As time goes by



神田 良輔











「もしもし――小川?神田です」
「ああ……やあ」
 僕は言った。
 電話がかかって来たときにはヘッドホンで音楽を聞いていて、アシッドに身体全体が浸っていて、でろでろだった。
 最近はよく音楽を聴いて過ごしている。音楽を聴いている間はなにもしない。ただベッドに横になって、天井を見たり目を閉じたりする。
「おひさしぶり」
「ああ」僕は言った。「ひさしぶりだ――すごくひさしぶりだね」
「今、実家にいるんだって?」
「――ああ」
 急に意識が鮮明になった。天井の染みの、子供の頃からの愛着がよみがえる。
「なにをしていた?」
「いや」僕は少し考えた。「なにもしていなかった」
「良かったら、今から出てこないか?」
「今から?」
「ああ。久しぶりに話でもしないか?」
「いいね」
 全然乗り気ではなかったけれどそう言った。
 少し間があって、それを厭うだけの社交能力が残っていたせいだった。本心では早く電話を切りたかった。後にはなにも残したくない。
 無駄な社交性だ。
「よかった」神田は言った。「では、おまえの家の前に着いたら電話するよ。30分くらいでいいかな?」
「わかった。支度しておく」
 僕は言った。



 電話がたまたま枕元にあったことを僕は恨んだ。僕にはほとんど電話はかかって来ないし、どうして枕元にあったのかさえよくわからない。充電をしたのはいつだったろう?
 電話が切れてしまうと、約束だけが残った。パジャマを脱ぎ、服を着ようと思ったがまともな服は部屋の中になかった。
 仕方なく両親の部屋に入った。両親ともに出かけていることは知っているが、それでもこの部屋は独特の空気を持っていて僕を拒む。西日が差し、様々な生活用品を照らす。炬燵、雑誌、ごみ箱、湯飲み茶碗、ボールペン。きちんとたたまれた布団、ハンガーにかかったスーツとカーディガン。初老に差し掛かった両親の生活のにおいを嗅ぐことは不愉快以外ののなにものでもない。
 箪笥を開き靴下とジーンズとシャツをとった。どれも古い。神田にはそれがばれてしまうかもしれない。でもそれ以外に着ていく服なんてなかった。僕はそれを身につけた。
 洗面所に行って顔を洗い、髭を剃る。父のワックスを使って髪を撫でつけ、無駄に伸びた髪を押さえつけた。
 鏡をのぞき込んだ。僕の顔は多少ましになったように見えた。致命的に不格好な輪郭が気にかかるが、少なくとも肌に張りが戻った。
 電話と財布をもって家の外に出た。
 まだ外は明るさが残っていた。陽が残っている間に外に出るのは、数ヶ月ぶりだった。








「という小説の書き出しを思いついた」
 神田は言った。
「なんで俺が主役なんだ?」小川は言った。
「暗い。とても暗い小説になる」神田は無視して言う「学校を辞め、就職をする勇気もなくなって実家に戻ってきた小川は、古くからの友人である俺と再会することで、生活を立て直すきっかけを作る」
「いいね」
 向田が言った。
「自分を卑下する誘惑と戦いながら、わずかなプライドを残して旧友と向かい合う男――それってセクシー?」
「だろ?」神田は得意げに言う。







