田村 綜






 自分の身なりが汚いので恥ずかしかった。
 白い床は服の色が映り込むくらい磨かれ、実用性よりもデザインを重視した高級感あふれる鏡や椅子も、手入れが行き届き、チリ一つ付着していない。そしてとにかく明るかった。空間に光が満ちあふれ、僕の服装のみすぼらしいのを容赦なく鮮明にしてしまう。
 セーターは穴が開き、ところどころ下の黄色いシャツが覗いている。ジーンズの裾はボロボロにすり切れ、埃などで茶色く汚れている。靴の皮は塗装が剥げ表面がけば立っている。髪の毛はボサボサで、無精ひげは二日分伸びている。上から下までまともな部分が一つもない。
 とはいえ、この身なりはただ気づかぬうちに汚くなってしまっただけではない。この無頓着さには、僕なりの誇りや確信やスタイルが込められている。反体制、非常識、個性、こう並べるてしまうと、夜店の射的の景品のように安っぽく思えてしまうが、恥を忍んで言えば、まあ、そんなメッセージが、なかったわけではない。いや、正直なところ、そんなつもりは、おおいにあったのだ。しかし、この清潔すぎる空間では、僕のそんな価値観はまるで通用しないような気がした。
 ここでは、僕の姿はあまりにも周囲から浮き上がっている。だから、服装の薄汚さや欠点ばかりが強調され、まるで非難さえされているようだった。あまりにも隙のない清潔さや健全さに包囲されてしまい、完全に孤立してしまった僕は、ここに入るまではおぼろげに意識していたスタイルなどすっかり忘れて、まるで素裸にされたような無防備な気分になった。
 ここは僕のような人間の来る場所じゃない。入った瞬間に、僕は引き返したいと思った。しかし、虫の息とはいえかすかに生き残ったブライドが敗北を認めてくれなかった。ここで引き返したら男がすたる。零戦にのる日本兵のようなつもりで、入店したのだけれど、やっぱり無惨に撃沈されてしまったというわけだ。僕の信念はあっさりとこの店の雰囲気に降伏してしまった。とにかく居心地が悪く、恥ずかしい。こんなふうに服装くらいで落ち着きを失ってしまう自分というのは、なんと情けないんだろうとも思った。まったくみじめな気持だ。
「そこに腰掛けてください」
 と美容師は言った。
 言われるまま腰掛けると、手元のテーブルに、手に取ったこともないような高尚で知的な雑誌が積み重ねられているのが目に入った。僕などが美容室といえば思い浮かべる、女性週刊誌や若者向けのチープなファッション雑誌のたぐいなど、影もかたちも見えない。何もかも完璧だ。つけいる隙がない。
 めまいがしそうだ。


