さを消す爽やかさを持っていた。もう一人は若い男である。若い男の方は、少し眺めの髪で色が入ったレンズの眼鏡をしていた。男たちは、僕の持っている瓶詰めについてしきりに尋ねてきたが、僕は知らないと言い通した。

(小さな文字で薄く)
 あの二人は何者だろうか? 僕の秘密を知っている人間なんて。

(通常の大きさに戻る)
 僕は瓶詰めの蓋をゆっくりと開けた。母親の様子からしてやはりこの粉が鍵のようである。僕はその粉を左人差し指で強く押しつけた。指先についた粉を眺める。不思議な香りが僕を包み込む。甘く誘惑される香りである。僕はその粉がついた指を舐めた。が、何も起こった様子はなかった。この粉ではないのだろうか? これでは困る。僕はこの粉で「永遠」を手に入れるのである。これほど素晴らしいことはないだろう。朽ちることのなく、時間という全ての物体が縛られる現象を僕は超越するのである。ああ、なんと喜ばしいことだろう。あ……ゆ……(紙面には茶褐色の粉が散らばって、ここで文章は終わっている)

「早く、袋に詰めろ」  男は言った。若い男はその言葉に小さく頷き、慎重に目の前の物体をいくつかのパーツに分けてビニル袋に入れた。数十個のビニル袋に分けられた茶褐色の物体は、段ボール箱に一つずつ詰め込められた。段ボールには、「S共和国」の文字。
 二人の男はS共和国の人間である。と言っても、「S共和国」なる国がこの世の中にあるわけではない。彼らがそう呼んでいるだけで、それは一つの組織のような同盟のような団体だった。大都市の一角、忘れられた廃墟ビルに彼らは毎週集まる。彼らはお互いの名前も出身も年齢も知らなかった。名前や社会的地位などというものが彼らの間では、何の意味もなさなかったからである。男、女という性別すらどうでもよかった。
 彼らには誰一人として家族はいなかった。いや、たとえ家族がいたとしても、「いない」と彼らは言い切った。家もなかった。街の中で段ボールに囲まれて生きていた。そういう彼らのコミュニティの中で、この粉は生まれた。どこで生まれたのかは、はっきりとは解らなかったが、社会から抹殺された彼らが最期の姿をこの社会に残したいという願望を叶えさせる粉であった。
 これまで多くの同士がこの粉で死んでいった。彼らはそれで満足だった。社会に認められたいなどと思っているわけでもなく、彼らは最期に自分たちを残したいだけである。
 ある日、一人の男が言った。
「俺たちが静かに消えるのではなく、あいつらを静かに消してしまえばいい」
 その意見はS共和国を二分させた。彼らのこれまでの生き方を否定するものだったからだ。しかし、あの日、一人の少年が粉を持ち出したことによって、状況は変わった。もし、このような粉を彼らが隠し持っていると世の中の人々が認識すれば、彼らの身に危険が及ぶ可能性がある。自分たちのコミュニティが侵されるかもしれないと不安になった彼らは、このビニル袋に詰めた粉を無作為に一般人に送りつけた。攻撃される前に攻撃をするという彼らの論理である。
 その結果、今では街がD・D作用で静かに形を残すことになった。彼らはそれを満足そうに見ている。
「そろそろ、潮時だな」
 男は若い男にそう言うと、若い男も真剣な眼差しで男を見た。小さく頷くと、上着から瓶詰めを取り出し、中に入っている粉を舐めた。
 D・D作用が静かに始まった。男は笑顔だった。S共和国の住民たちは、全員がこの日D・D作用によってオブジェとなった。彼らの願いはこの日、最高の形となって結ばれたのである。
街は全てがオブジェとなった。その中で「S共和国」の住民たちは満足そうに死んでいくのである。

−了−