 彼女は自分が静かな女であることを自覚していた。
 それ以外に特徴と呼べるものはない。そう思い切るのはなかなか時間がかかったが、おおきく深呼吸して冷静に自分のことを考えると、やっぱり自分は平凡な特徴のない女であるとしか思えなかった。
 そのことを、彼女は自分の親友に言ってみた。ねえ、私は平凡な、特徴のない女だと思う、と。
 すると、親友は怒ったような口調になって、長々と喋った。
「ふざけたことを言って。自分に個性がない?そりゃそうよ。誰だって個性なんてものはないの。あなたに個性を見つけて欲しいの?言ってあげることだって出来るよ、『あなたにはかわいらしいひとみと男の子が好きそうなふっくらとした頬がある、とか。でもそんなの特徴じゃない、ってあなたは思ってるわけでしょ。そうよそのとおり、そんなの特徴でもなんでもない。誰だって個性なんていうものはないのよ。そのことに今まで気がつかなかったの?」
 違う、私のいいたいのはそういうことじゃない、と迫力に負けそうになりながら、彼女は言った。たとえば恵美ちゃんはすごく頭がいいし、いつも綺麗だし、私からみてもすごく魅力的だと思う。でも、私はそういうことなんかないから、一生懸命努力をしなければいけないんじゃないかなあ。
 すると、親友はさらに怒った。
「だ。か。ら。そういうことじゃないって。個性は自分がアピールするものだし、そうありたいていうことがなければ誰だって個性なんて身に付かないってこと。なんでそんなことがわかんないかなあ?私は頭が良くなりたいし、いつも綺麗でいたいからそう見えるだけ。あなたも甘ったれたこと言ってないで、自分でなんとかしなさい」
 うん、甘えててごめんね、と彼女は言った。そう言いながら悲しくなってきたのは、彼女がすごく正しいことを言っているし、そんな正しいことを言ってくれる彼女がとてもありがたかったからだった。

 彼女は親友と前もって決めていた通り、ファミリーレストランに車を止めた。親友は怒っているふうで、黙って車を降りてしまった。彼女はキーを確かめライトを消して後を追った。
 親友はレジの前で待っていてくれていた。彼女は目をちらりと向けてから、トイレに向かった。泣いている顔を少しでも元に戻さないといけないと思ったからだった。こういうことは黙ってやった方がいいと、親友から教わったことがあった。
 トイレから出ると、親友は窓際の席に座って、彼女を待っていた。







「という小説を私は考えたのだけど」
と向田は言った。
「ふうむ。悪くないんじゃないかな」神田は言う。
「しかしだね」神田が続けた。「この後の展開はどうするのか?悪くないのは、ワンシーンとしてだ。おまえは前に言っていたね。小説とは、長編でないと、いや、人生を描いたものでないと意味がないと。こういう小説であるならば、それこそおまえは彼女らの人生に責任を持つべきだと思うね。どうせ先の展開なぞ、考えていないのだろう?」
「実はその通りだけどさ」向田が顔をしかめて答える。
「厳しいね」小川は言う。
「原則だよ」神田は答えた。






 煙草に火をつけて、僕は神田の車を待った。3本吸う間に、神田の車がやってきた。それを見つけるのと同時に、持っていた煙草を踏みつけた。神田の車はすぐにわかった。一目で外車とわかる、直線の多い形の小さな車でこの道を通る車なんてほとんどない。
「やあ、小川久しぶり」
「や」
 神田は小さめの、身体の線がよくわかるスーツを着ていた。全身が真っ黒で、どれもとても金がかかったもののように見える。
 でもそれを見ると、僕はなにかしらほっとした。もっと地味な車で普通の服を着てこられる方がイヤだっただろう。
「ひさしぶりだね」
「ひさしぶり」
 人と話をすること自体がとても久しぶりだった。
 こんな姿の神田は見たことがなかったが、それでも顔を見ると昔のままの彼が思い出された。僕らはかつては毎日のように一緒にいたのだ。髭を生やしてるわけでも、髪を伸ばしているわけでもなかった。
 車は国道に出ていった。流れていくヘッドライトの他には、ほとんど灯りが見えない。すべての車がものすごくスピードを出している。神田の車も、それに習ってスピードをあげた。
「今なにをしてる?」僕は尋ねた。
「――おまえは?」
「なにもしていない」
 僕は言った。自嘲的になるのが押さえられなかった。
「俺はね……まあくだらない会社で働いているよ。なにも話すことがないくらいつまらない仕事をしてる」
 神田は言った。
「俺になんの用があった?」
「情報収集」
 神田は答えて、少し笑った。
 僕も笑って答える。