 その日はアルバイトの出勤日だったので、家で少し寝てから、ひげだけ剃って、駅前のコンビニエンスストアーに向かった。
「黒木くん、髪の毛切ったんだね。似合うよ。でも、なんか可愛くなっちゃったね」
 日勤の美濃さんが言ってくれたので、髪を切ったあとの微妙な緊張感は、ほとんどなくなった。
 美濃さんはアルバイトの学生で、普段は新宿の専門学校に通っている。週に二、三日、学校が休みの日にはこのコンビニに出勤している。年は僕と同じ19才だ。入ってきたときに最初に仕事を教えたのが僕で、そんな縁から、気軽に話すようになった。僕が気軽に話しかけたり、話しかけられたりする異性は、そう多くない。
「あ、レジに客が来てる」
  僕が教えると、美濃さんはレジの方へパタパタと走っていった。僕はバックルームに入った。
  僕ら夜勤の出勤は夜九時。まだ八時四十分である。少し早く来すぎてしまった。バックルームの椅子に座ってタバコを吸っていると、店長がやってきた。
「おはようございます」
 と僕は言った。
「おはよう。何さぼってるんだ?」
 少しも冗談めかさない、敵意すら感じられる声で、店長は言った。
「まだ、二十分も前じゃないですか」
 無駄だとわかっていても、僕は反抗した。すると、店長はむやみに鋭い目つきで僕の顔をジロリと睨んだ。やれやれ。
  この人は、こんな、なんでも無いことでも、威嚇的な態度をとって権力を誇示したがるので、従業員の間での評判は悪い。口癖は「なめるな」と「馬鹿にするな」だ。ことあるごとに、連発している。周囲の人間にとっては、不快きわまりない口癖だ。どうして、こんな人間性なんだろう?
 アルバイトの赤石は、背が極端に低いコンプレックスが、この人にこんなに高圧的な態度をとらせていると分析した。それは、なかなか説得力の高い説明だと思う。この人並みはずれて背の低い人物は、自分の頭の上を通して物をやりとりしたりすると、それだけで極端に興奮し、怒声をあげる。殺意のようなものすら、感じられる。
 この店のアルバイトが長続きしないのは、だいたいこの店長の態度が原因らしい。実際、僕は辞める従業員の口から、何度か聞いてしまっている。とにかく、みんなすぐに辞めてしまう。だいたい、新しい従業員の半分くらいが、入った最初の日で辞めてしまい、そうでなくても、ほとんどが最初の一週間で嫌になる。一ヶ月も続くのは、殆ど例外にちかい。
 そんなわけで、僕はこの店で働きはじめてまだ八ヶ月だが、もう一番古い従業員になってしまった。あまりに従業員が頻繁に辞めるため、一時は、僕と店長と日勤のパートのおばさんしかいない状況になったりもした。あのときは、つらかった。やがて、赤石や、倉田さんという日勤の人が入ってくるまで、僕は毎日出突っ張りだった。だいたい一ヶ月くらいのことだったのだけれど、その間は、ほとんどこのコンビニで暮らしているのと変わらなかった。そして、毎日店長と二人きりだった。もちろん、嫌だった。しかし、あまりに人が居ないこの状況で辞めるとも言い難く、ずるずると続けているうちに、なんだか慣れてしまった。慣れてしまうと、辞めるのが惜しくなった。そうして、気が付けばもう八ヶ月だ。
 今では従業員も増えて、だいぶ楽になったけれど、おかげで僕はバイトのリーダーだ。店長も、僕のやることならだいぶ、大目に見てくれるようになった。でも、それは他のバイトに比べて、という比較論であって、世間の平均的な店長に比べれば、やはり厳しい。
 今日みたいに、出勤時間になるまで一服しているだけでも、やはりこんな口を叩かれる。
「働く気がないなら、辞めてもいいんだぞ?」
 よく、こんな人と、八ヶ月もつきあってきたものだ。と、僕は心底思った。そして、この時間から働いたって、どうせ、その分の時給なんか払わないのだ。
「勘弁してくださいよぅ」
 僕は内心で毒づきながら、ヘラヘラ卑屈に笑って見せた。もう、慣れてしまったのだ。あらためて考えると、これは本当に良くない傾向だ。卑屈な自分が嫌だった。早く辞めよう、と思った。店長がいない時など、店内のほとんどを管理している僕が辞めれば、店長も少しはこたえるだろうか? ……とてもそんなことはないように思われた。
 一服してから、着替えはじめた。倉庫兼更衣室の小さな部屋で、なるべく時間をかけてのたのたしていた。いや、着替えるといっても、シャツを一枚上から着るだけなのだけれど、僕はそれだけの作業に五分近くかけるという馬鹿らしい技術を、身につけてしまっている。その技術を存分に発揮しているところへ、赤石が出勤してきた。
「おはようございます」
 赤石が近寄ると、高そうな香水のにおいがした。
「クロさん、今日学校行きましたか?」
 僕は学生のくせに、学校へ全く行かない。それをからかうのが、赤石の習慣になっている。
「行かないよ。めんどくさい」
「卒業出来ませんよ?」
 赤石は笑った。赤石は僕と同じ大学の一年生で、ひとつ年下だ。こんなことを言っているが、この男だってまじめな大学生とは言い難い。学校にいるよりも、雀荘やパチンコ屋や、あるいは恋人の家にいる時間のほうが、遙かに長いだろう。
「今日は、働きたくないなぁ」
 赤石は、ため息とともにつぶやいた。
「スロット打ってたら、すごい出たんですよ。アツかったなぁ。一日中出っぱなし。見てくださいよ。千円札じゃないですよ、マン札ですよ。今月はバイトしなくてもいいくらい。アツかったですよ。フィーバーすると、脳内麻薬がすごい出るって知ってました? まだ頭がクラクラしてる。もっと打ってたかったなぁ」
「金持ちだなぁ。今度飲みに行こうぜ。おごれよ」
「うん、そうですねえ。少しくらいなら、かまいませんよ。おごりますよ。どうせ、ロクなもん食ってないでしょう?」
「余計なお世話だ。でも、まあ、有り難いね……」
「ほら、いつまでゴソゴソやってんだ。働け」
 外から店長の声が聞こえた。時計を見ても、まだ出勤時間前だ。僕と赤石は申し合わせたように二人そろって、うんざりした顔をしてから、苦笑した。

