屋上



永瀬真史




気がつくと屋上から街を眺めていた。空には大きな白い雲が一つ青い空の中をゆっくりと流れていた。手を伸ばせば地上に行き来する人々や車を掴む事ができそうだった。僕は手を伸ばしてみた。掌を広げて小さな車のミニチュアを握ってみる。手の中にあるはずの車は無く、ただ空気を掴むだけだった。バランスを崩して落ちそうになった。あわてて体勢を立て直す。心臓が強く波打つのが分かった。

今から死のうと思っていた。飛び降りてしまえば楽になる。そう思って屋上までやってきたのだった。フェンスを乗り越えて屋上の端の一段高くなったところに上ってまるでドラマのワンシーンみたいに街を見下ろしていた。今までどれくらいの人がこうやって屋上から見下ろしたのだろうか。そんなことを考えていた。


僕の居場所なんて無かった。何処にいても息苦しかった。この世界は人と人の醜いやり取りだけがだけが眼にはいってくる。思ってもいない事を口から吐き出し、偽りの笑顔で溢れていた。馴れ合いの世界なんだ此処は。

口数の少ない僕に誰も関わらなかった。変わり者だけが声を掛けてきたが、僕はただ相槌だけを打っていた。変わり者は自分の趣味の事を語り掛けてきた。自分の趣味を理解してくれる人がいないんだと彼は言っていた。僕はただ、そうかとだけ答えていた。彼は自分の趣味のことを悪く言う奴がいるんだと話した。君なら理解してくれると思うと彼は言った。僕は、君は変わった人だねと答えた。更に、僕と君は気が合いそうにないと言った。彼は悲しそうな顔をして去っていった。そして死んだ。


気がつくと屋上から街を眺めていた。空は曇り空へと変わり、太陽を覆い隠した。遺書は残されていなかった。だから、彼が何故死んだのか分からない。僕は彼がどうして死のうとしたのかを考えた。他人の事を考えるのは初めてだった。彼もこうやって屋上の隅に立って街を眺めたのだろうか。怖くはなかったのだろうか。鳥が曇った空を飛んでいる。その姿は青い空を飛んでいるのと少し違っていた。優雅なイメージとは程遠く、まるで何かから逃げるかのような姿だった。雲に包まれては抜け出し、また雲の中へ入っていく。何かに捕まりそうになりつつも、間一髪で逃げているようだった。しばらくすると鳥は見えなくなった

風が僕の髪を揺らした。暖かい風でも涼しい風でもなかった。湿気を帯びた嫌な風だった。救急車のサイレンが遠くで響いた。何処かで事故でも起きたのかなと思った。あれ?ここはどこだろう。どうしてこんな所にいるんだろう。早く行かなくちゃ。

雲の隙間から一筋の光が差し込んだ。その光の筋の先には一つの花で落ちていた。薄汚い灰色の羽。屋上にはもう誰の姿も無かった。