 神田が尋ねるままに、僕は自分のことを話した。
 浪人している間はうっくつした、孤独な生活をしていたこと、大学に入って劇団のサークルに入ったこと、その中である女の子と知り合ったこと、一緒に住んでいたこと、わずかな時期に僕が彼女を追い出してしまったこと、そしてそれをすごく後悔していたこと。
 大学を辞め、地元に戻ってきたことまで、僕は話すことが出来た。神田はほとんど僕の話に口を挟まなかった。時折、熱っぽくなりすぎる自分をおさえなければならないくらいだった。
 神田はそういう間もほとんど口を挟まなかった。黙っている時は好きに黙らせてくれた。僕はそういう心遣いに感謝し、喋り続けた。
「くだらない話ではあるな」
僕は言った。
「いや」
神田は短く答えた。
「人生はいろいろなことがつきまとってくる。つきまとってこない人生なんてないさ」
 神田は答えた。
「神田」
 僕は言った。
「おまえはどうやって来たんだ?」
「なあ小川。腹が減らないか?」
 神田はそういうと、車を右に寄せ。ウィンカーを出した。先にはファミリーレストランがあった。
「減ったな」
「なにか食おう」
神田は言った。





「ファミレス?」
向田が言った。
「あんたね。小説に責任とれなんて言っておいて、なによそれ。私の小説見てから書いたでしょ、これ」
「実はそのとおり」
神田は言った。
「小説とは人生だ。誰も人生に責任なんてとれやしないさ」
「開き直りかよ」向田は言う。「つうかなんだよ、それ!」
「まあまあ」小川は言った。
「どうすんのよ。私にオチをつけろって?私なにも考えてないよ」
「いや、どうしてくれとも言わない」神田は言った。「ただ、おまえがどうこうしてくれてもいい、という許可を俺は出すだけだ。おまえだって、先を作りやすくなったのじゃないか?」
「そんなことないって!」
「だったら、無視してくれていいよ。とにかく自分の小説に責任もってくれればいい。俺は俺で、俺の小説にケリをつけるさ」
 向田はしばらくディスプレイを眺めた。神田を無視してやろうというつもりだと、小川には思えた。
 しばらくそうした後で、向田は溜息をついた。あきらめたように、神田に向き直る。
「じゃ、私がオチをつけるわよ。いい?」
「オッケー」
神田が答える。