 金曜日だけあって、夜になっても店内は混んでいた。美濃さんと、パートの主婦の若林さんが、忙しそうにレジを打っている。僕はスナック菓子の品出しをしてから、荷物の多い客が並んでいる美濃さんのサッカーをやることにした。元の言葉は「sacker」だろう。レジで打った商品を袋に詰める係のことだ。堅いもの、重いものを下に入れ、軽くてかさばるものをその上に入れる。暖かいものと冷たいものを分ける。「ストローおつけしますか?」「箸おつけしますか?」そんな事を言うのもサッカーの仕事だ。
「ありがとう」
 僕が横に立つと、美濃さんが言った。
「いやいや」
 そして僕は作業をはじめた。慣れてしまっているので、ほとんど何も考えないで出来る。出勤時には、まず二人で品出しと冷蔵、冷凍庫の温度チェックをして、それが終わると一人は店内の掃き掃除、一人はレジの手伝いをするのが店長の作った作業手順だった。そして、実は掃除よりもこちらのレジ手伝いのほうが楽なのだ。こんなに客の多い時間に、いくら掃除したところで、後から後からゴミが出てくる。果てしなくうんざりする。そして掃除後にゴミが見つかれば、店長のお叱りの言葉が待っている。とてもやってられない。そもそも作業手順に問題があるのだが、前にそれを言ったら叱られた。店長曰く「馬鹿にするな。お前が勝手に決める権利はない」。美濃さんの感謝の言葉には申し訳ないが、僕は楽な仕事を選んだだけだった。赤石は柄付きほうきを握って、ときおり恨めしそうにこっちを見ている。
 美濃さんの隣で、しばらくサッカーをやっていると、
「お前は若林さんのほうをやれ」
 と店長が言ってきた。美濃さんがこっそり僕に目線を送った。僕は苦笑を返す。
 そして僕はパートの若林さんのサッカーに立ったのだけれど、若林さんはレジが速いので、袋詰めも大変だ。おいてかれないように、負けじとスピードアップすると、若林さんもそれにあわせてスピードアップする。だいたい、若林さんにサッカーはいらないのだ。たまに僕などがサッカーにつくと、こんなふうに、ちょっとした勝負になる。
「あ」
 僕は、あまりに早くやりすぎて、雑誌の端でビニール袋を破ってしまった。作業が停滞する。レジを打ち終わった若林さんが勝ち誇ったような視線をよこす。今日は僕の負けということらしい。
 ほどなく、会計のラッシュが終わると、僕は夜勤本来の仕事に戻り、日勤はレジ点検を始める。レジ点検は、一円でも違うと、床にはいつくばって、カウンターの裏をひっくり返して、探させられるから、実に緊張の伴う作業だ。金額が合わなければ、確実に退勤が15分は遅れる。しかも、遅れた分は残業がつかない。店長曰く「なめるな、自分が打ち間違えたのが悪いんだ」ということらしい。
  そして、美濃さんはレジ点検やレジそのものがものすごく下手だ。すぐに数え間違えたり、釣り銭間違えしたりする。今日も、床にうずくまって探していた。
「いくら?」
 と僕が訪ねると、
「五円足りないの」
 美濃さんは、泣きそうな顔で言った。
 僕は店長が見ていないのを見計らって、監視カメラの死角の場所で、「そこに落ちてたよ」と、美濃さんに五円渡した。この五円は実は、自分の財布から取り出したお金だ。僕や赤石は、自分でやってレジが少額合わないとき、よくこの手をつかう。ただ、もしこんなのが店長にばれたら、即刻解雇されるだろうから、けして機敏とは言えない美濃さんに、教えることは出来ないのだが。
「ありがとう」
 と言われると、僕もうれしい。良いことをしたあとは、気分がよい。
 だけれど、数えなおしたら、今度は五円多かった。最初から数え間違えていたのだ。どうも、余計なことをしたらしい。結局美濃さんと若林さんの退勤は30分も遅れた。僕はすっかり申し訳ない気分になってしまった。
 美濃さんが帰るのを追いかけるように、
「遅くなったから、美濃を送って帰る」
 と言い残して店長も帰っていった。
 さて、これで、もう一日の仕事は殆ど終わったようなものだ。店長が帰れば、この職場にはもう何一つ困難はない。この職場のストレスの九割は、あの店長の理不尽な態度につきあわされるところから来ているように思う。
 やがて店内に客がいなくなると、僕と赤石は二人してバックルームにマンガ本を持ち込み、タバコを吸い始めた。休憩タイム。
「店長は、またなんかよくわからないこと言って、美濃さんを送っていきましたよね。送るくらいなら、最初から五円なんかでこだわらなきゃいいのに。ねえ、絶対、店長、美濃さんに気があるとおもいません?」
 赤石が言った。
「あるみたいだね。っていうか、あるよ。気が付いてないの?」
「何をですか?」
「美濃さんの近くに、おれとか赤石がいると、必ず店長がやってきて、邪魔するだろ? 今日も、おれが美濃さんのサッカーやってたら、店長いきなりきて、お前、若林さんのサッカーやれ、とか言ってきた」
「うわあ、そうなのか。なんか、かわいらしいですよね。不器用だなあ、店長。可哀想だなあ、店長。身の程知らず」
「いやいや、意外と、二人が出来ちゃったりするかもしれないよ」
「まさか! 美濃さんみたいなひとが、あんな店長と? 美濃さんみたいに、あれだけ綺麗だったら、男なんか、選び放題ですよ。店長なんか、一番選んじゃいけない。ありゃあ、きっと、素人童貞ですよ。まちがいない」
「ひどいなあ」
「そうですか? 的確な予想だと思うけれどなあ……あれ? クロさんの携帯鳴ってません?」
「ああ、本当だ。メール入ったみたい。お、こら、うれしいなあ。見ろよ、美濃さんからだ」
「うそ」
「うわ、仕事頑張って、だって! どうしよっか?」
「うわあ、すげえ。クロさん、カッコイイなあ」
「そうだったら、良いんだけどね。どうせ、違うんだろうなぁ」
「また、何言ってるんですか! そういや、クロさんと美濃さん、妙に仲良いもんな。なんだ、 そうなのか。あーあ、店長、かわいそうになぁ。切ないなあ」
 だいたい僕と赤石は、一晩中こんな事ばかり話している。

 そして、朝六時頃、入荷作業が済むと、仕事は終わりだ。朝勤の従業員などと話したりしながら、何か食べて、少しゆっくりして、そして帰途につく。
 白く濁ってひんやりした空気のなか、通勤するサラリーマンや、朝練かなにかをするのか、スポーツ道具を抱えた高校生などの波に逆流して、家に帰る。街は目覚めたばかり。僕はこれから寝るところ。そして目を覚ましたらもう、夕方になっているだろう。
 歩きながら、学校のことが、ちらと頭に浮かんだ。こんな生活じゃあ、とても講義なんかに出られない。しかし、それは、それだ。すでにもう、出席が必要な授業も殆ど欠席してしまっており、いまさら手の着けようもなくなっている。いや、そもそも、こんなアルバイトをしてなくて、出席するチャンスがあったところで、以前のように学校に通うようになるとは思えなかった。学校に行けば、単位がとれて、卒業も出来るだろう。そのほうが、「まっとう」に違いない。親も喜ぶ。順調な社会生活だ。僕の生活が順調になれば、僕だって、不満はない。不満はないけれど、それだけだ。社会生活を送るためには、僕は、僕ではない誰かのふりをして、うまく社会との関係を調整していかなくてはならない。今はもう、そうやって、社会生活というもののバランスをとる事に興味が持てなくなっていた。僕ではない誰かが作り上げた社会生活は、結局僕のものではなくて、僕ではない誰か、そいつ自身のものなのだという気がしてならない。僕は、最近、僕ではない誰か、そいつに悪意に似た感情を抱いているのだ。社会生活をうまくやったって、そいつが喜ぶだけだとしたら、むしろ積極的にうまくいかない様にしたいくらいだ。

 駄目だ。歩くと、ものごとを考えすぎる。

 散らかりきった自分の部屋にたどり着く頃には、すっかり虚無的な気分になってしまっていた。閉ざされたカーテンの隙間から、朝の白い光が射し込んでいる。せっかくの明るい太陽の光を、わざわざ遮って、こんな暗闇に閉じこもっているなんて。思わずそんなことを考えてしまい、僕は気分を余計に暗くした。憂鬱な気分は、嫌だ。もっと、気楽なことだけ考えよう。
 僕はズボンだけ脱いで万年床に潜り込み、枕元の読みかけの本を開いた。今の僕が良い夢を見るには、美しい物語が必要だろう。「クヌルプ」。それは、とても考えられないような甘い話だ。嫌な気分のときには、本を読むのが一番だ。読んでいるうちに、良い気分になって、そしてだんだん眠くなって、幸せな眠りにつけそうになってくる。
 しかし、そのとき、突然、携帯電話が鳴った。いや、電話なんか、いつだって突然鳴るものだろう。前もってわかっている電話なんか、ごくわずかしかない。でも、静寂をうち破って鳴り響くその電話の着信音は、やはり突然としか表現しようがないし、実際そのとき僕はそう思った。なんだって、今から寝ようとしたそのときに! 
 憤慨しながら、見ると、メールが着信されている。
「おはよう」と入っていた。
 美濃さんからだ。
 それにしても、美濃さんは、ずいぶんまめにメールをくれる。あんなに綺麗な女の人に親しくされるとうれしい。そりゃ、うれしい。だけれど、こうやって美濃さんと親しげに話しているのは僕じゃない。それも確かだ。学校の事と同じだ。バランスをうまくとるために、誰かが出ていって勝手にうまくやってくれている。そこに僕はいない。僕は、美濃さんと喋っている僕によく似た別のやつの後ろ姿を見ている。
 あいつはずいぶん、美濃さんとうまくやっているようだが、もし、あいつをさしおいて、「僕」が何かを喋ったら、美濃さんはどんな顔をするだろう?
 それを実際にやってみたいような衝動にかられる。
 ……ああ、またも、考えすぎだ。まるで僕は、自分で自分の生活を駄目にしているみたいだ。何だって、こんなに下らないことばかり考えるのだろう。
  どんな理由であれ、あんなに綺麗で可愛い人と親しくなれるなら、それでいいじゃないか。美濃さんなら、何の問題もない。明日元気になれば、僕は美濃さんと、どうでもいい日常的なメールのやりとりをするような関係を築いていることを、誇りにさえ思うだろう。それで、いいじゃないか。
 僕は「おはよう。オレはバイト終わり。もう寝る」と、ごく簡潔に返した。
「おやすみ! こんど遊ぼうね」
 と、美濃さんから返事が来る。
「楽しみにしてる。おやすみ」
 このメールを最後に返して、僕は寝た。