 親友はまだ起こった風だった。けっこう時間が過ぎてしまっていたようで、テーブルには彼女の分と親友の分の二つのコーヒーが置かれていた。彼女もまだ口をつけていなかった。
 彼女はコーヒーに口をつけ、そしてなにを喋れば良いか迷った。親友は煙草を吸い、コーヒーには口をつけずに黙っている。怒ったふうでいるので、彼女はなにも喋れなかった。
親友は喋らないとずっと喋らないでいる。そのことを知っているのだけど――なんの気なしに目をやると、通路とついたてを挟んだ向こうに神田の姿が見えた。男の友達と二人連れだ。彼は高校のころの同級生で、高校時代に別れたきりではあったが、それでもすぐにわかった。それによく見ると、となりにいるのは小川だった。髪の毛が長くなっていて、すぐに気がつかなかった。昔はいつもさっぱりとしていたイメージがある。
「ねえ。小川くんと神田くんがいる」
 彼女は言った。親友はすぐに振り返る。
「あ、ほんとだ」
 そういうと、すぐにまた目を戻してしまった。
「ねえ、高校を卒業してから、会った?」
「会ってないよ」親友は答える。
「ああ、なんかすごく久しぶりだねえ」
 親友はまた、ちらりと二人の様子に目をやる。
「声をかけてくればいいじゃない?」
「え」彼女はちょっとくちごもって言った。「でも、恵美ちゃんの方が仲が良かったじゃない」
「あなただって、別に悪くなかったでしょ」
「そうだけど――だって久しぶりだし」
「わたしだって」
 彼女はしばらくちらちらと二人を眺めた。向こうが気がついてくれれば、なんらかのきっかけもつかめるんじゃないかと思った。
 彼ら二人は高校時代の同級生で、比較的仲良く話をしていた。どこかに外出したりとかはしなかったけれど――だって、高校の頃は、仲の良い男友達ていうのはありえなかったのだ――、それでもとても親しみを持っておしゃべりをしていたともだちだった。
 彼女は、あの二人とは楽しく喋ることが出来る気がしてたまらなかった。あのころはもっと自分のことばかり考えていたはずだったのだけれど、それでも仲良くおしゃべりが出来たのだった。それほど悪くないつきあいが、これからも出来る気がする、と彼女は思った。
「声をかけようか」
と彼女は言うのと同時に、神田と小川の二人は席を立った。通路を曲がりこちらの方に近づいてくる。親友も二人を見ていた。
「行っちゃうよ」
 親友は言った。彼女は二人の様子がわかってきた。小川も神田もすごく不愉快な顔をして、縦に距離を置いたまま話をしない。喧嘩をした後のような雰囲気だった。少なくとも、高校時代には、あんな表情をしていなかった。
 それを見ていると、なんだか声をかけそびれた。二人は彼女たちに気がつくことなくレジに行った。小川は一声かけて、会計する神田の脇を出て行った。神田もスムースに金を払い、そして出て行ってしまった。
 扉の位置は遠く、いくつかの席とついたてに遮られてなにも見えなかった。もちろんそうして見ていても、また二人がそこから出てくることはなかった。窓の外に目をやってみたが、そちらに駐車場はないことはわかっていた。もう二人は車に乗ってしまったのだろう。
 そう思うと、なんだか気が抜けてしまった。なんだかすごいきっかけを逃したような、そんな気に彼女はなった。
「ねえ、私たちも出ない?」
親友は言った。
「あーあ。明日も仕事だし。帰ってネットでもして寝ようよ」
「珈琲残ってるよ」
「あんまり飲みたくない」親友は言った。「いこ」
 立ち上がる親友を見て、彼女も立ち上がった。







「ていうか、オチついてないだろ!これ」
神田は言った。
「いやあ、私ね、オチのつくような小説もう飽きちゃったのよ」
「いやいやいや。ていうかなんで二人は険悪になってるんだ?その理由は?」
「だって、あの男二人は久しぶりに会ったんでしょ?ズレがある分だけ、仲良く出来るわけないじゃない」
「そうだとしたら説明必要だろう」
「いらないよ。不愉快な描写になるだけじゃん」
「ていうかそんなんでエンドマークつけていいのかよ。エンターティメントてそんなもんじゃないだろう」
「エンターティメントだよ。小説てエンタティメント以外のなんなわけ?」
 へりくつだ、と小川は思った。
「私最近ドリフのビデオ見たんだけどさ。あれ覚えてる?けっこう適当な終わりなんだよ。中盤まで笑わせといて、オチは全然おもしろくない。建物が壊れるのばっか。そんなところに力点はないよ。ようは、どんな中盤であったかが、一番大事なことであるわけで。そういうのがあってもいいんじゃないかな」
「おもしろいかおもしろくないかで言うと、つまんないぞ」
「いや、私はけっこういいと思ったよ。オチなんてどうとでもつくんだよ」向田は言った。「建物が壊れるようなものであれば」
「つってもなあ」
「あ、メッセージは込めたつもりだけどね」
向田は答える。
「どんな?」
神田が尋ねる。
「As time goes by. life is going on. ねえ。作中で神田も言ってるけど、人生ってそういうものじゃない?どんな人生だって、引き受けたものがあるんだよ。それは解決と未決を引きずって、それでもなんとなくうまくいって、死んじゃうんだから。小説の中の人間だって、もっといろんなことがあって、それでなんとか形になって死んでいくんだよ」
「じゃ、長編書いてよ」
小川は言った。