   2


 その日は、赤石と飲みに行った。
 バイトの話をし、必然的に美濃さんの話になった。赤石は、普段から僕の生活に女性がいないのを心配してくれていた。赤石にとって、人生の幸福とは、親しい女性の質と量で量られるもののようだった。その価値観でゆくと、赤石は幸福な人生を送っており、僕はずいぶん可哀想な人生を送っていることになった。
 そのせいか、どうか。赤石は、僕と美濃さんの事について、妙に喜んでいた。
「クロさん、うらやましいなあ」
 赤石は、酒に弱い。まだ、最初に注文したビールが、三分の一ほど残っているにもかかわらず、顔が真っ赤になっている。女性によく噂される、整った童顔だ。
「滅多にいないですよ。あんなの。どれくらいの関係なんですか?」
 僕が答えないで適当に笑っていると、赤石はしつこく追求してきた。絡み酒だ。
「いや、どれくらいっていうほどでもないよ。ちょっとメールしたり、電話するくらい。それにどうせ、人間同士なんか社会的な関係だし」
 僕もアルコールが回っていたのか、余計な意見が、語尾に出てしまった。酔っているくせに、赤石は気がついた。
「社会的な関係ってなんですか?」
「表面的なんだよ結局。僕が目を閉じて、耳をふさいで、鼻をつめて、肌に何か感覚を遮るものをぬりたくってしまえば、他人も世界も全部なくなってしまう。そんなもの、あってもなくても、僕には関係なくなってしまう。世界なんてのは結局、五感が作り上げた幻覚なんだ。そして、人間関係も、社会も、全部、そんな儚いものの上にのっかっているくだらないものだ。虚しいよ」
「そんなことないですよ。いやだなあ、だからクロさんは、楽しくないんだ。暗いなあ」
「そうかなぁ」
「美濃さんのこと嫌いですか?」
「好きだね」
「じゃあ、いいじゃないですか。ややこしく考えすぎなんだ。今、彼女がいないからですよ。はやく美濃さんなりとつきあって、心が満たされれば、世の中明るくなりますよ。人生、やっぱり女ですよ」
「そうだなあ。きっとそうだよな。楽しくなるだろうね! 恋人が出来れば、全部解決だ!」
 僕は、ほとんどやけくそに笑った。
「そうですよ!」
 赤石は、真顔で首肯してから、
「僕だって中学生のころまでは、引きこもり少年だったんですよ」
 突然、意外な話をきりだす。
「家には女の子の姉妹しかいなかったし、そのせいで、ちっちゃいころから女の子の中でずっと遊んでいたから、仕草とか言葉使いが、少し女っぽかったんですよね。それで、学校に行ったら、オカマだっていじめられて、でも、それまでそういう環境しかなかったから、オレにはどうしようもなかったんですよ。それが小学校くらいかな? そういうことがあってから、あんまり学校行かないで、ずっと家のなかにいるようになったんです。ゲームばっかりやってました。朝から晩まで、起きてる間中ずっとテレビのゲーム画面みてるような感じです。あれは、でも、麻薬ですね。部屋に引きこもって嫌な情報を遮断していると、心が落ち着くんですよ。たぶん、あのまま引きこもって一生を暮らせって言われても、それは出来たかもしれない。人間って誰でも、眠れる森の美女の、敵役のお妃様が持ってる魔法の鏡を持っていますよね。一番美しいものは、あなたです。というやつ。でも、外に出ると、他人の鏡をみなくちゃいけない。そこには、自分の鏡には映らない、嫌なところとか、変なゆがみとかが、映ってるんです。引きこもりって、そういう他人の鏡と向き合わないで済むから、それが、僕にとっては一番の救いになったんです」
 酒の入った赤石は妙に饒舌だ。僕に喋っているのか、それとも、自分に向かって言っているのかしらないけれど。
「それがね、変わったんです。姉ちゃんがつれてきた友達の一人を、好きになったんです。引きこもってる僕に、優しくしてくれて。結局その思いは、どうにもならなかったんだけれど、それがきっかけで、引きこもりから立ち直ったんです。それから僕は、女性に目覚めたんです。やっぱり、恋人っていいですよ。自分が受け入れられる場所があるっていうのは。
「 そりゃあまあ、場所が違うだけで、やってることは、恋人の心のなかに引きこもるわけですから、結局僕はあのころと大差ない引きこもり少年のままなのかもしれませんが、でも、自分の部屋にいるよりは、ずっといい場所だと思いませんか? 僕が思うに、やっぱり、人生って愛なんですよ。それしかないんだ。だから、クロさんも、また彼女作ったほうがいいですよ。それとも、まだ前の彼女引きずってるんですか? 駄目だなあ。前向きにならなくちゃ」
 僕が苦笑していると、赤石はさらに続けて「愛」だの「恋人」だのがたくさん出てくる話を、熱っぽく語っていた。



   3


 バイト先のコンビニで、鼠が発生した。
 倉庫兼、更衣室の小部屋だった。はじめに発見したのは、帰ろうと、私服に着替えていた倉田さんだ。 悲鳴をあげて、飛び出してきた。
「何か物音がして、棚のものが落ちてきたんです」
 真っ青な顔をして、倉田さんは言った。
 僕と店長で、小部屋に入ると、なるほど、棚に並んでいたスナック菓子やカップラーメンのたぐいが、崩れ落ちて床に散乱していた。僕は店長に命令されて、それら、落ちている品物を調べた。
「うわ、見てくださいよ。袋に穴が開いています。毛がついてますね。鼠にかじられたんですかね」
「鼠だと? そんなもの、今まで出たことないぞ?」
 と、店長は、僕をにらみつけた。まるで、僕が鼠をつれてきたかのような態度だ。
「まあいい、他に、駄目になった商品がないか調べろ」
 スナック菓子がいくらか、それに、カップラーメンもかじられていた。そして、棚のところどころには、細かい毛がついている。これが、鼠の毛だろうか?
 そして、僕がさらに奥のほうの商品を調べようと手を伸ばすと、鼠が、いた。
 棚の裏のほうにうずくまっていた。しかし、それを確認したのは一瞬だった。次の瞬間には、鼠は稲妻のようなものすごいスピードで走り出した。
「うわ」
 体のわりに、大きな足音で、僕は思わず声をあげた。店長も、びっくりしたようだった。「あ!」と声をあげ、そのあと、自分を落ち着けるためなのか、なぜか「なめるな」と口癖を何度も言った。
「どこかに、出入り口があるはずだ。無ければ、まだ隠れているだろうから、探せ」
 そんな言葉を言えるくらい、店長が冷静さを取り戻すころには、とっくに僕は自分の判断でやりはじめていた。鼠が逃げて行った棚の裏に、換気口がみつかった。毛も、発見された。おそらく、この穴から、入ってきたのだろう。そして、部屋のなかには、もう鼠はいないようだった。それから、僕は店長命令に従って、針金で換気口に網のようなものを取り付け、鼠が入ってこれないようにした。
「まったく、損害出しやがって。一体、誰がこの被害を弁償してくれるんだ?」
 床に散乱したスナック菓子を身ながら、店長は言った。それはやっぱり、僕に言っているように聞こえた。

 鼠は、しかし、それだけでは終わらなかった。
 翌日の深夜、赤石がスナックをとりに倉庫へ入り、しばらくしてから僕を呼んだ。彼も、鼠がガタガタと駆けめぐったのを見たのだ。
 赤石は、前もって話を聞いていたので、賢明だった。僕が駆けつけると、彼は換気口を抑え、部屋の床に目を走らせていた。床には、スナック菓子が散らばっている。
「まだ、逃げていません。出入り口がここしかないなら、まだ部屋のなかに隠れているはずです」
 と赤石は言った。
「よし、捕まえようぜ」
 僕は用具入れとバックルームから、モップと懐中電灯を持ってきた。モップを逆さにもって、柄のほうでスナック菓子などをのけながら、電灯で暗がりを探る。
 部屋の角隅、床の上に、鼠は居た。
 自慢じゃないが、僕は剣道の有段者だ。モップの柄で、払うように、鼠を叩く。相手は角にいるから、逃げにくい。当たったけれど、やはり、叩きつぶすことを考え無意識に手加減してしまったのか、弱い。いや、弱くなかったら、 それはそれで僕は大変後悔していただろうけれど。ともあれ、それは全然鼠の行動力を奪うほどではなかった。びっくりした鼠は、部屋の中央、つまり、僕がいる方向へ向かって、走ってきた。
 僕は、よける。鼠は、そのまま直進する。赤石のほうだ。
「うわわ」
 みっともない悲鳴をあげる赤石の足を、なんと鼠はよじ登り始めた。人間のような大きなものを、鼠のような小動物には、それ自体一体の生物として認識出来ないのだろうか。
「素手でとれ」
 僕の無茶な命令は、赤石には聞こえなかったらしい。足を振って、鼠を引き剥がした。引き剥がされた鼠は、近くの床に着地する。僕は、再びそれをモップの柄で追ったが、自由な行動スペースを得た鼠は、それを難なくかわした。小さな生き物は、時間の流れを遅く感じるというから、人間の振り回すモップのスピードなど、スローモーションのように見えているのかもしれない。
 そして鼠は、もう赤石がふさぐのをやめてしまった換気口へ逃げてしまった。
「怖い! 怖い!」
 大声で騒ぐ赤石を無視して、換気口を調べる。昨日張り付けた網は、穴を開けられていた。
 それから鼠は、頻繁に倉庫を脅かすようになった。何度か対策をしたが、結局芳しい効果はあげられなかった。建物は怖ろしく古く、棚をどけてよく調べれば、あちこち壁のほころびがあるのがわかった。そして、たとえ換気口をふさいでも、鼠はすぐに別の入り口を見つけて侵入してしまう。この追いかけっこは、毎日スリリングに展開された。
 この事態を、店長は青筋を立てて憤慨し、女性従業員は恐がり、僕と赤石は面白がった。


   4


 目に見えて、美濃さんと僕は親しくなっていた。
 その日僕たちは駅前のハンバーガーショップで、一緒に食事をとっていた。この街には学生が多い。僕たちの他の客も、似たような若い連中ばかりで、店内はひどく騒がしい。
 僕もこの風景にとけ込んで、みなと同じように見えているのだろうか? ふと思った。しかし、そんなこと、よく考えてみれば当たり前のことだ。僕は、とけ込んでいるのだろう。同じように、見えているのだろう。いや、むしろ、殆ど区別だってつかないに違いない。

 僕たちは、窓辺のカウンター席に、並んで腰掛けている。
「なんか、店長って、こわい」
 美濃さんは、フライドポテトをかじっていた。
「良いって言ってるのに、無理矢理わたしの家まで送って行こうとするの。それに、肩とか触ってくるの」
「それは、セクハラ?」
 声を出して笑ってみたが、美濃さんは笑わなかった。
「……気持ち悪いね」
  僕は、態度を変え、別な事を言ってみた。しかし、美濃さんは、聞いているのかいないのか、ぼんやりとした目つきで、相変わらずポテトをかじっている。そうやって、美濃さんが黙り込んでいるものだから、僕は相手の表情を見ながら卑屈に態度を変え、そのくせ空回りしてしまった自分を発見してしまい、内心でこっそり自己嫌悪した。
 少し間をおいて、ようやく美濃さんは口を開いた。
「良い天気だね」
 身構えていた僕は、すっかり肩すかしをくらってしまった。この人が何を考えているのか、正直なところ、僕にはさっぱりわからない。
「黒木君、ポテト好き? わたし、なんだか、おなかいっぱいになっちゃった」
 美濃さんが差し出すポテトを、僕は、「ああ」とか「うん」とか良くわからない返事をしながら、受け取った。この行為は、どう解釈するべきなのだろう。一体、どういう気持があって、こういうことをするのだろう。そんなことを、僕が考え、処理しきれていないうちに、美濃さんは、さらに、意外なことをいった。
「わたし、黒木君のことが好きなの」
「黒木って、オレ?」
 間抜けな事を訊いてしまった。他に黒木なんているはずもなかった。
 その日から僕たちは、いわゆる恋人関係になった。


  5


 倉庫はやはり、毎日のように荒らされていた。
 鼠の姿は、頻繁に見かけられたが、しかし、捕まえることは出来なかった。女性たちは、倉庫へ入るのを嫌がるようになってしまった。店長だって、次々と拡大してゆく被害に、毎日苛々していた、と思うが、普段から無意味に憎悪をむき出しにしているので、わかりにくかった。
 ともかく、これ以上長引くようだと、いい加減冗談では済まされないような空気が、店内に漂っていた。ただ、鼠はこう何度も目撃されている割には、同時に二匹以上が発見されることはなかった。おそらく、問題の鼠は一匹しかいないのだろう。それだけが、幸いと言えば、幸いである。
 そして、ついに店長が動いた。
 いや、それまでも動いてはいたのだけれど、それらはすべて、店内の針金やらで間に合わせようという、けちくさい発想の域を出ないでいた。今回は、違う。ねずみ取りを買ってきたのだ。極端な吝嗇家のあの店長が、たかが鼠一匹のために、鼠をとるためにしか使えない、用途のきわめて限られた道具を購入するなど、ほとんど奇跡に近い。
「薬局で買ってきたんだ。どうだ、すごいだろう」
 店長が自慢するそのねずみ取りは、僕などがそれまで考えていたようなねずみ取りとは、だいぶ印象が違った。アニメの「トムとジェリー」に出てくるような、パチンと挟んで捕らえる、とらばさみみたいなものしか想像出来なかったのだが、それは全然違った。組み立て式のボール紙の内側に、強力な粘着質のテープが貼ってあるものである。中を通り抜けようとしたならば、べたべたしたテープに張り付き、動けなくなるという仕組みだ。言うなれば、巨大なゴキブリ取りである。
 それが二枚入りのパックで、ふたつある。合計で四枚の巨大ゴキブリ取りを、店長は買ってきたのだった。
 この四枚を、それぞれ、鼠が通りそうな場所へ仕掛けた。
「捕まりますかね?」
 その夜、店長が帰ってから、赤石が言った。
「さあ」
 僕だって、そんなことは知らない。
「いいかげん、そろそろ捕まらないと、狭くて困るなあ」
  被害を避けるために、スナック菓子やカップラーメンの大部分は、バックルームに移してしまっていた。今のままでは確かに、少し窮屈だ。
「あんなので、捕まるかなあ」
 僕は少し懐疑的だった。
「仮にも、ほ乳類だぜ? 虫を捕まえるのと同じような罠に、引っかかることって、あるのかな」
「そうですね。確かにあれは、馬鹿みたいに単純だった」 
 赤石も神妙な顔でうなずいた。
「今まで、これだけ追い回して捕まらなかったやつが、あんな罠でつかまるって、そんなことあるのかなぁ?」
 それが、どうも、あったらしい。
 
 翌日出勤すると、バックルームのほうで、何か騒いでいた。
「どうしたの?」
 美濃さんを捕まえて、僕は訊いた。
「鼠が、捕まったみたいなの。物音みたいのがするの」
「捕まったの?」
「わからないけど、なんか、すごい音がきこえるから、どうしようって。捕まったのかしら?」
 要領を得ない会話をしていると、店長がこう言った。
「ちょうど良いところに来た。黒木、お前、倉庫見てこい」
 どうやら、仕掛けた罠の方で、鼠のものらしい鳴き声や物音が聞こえるのだけれど、まだ実物を確認したわけではない、ということらしい。僕は懐中電灯を渡されて、倉庫に向かった。
 ドアを開け、電灯をつける。
 物音など、何もしない。それを後ろに立っている店長に言うと、
「馬鹿、全部の罠を確認しろ」
 僕は懐中電灯にスイッチを入れ、部屋のあちこちの暗闇に設置された、巨大ゴキブリ取りを一つずつ照らしだす。
 それはちょうど、三つ目を確認したときだった。最初に逃げていくのが確認された、あの換気口のそばに設置された罠である。
「何か、くっついてるみたいです」
 僕は、棚に上半身つっこんだ窮屈な姿勢で、懐中電灯の光を、巨大ゴキブリ取りに当てた。その罠は、本来は立体的に組み立てるものだが、スペースの都合上、展開したまま、床に広げてある。その端っこのほうに、なにやら黒いものが付着しているのだ。はじめ、手袋か、あるいはなにか、それに似た布状のものがへばりついているのかと、思った。それとも、本当にゴキブリがとれてしまったのか。とにかく、あまりにも静かで、動かなかったのである。
 しかしそれは、鼠だった。鼠が、粘性のテープにべったりと張り付いていた。顔を近づけて、確認してから、僕は息をのんだ。
 慎重に、ねずみ取りごと持ち上げ、倉庫の床の中央に、それを置いた。
 いつの間にか、ドアの外には、人が集まっていた。店長、美濃さん、いつのまにか来ていた赤石。
 鼠は、今まで逃げようとしてもがき続け、疲れ果ててしまったのか。こうして、光の下、衆人環境のなかに置いても、身じろぎもしない。ただ鼻をヒクヒクとさせ、呼吸をし、黒く大きな目をぽかんと開いている。完全に観念してしまったようにも見えた。灰色の毛皮が、呼吸につれて上下している。こんなに小さくても、生きているのだ。
「思ったより、かわいい顔をしているのね」
 と、美濃さんが言った。
「とうとう、捕まっちゃったなあ」
 と、赤石が残念そうに言った。

 この鼠が、倉庫の暗闇を疾走し、捕まえようとする僕らを手こずらせ、スナック菓子を次々と駄目にし、店長を怒らせて来たのだ。怪盗のように鮮やかで、どうすることも出来なかった。しかしそれがいまや、こうして完全な無力な姿を、僕たちの前にさらしている。
 何だか僕は、嫌な気分になった。こんなことをして、良いのだろうか。
 店長が言った。
「黒木、始末しておけ」
 そして、みんな倉庫から出ていった。僕と、美濃さんだけがそこに取り残された。
「ねえ、どうしようか?」
 美濃さんが、顔を歪ませて、言った。どうしようもなにも、僕だって、困る。
 子供のころ、虫だのトカゲだのを殺した経験はあったが、鼠は、ない。そもそも、体温のある生物を殺したこと自体、ない。体が温かいと、変温動物には決して感じないような、生命の重みというやつを感じる。だから、子供心に、人間に近いような気がして、それを殺すのはタブーだったのだ。だいたい、虫だのトカゲだのを殺したのだって、子供の時の話であって、今となれば、それさえも出来るかどうか。単純に言って、生き物を殺すのが、嫌だ。
 しかしまさか、解放するわけには、いかないだろう。第一、こんな強力に粘着した鼠を、どうやって離すというのだ。たとえそれが出来たとして、いや、実際、出来ないことはないかもしれない。だけれど、そんなことをして、何の意味があるというのだろう。もちろん、何の意味もないに決まっているし、そんな面倒なことを、するつもりもない。
 かといって、僕の中に、始末するほどの根拠が思い当たらないのも事実だ。こんな店の、たかがスナック菓子の何袋かが、かじられたところで僕には何ひとつだって不都合はない。実際のところ、たとえ壊滅的なダメージを受けて、店がつぶれたとしたって、ほとんど影響なんかないくらいなのだ。バイト先なんか、ほかにいくらでもあるだろう。
 その僕が、どうして嫌な思いをしてまで、店のために鼠を殺す必要があるのだろう。確かに、鼠のような害獣を放すのは、人の迷惑になる。店長が始末しろといったのに、逃がせば、店長が怒る。でも、それは、社会的な問題にすぎない。僕自身の問題ではなく、僕をとりまく環境の問題にすぎない。僕にとって、そんなことはどうでも良かったはずだろう? だいたい、鼠に罪はない。鼠はただ、自分が生きていくためだけに、食料を確保しただけだ。それは当たり前のことで、誰にも咎める権利なんかないはずだ。
 やるなら、店長が始末するべきなのだ。この鼠を殺す責任があるのは、唯一、あの馬鹿店長だけだ。それをなんだ、逃げやがって。恥ずかしく、ないのだろうか。あの馬鹿店長は、本当に、人間のクズだ。
 そもそも、この鼠は、どうして、こんなつまらない罠に引っかかってしまったのだろう? あんなにすばしこく、僕たちをあざ笑うかのように疾走していたのに、どうして、こんな下らない死に方をするのだ。なんて、馬鹿な鼠なんだ。
 僕は、捕らえられた鼠を前に、どんどん憂鬱になってゆく自分を感じていた。

 ……まったく、情けない話だ。僕は、こんなたかが鼠一匹のことで、何をためらっているのだろう? こんなもの、何にも考えないでひねり殺せばいいんだ。鼠なんか、どうだっていいじゃないか。まったく、どうかしている。世間並の人間だったら、こんなこと、ほんの、朝飯前だったろう。
 だいたい、鼠なんか本当に、くだらない生き物なんだ。小汚くて、こそこそしていて、言葉も理解せず、みっともなくて、嫌われて……ああ、これは、僕が自分自身に持っているイメージと同じじゃないか。そうか、嗚呼、どうやら、僕は、この鼠に自分を重ね合わせているらしいぞ。だから、殺せないってわけか。これは、どうも傑作だ。くそったれめ。……
 
「美濃さん、向こう行ってて」
 僕はそう言って、最後に残った美濃さんも去らせた。
 それから僕は、ねずみ取りを、粘着質に触らないように、つまみあげた。鼠が身もだえして、いやな振動が手に伝わる。

 ……つまり、問題は、考えすぎるってことなんだ。

 僕は、ねずみ取りを、そのまま、大きめのビニール袋にいれて、しっかりと口をしばった。鼠が内側で動いているのかビニールがカサカサとふるえる音がする。僕は、それをゴミ箱にすてた。
  そのまま、立ち去ろうとしたが、背後のゴミ箱のなかから、キーキーと鼠の鳴くか細い声が聞こえた。耳の奥にへばりつくような、嫌な鳴き声だ。
 僕は引き返して、ゴミ箱の脇に積み上げてあった段ボールをつかんで、声の上に、ドサドサと投げ込んだ。何も聞こえなくなるまで、投げ込んだ。

 なに、簡単なことだ。